8-4

 兄は、翌日になっても目覚めなかった。

 夜。リュカは兄の手を、そっと握る。

 新月だった。

 星明かりが、窓から淡く射して、兄とリュカを、ほのかに照らしている。

 しばらくして、ニナが様子を見に来た。獣化の魔法のことは、先刻、夕食の前に話してある。

「なかなか意識が戻らないわね」

 ニナが僅かに顔を曇らせる。

 兄の手を、リュカは、ぎゅっと握った。力なく解かれたままの手。その温もりを、確かめる。

「……貴方も難儀ね」

 ニナが、そっといたわるようにささやいた。

稀有けうな魔法を、その体に、ふたつもかけられているなんて」

「……え……?」

 リュカは瞠目し、顔を上げる。

「ふたつ……?」

 聞き間違いかと思った。自分にかけられている魔法は、狼の姿になる魔法だけのはず。

 けれど、ニナは逆に、小首をかしげた。

「知らないの? 自分で、気づいていないの?」

 どくり、と、リュカの心臓が波打つ。

 かけられた魔法が、ふたつ?

 どんな魔法を?

 何の魔法を?

「……そんなこと、兄さんは、一言も……」

 兄も知らなかった?

 兄も気づかなかった?

 そんなはずない。

 兄が知らないなんて。

 兄が気づかないなんて。

 そんなこと、あるはずがない。

「……知っていて……気づいていて……俺に、言わなかった……?」

 愕然とするリュカに、ニナは、いざなうように微笑んだ。

「知りたいなら、ついてきて。貴方には、知る権利がある」

 貴方にかけられた、もうひとつの魔法のこと。

 ドアを開け、ニナが促す。リュカは唇を引き結んだ。

 兄の手を、もう一度、ぎゅっと握り、そして、ゆっくりと、リュカは離した。



 海岸線に沿って、歩いていく。左側には岩肌がせまり、次第に道が細くなっていく。

「着くまでに少し、昔話をしましょう」

 振り返らないまま、歩調も変えずに、ニナは淡々とした口調で言った。

「昔話?」

「そう。この国で、魔法使いが弾圧されていた頃の、ある姉妹の話」

「弾圧……」

 それは、兄と、兄の師匠が言っていた、《空白の歴史》の……。

「数百年も昔の話よ。姉と妹は、そろって魔女狩りにった。必死で逃げたけれど、妹は瀕死、姉も重傷を負った。それでもなんとか始祖のところまで逃げ延びて、こいねがったの。姉は妹を、妹は姉を、どうか死なせないでほしいと」

 始祖。最初に魔法を生み出し、広めた、始まりの魔法使い。

「始祖は姉妹の願いを聞き届けた。従属と引き換えに、始祖はみずからの命を分け与え、姉妹の命は繋ぎとめられたの」

「……命を、分け与える……」

 そんな魔法が存在するなんて……。

「始祖は言ったわ……命は、硝子でできた砂時計のようなものだと。命の砂がからになった後、砂時計が割れて、真に死を迎える。死者にいくら命を注いでも生き返ることがないのは、命の砂時計が割れてしまっているから。……逆に言えば、命の砂が空になっても、砂時計が割れるまでの僅かなあいだに、命の砂を注ぎ入れれば、死から救うことができるの」

 限りなく死者に近い生者として。

「命の砂がからになったら、もう回復魔法は効かない。回復させるべき命が、そこにないから。でも、命の砂を注ぎ入れれば、救える。その魔法は、回復魔法の、さらに上位……蘇生魔法と、始祖は名付けていた」

「……蘇生魔法……」

 他者に、みずからの命を、注ぎ入れる魔法。

「そう。そして、蘇生魔法をかけられた人間は、歳を取らない。成長も、老化もしない。注がれた命で生きてはいるけれど、体は死者と同じなの」

 心は生きているのに体は死んでいる。その状態を、真に生きていると呼べるなら、だけれど。

「誰にでも使える魔法じゃないわ。始祖は、その魔法を、誰にも伝承しなかった。始祖以外に、その魔法は使えない……使えなかった。もし、使える人間が現れるとすれば、それは、その魔法使い自身が創り出した独自の魔法よ」

 命に干渉する新しい魔法の発明。そんなことができる魔法使いは、百年に一人の逸材でしょうね。

「……その魔法……」

 足が止まる。リュカの声が、かすれた。

「命を分け与える側の命は、どうなるんですか……?」

 海風が、リュカとニナのあいだを、強く吹き抜けていく。

 数歩、歩いたところで、ニナも立ち止まった。

「命の総量は変わらない。分け与える側の命は、その分、短くなっていく」

 ただ……と、そこでニナは言葉を切り、僅かに沈黙を挟むと、再び続けた。

「始祖の命は潤沢だった。始祖自身にも、命を永らえる魔法がかけられていたから。以来、数百年、姉妹は始祖に命の供給を受けて、今も生き続けている。始祖の命が終わるまで。あるいは事故か何かで、姉妹の命の砂時計が砕けるまで」

「命を永らえる魔法……? 魔法は、使い手自身にはかけられないんじゃ……」

「始祖は一人じゃない。双子だったの。全く同じ姿をしていたから、《空白の歴史》の混乱の中で伝承がたがえ、始祖は一人だと後世に伝わってしまっただけ。ふたりだから、互いに魔法をかけ合えた。始祖が姉妹の願いを叶えてくれたのは、それが、始祖の双子と同じ願いだったから」

 どうか、死なせないで。

 どうか、生きて。

「……その魔法が……」

 ぐっと、リュカはこぶしを握りしめる。

 信じたくない。

 嘘であってほしい。

 違うと言って。

 大丈夫だと笑って。

 ねぇ、兄さん。

 兄さん……。

「俺にも、かけられている……?」

 この体は。

 この命は。

「……兄さん……の……」

 震えるリュカの声が、足もとに落ちていく。

 ニナは静かに振り返った。

 巨大な洞窟が、ニナの向こうに、ひっそりとたたずんでいる。黒い石でできた洞窟だった。その石は、まるで星空のように、瞬く小さな光を無数に内包し、輝いている。

「ここは《世界の記憶庫》。この洞窟の石、全てが《記憶石》。私たち姉妹が、始祖の命を受けて、守護と管理をしているところ」

 兄の持つ地図に記された、六つめの地。

「渓谷で貴方たちを助けたのも、始祖が、そう命令したから」

 貴方を、ここへ連れてくることも。

「貴方の知らない……あの夜の記憶も、ここに保管されているわ」

 皆既月食ブラッドムーンの夜の、真実も。

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