8-3

 陽の傾き始めた渓谷に、リュカの声がこだまする。

 倒れた兄を抱きかかえ、リュカは何度も兄に呼びかけた。けれど、兄の瞳は固く閉ざされ、呼吸も脈も、酷く弱くなっていた。リュカの背中を、冷たい汗が伝う。

 とにかく、この渓谷を出なければ。

 でも、どっちへ行けば良いのか分からない。

 兄を抱き上げ、左右を見回し、リュカが唇を噛んだとき、

『こっちよ!』

 頭の上で、声がした。

『こっち! 私についてきて。早く! 私の魔法が解けてしまう前に』

 見上げると、一羽の金糸雀カナリアが羽ばたいている。本物じゃない。布で作られた玩具の金糸雀だ。

『急いで!』

 金糸雀が飛ぶ。うなずいて、リュカも駆け出した。

 走って、走って、渓谷を抜ける。

 渓谷を離れると、リュカの姿は狼に変わった。抱えていた兄を、今度は背負い、リュカは金糸雀の導くまま、ひたすらに走り続けた。

 どうか。

 どうか。

 兄さんを、助けて。



 陽が沈むまで駆け続けると、岬に行き着いた。煉瓦れんが造りの小さな家が、一軒だけ、ひっそりと建っている。明かりが点いていて、ドアは開け放たれていた。金糸雀カナリアが家の中へ入っていく。息を切らしながら、リュカもすがる思いでポーチに上がる。

 足音が、聞こえた。

「よく頑張って走ったわね。もう大丈夫よ」

 ひとりの女性が、出迎えた。長いプラチナブロンドを結い上げた髪。エメラルドのように澄んだみどりの瞳。歳は兄と同じくらいだろうか。すらりと背が高く、深紫のローブをまとっている。

 女性は、リュカの背中から、おもむろに兄を抱え上げた。リュカは驚いて女性を見た。兄は確かに細身だけれど、背は高い。華奢な女性が易々やすやすと運べる体では……そう、瞬きをしたところで、リュカは気づいた。女性の腕の上で、兄の体は、僅かに浮いている。

「魔法よ。私、そこまで力持ちじゃないわ」

 リュカを振り返り、女性は、ふふっと笑った。

 金糸雀カナリアから聞こえた声と、同じ声だった。



 女性が兄を運んだのは、玄関を入ってすぐ横にある客間だった。

 兄をベッドに横たえると、女性は、すぐさま兄の体の上に魔法陣を展開した。

 回復魔法だった。

 シーツの上で力なく開かれた兄の手に、リュカは目を落とす。手を握りたいのに、狼の体では、それは叶わない。

「……私たち魔法使いはね」

 女性が静かに、口を開く。

「魔力と生命力は連動するの。魔力が消費されれば、その負荷によって、生命力も削られる。……普通の魔法使いは、生命力ほどの魔力はない……魔力よりも生命力のほうが多いから、たとえ魔力を使い果たしたとしても、死ぬことはないの」

 でも、貴方のお兄さんは、違う。

「稀にいるのよ。生命力以上の魔力を持つ魔法使いが……その魔法使いは、強大な魔法を使うことができる反面、ともすれば生命力を超えた魔法まで使えてしまう。魔力の限界よりも先に、命の限界が来るの」

 魔法陣の光が、女性の瞳のかげを揺らめかせる。うれうような、いたわるような、深い彩で。

「あの渓谷は、魔力を吸い取るの。大抵の魔法使いは、あの渓谷に足を踏み入れただけで、何の魔法も使えなくなるわ。私も、金糸雀カナリアを飛ばすだけで精一杯だった。なのに、貴方のお兄さんは、あれだけの魔法を使えた……至極、驚異的なことよ」

 だからこそ、命の危機にさらされた。

 あのまま、あの渓谷で、魔力を吸い取られ続ければ、魔力よりも先に、兄の命が尽きていた。

 床についた手に、リュカはこぶしを握るように、力を込める。

 兄さん……。



「もう大丈夫」

 やがて、女性は静かに魔法陣を収め、リュカに向かって微笑みかけた。

 蒼白だった兄の顔に血色が戻り、弱まっていた呼吸と脈も回復している。

「あとは目覚めるのを待つだけ」

『っ……! ありがとうございます……本当に……』

 言葉で伝えられず、もどかしい。お辞儀をしていたリュカに、女性は微笑んでうなずいた。

「夕食にしましょう。妹が用意してくれているの。貴方は干し肉で良いかしら」

 ここへ持ってくるから待っていて。

 兄が目覚めるまで傍にいたいというリュカの気持ちを、女性はんでくれた。

 女性はニナ、妹はサラという名前だった。サラはリュカと同い年くらいで、姉と同じプラチナブロンドの髪とエメラルドの瞳をしていた。ただ、姉と違って、髪は短く、肩の上で切り揃えている。

「貴方の道案内に使った金糸雀カナリアのぬいぐるみは、サラが作ったのよ」

 可愛いでしょう、とニナがキャビネットの上を示す。金糸雀カナリアの他にも、駒鳥や鶺鴒セキレイなど、いろんな鳥のぬいぐるみが並んでいる。

「……鳥が好きなの」

 リュカの前に干し肉の入った皿を置きながら、サラは頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべた。


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