9-3
クラウスを乗せた立方体が止まったのは、木の幹の一部が白い石を侵食して張り出した壁の前だった。
「……この木……」
立ち上がったクラウスが、幹に触れようとしたとき、
『初めまして、クラウス』
軽やかな声が、頭上から聞こえた。少年の声だった。見上げると、小さな木彫りの人形が、幹から伸びる枝に腰掛けて、クラウスを見下ろしている。
「貴方が、始祖……」
『そうだよ。この世界で最初の魔法使い』
歌うような口調で、人形は答えた。
「リュカは……弟は、どこに? 無事なのですか?」
『安心して。こっちからは、何も危害を加えていないよ。……君たち、本当に全く同じことを訊くんだね』
ふふっと肩をすくめて、人形は笑った。
「同じこと……?」
『そうだよ。向こうで、僕の片割れが、君の弟と相対している。僕らの、人としての肉体は、とうに滅びたけれど、その代わり、魔法で、この国中に《目》と《耳》を張り巡らせた。僕らは、互いに、見たもの、聞いたことを、共有できるんだよ』
まるで、ひとりのように。
『クラウス。君が僕らを訪ねてきた目的は知っているよ。君の弟にかかっている、獣化の魔法を解く方法について、僕らの知識と知恵を借りるためだろう?』
「……はい」
クラウスは、
『僕らに解いてもらおうと考えないところが、好ましいね』
人形が、楽しむように、足を交互に揺らす。
『結論から言おう。君にも、僕らにも、その魔法は解けない』
「……っ、どうして……」
顔を上げ、クラウスは人形を見つめる。
人形は答えた。
『その魔法に、君自身の願いが深く関わっていて、なおかつ、君自身の願いのみによってかけられているものではないからだよ』
ぴょん、と人形は枝から飛び降り、クラウスの目の高さにある立方体の上に立った。
『魔法は、魔力と願いが合わさって、初めて発動する。……これを叶えたい、あれを叶えたい……人間が折々抱く様々な願いを、魔力で叶えるのが、魔法の仕組みだ。そして通常、魔法の使い手と、願い手と呼ぶべき人間は、必然的に、同じになる。たとえ誰かのために使う魔法であっても、誰かのためにこれをしてあげたいという使い手の願いに基づくものだから』
けれど、あの夜、通常なら起こりえないはずの例外が生じた。幾重にも重なった偶然。それが、針の先ほどの、ほんの僅かな、魔法の仕組みの穴を突いた。魔法の使い手と、願い手が、別の人間になるという、本来ありえない奇跡を生んで。
『一つめの条件は、魔力。あの夜、君は、蘇生魔法を、初めて使った。……弟を助けるために、必死だったからだろう……必要以上の魔力が、注がれていた。あのとき、あの場には、余剰となった魔力が
君自身は、そんなこと、気づく余裕なんてなかっただろうけれど。
『そこに、二つめの条件だ。あの夜は、
けれど、それだけでは、魔法の使い手の願いが叶うだけで完結するだろう。
『決定的だったのは、三つめの条件……君が
――弟の願いが叶いますように。
クラウスは、愕然と立ち尽くす。
魔力を持たないリュカは、魔法を使えない。
けれど、あの瞬間、蘇生魔法に使われず
それは、いうなれば、リュカが、クラウスの魔力を借りて、自身に魔法をかけた状態。
獣化の魔法は、リュカが、リュカ自身にかけた魔法。
『もちろん、君の弟にも、君にも、そんな自覚はなかっただろう。僕らも信じ難かった。魔法は使い手自身にはかけられないっていう、絶対の
だって、普通は、いないだろう?
相手が何を願っているのかも分からないのに。
相手の願いが叶うことを、無条件に、一番に願う人間なんて。
『どうして狼だったのかは……もしかしたら、人の体で殺されかけて、無意識に、人よりも強いものにならなければと思ったんじゃないかな。負った傷もすぐに治る、勇者を守る強い狼……この国で有名な童話に、そんな狼が出てくるだろう。
君を守って生きられるように。
『新月の夜に一時的に魔法が解けるのは、新月の夜は最も願いの力が弱くなるから』
願いによって維持された魔法。
ふたりの願いが合わさって、叶えられた魔法。
『願いは命と深く結びつく。君の弟の魔法が解けることがあるとすれば、それは、君の命が絶たれたときか、もしくは……そんなことが起こる可能性は限りなく低いけれど……また同じような状況になって、君の弟が願いをかけ直したときだろうね』
そう言って、人形は、再び、ぴょんと下に降りた。今度はクラウスの足もとに。
『さぁ、君の求める答えは返したよ。今度は、僕らの求めを聞いてもらう』
「……求め……?」
揺れる瞳で、クラウスは問いかけた。人形は
『君の蘇生魔法を、僕らに施してほしいんだ』
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