9-6

 肩を揺さぶる小さな手に、リュカは目を開けた。木彫りの人形だった。

 風が頬を撫でる。あの石の空間は消えていて、頭上には、夜明け前の藍色の空が広がっている。

 辺りは一面、砕けた巨石の海だった。けれど、リュカと人形のいるところだけ、瓦礫がない。

 兄が守ってくれたのだ。

「兄さん……」

 周りを見回す。兄の姿は見えない。

「兄さん!」

 瓦礫に足を取られながら、リュカは兄を探して走る。

 やがて、空が白み始めた。

 夜が明ける。

 新月の夜が終わる。

(……変わってくれ……)

 黎明の空に、リュカは心の中で叫ぶ。

(狼の姿に、変わってくれ……!)

 兄は無事だと、教えてくれ。

(兄さん……!)

 走って、走って、リュカは足を止める。

 瓦礫のない場所が、あった。

 二股に分かれた大木。

 その根もとに、倒れた兄の姿を、見つけた。

「兄さん!」

 駆け寄り、兄を抱き起こす。

 けれど、兄の瞳は、固く閉ざされたままで。

 その体に、いつもの温もりはなくて。

「……兄さん……?」

 朝陽が射す。

 どうして、兄さん。

 どうして、息をしていないの。

 どうして、心臓が、動いていないの。

 朝が来たのに。

 新月の夜が、終わったのに。

 どうして、俺の体は、人の姿のまま、狼に変わらないの。

『……命の限界を超える魔力を、使ったんだ』

 人形は言った。リュカと相対していた人形と同じ形の、けれど別の人形だった。

『僕らを、守るために』

 降り注ぐ朝陽が、リュカを照らす。

 人の姿に戻ったリュカを、残酷に照らす。

「……いやだ……いやだ……兄さん……」

 兄を抱きしめ、顔をうずめる。けれど、そこに温もりはなく、命の音も聴こえない。

「……兄さん……っ!」

 どうして、自分には、魔法が使えないのだろう。

 どうして、自分には、魔力が欠片もないのだろう。

 兄は助けてくれたのに。

 魔法で、リュカを、助けてくれたのに。

 命さえ、与えてくれたのに。

「……兄さん……」

 リュカの嗚咽おえつが、冷たい石の床に落ちていく。

 ふわり。刹那、リュカの耳を、柔らかなものがかすめた。

 雪だった。

 朝の光の中を、雪が、舞っている。

 晴れ渡る空から。

 雪の降る季節でもないのに。

『魔力のひずみだ……』

 人形が呟く。始祖の空間の中でリュカと相対していた人形だ。

『強い魔力の負荷がかかったことで、この場所に魔力のひずみが生じたんだ』

 人形が、ぐっと手を握り込む。

 魔力のひずみは、皆既月食ブラッドムーンに匹敵するほど、願いの力が強さを増す。

 リュカを見つめ、人形は言った。

『リュカ、聞いて。君は、彼を、助けられるかもしれない』

「……俺が……?」

 人形の言葉に、リュカは顔を上げ、瞳を揺らした。

 人形がうなずく。

『彼の命の砂は失われたけれど、砂時計は、まだ砕けていない。今なら、間に合う』

 君が、蘇生魔法を、望むなら。

「……魔法……? ……どうやって……俺には、魔力が……」

『魔力なら、ある』

 人形が、視線で、兄を示す。

『命はなくなってしまったけれど、彼の体には、まだ使い果たされていない魔力が残っている。僕らも力を貸す。僕らの魔力を呼水よびみずに、彼の魔力を引き出す。そこに、君の願いを重ねるんだ』

 魔法に必要なのは、魔力と、願いだ。

 願いの力が強いほど、魔法も確かなものになる。

『彼の魔力には、彼の願いも宿っている。彼の願いと、君の願いが、共鳴したとき、君は彼の魔力で、彼と一緒に魔法を使える』

 それは、奇跡に他ならない。

 魔力のひずみが起きている今でなければ。

 願いが共鳴するほどの、強い絆が、そこになければ。

 決して起こりえない、奇跡の魔法。

(……兄さん)

 兄を、強く抱きしめる。

(俺の願いを、どうか叶えて)

 人形が、互いに手を繋ぎ、ひざまずく。

 地面に大きく、白い光の魔法陣が展開する。

 それは、ふたりの始祖の、最後の魔法だった。

 白い光が、リュカと兄を包んでいく。

 目を閉じて、リュカは願った。


――ふたりで、一緒に、生きたい。


 ねぇ、兄さん。

 兄さんの手は、ずっと、与えるばかりだった。

 差し伸べて、施して、欲しがらない手だった。

 受け取ってよ、兄さん。

 望んでよ。

 願ってよ。


――生きたい、って。


 白い光の魔法陣に、青い光が灯る。ゆらめきながら、輝いていく。続いて、追いかけるように、支えるように、青い光の下から、赤い光が灯った。


――生きよう、兄さん。


 新たな魔法陣が、広がる。

 青と赤の、ふたつの光は、重なり合い、混じり合い、空に届くほどのまばゆさで、

 ふたりを包み込んだ。


――一緒に、生きよう。


 兄さんがくれた命。

 半分を、兄さんに。

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