Chapter 7

7-1

 魔法による防御は、物理による攻撃に拮抗する。


――魔法録 第7章



 * * *



 王都をって、二週間が過ぎた。クラウスは弟と、次の目的地――北へ向かって旅を続けていた。

「今夜は新月だ……月明かりがないから、早めに野営しよう」

 春も盛りを迎え、夜の寒さも和らいできた。野宿にも慣れたせいか、旅を始めた頃に比べて疲労を感じなくなっている。それはそれで、弟は複雑な顔をしたけれど。

 テント代わりの結界を張ったところで、陽が落ちた。夕陽の最後の一雫が消え、夜闇が満ちる。クラウスがランプを引き寄せようと手を伸ばしたとき、

「リュカ?」

 隣に座っていた弟が、ぴくりと体を震わせ、小さくうめいた。そのまま体を伏せ、僅かに身をよじる。

 クラウスは息を呑んだ。

 弟の体が――狼の体が、人の姿に――元の姿に、戻っていく。

 騎士団の隊服も、腰の剣も、そのまま――皆既月食ブラッドムーンの夜と、何ひとつ変わらない姿で。

「……兄さん……?」

 弟が、ゆっくりと上体を起こす。しばし瞠目し、そして、そろそろと、自分の体を確かめる。

「……何が……起こって……?」

「っ、リュカ……!」

 クラウスは夢中で、飛びつくように、弟の両肩を両手で掴んだ。

「どこも痛くないか⁉ 苦しくないか⁉」

「……だ、大丈夫……」

 いつになく色を失ったクラウスの必死な面持ちに、弟は途惑とまどいながらもうなずいて、両肩を抱くクラウスの手に、自分のそれを重ねた。

「本当に何ともないから、安心して。……何が起きているのかは、分からないけど」

 弟の言葉に、クラウスは、たまらずに弟を抱きしめた。弟の温もりだ。弟の形だ。

 クラウスの肩が小さく震えていることに気づいて、弟も、クラウスの背中に腕を回す。大丈夫だと、なだめるように。

 冷静さが追いつくまで、クラウスは、ひととき、弟が今この瞬間、人の姿に戻ったことが、夢でないことを確かめていた。



「……本当に、何が起きているんだろう……」

 落ち着きを取り戻したクラウスが、弟の隣で、口もとに手をり、考え込む。

 急に魔法が解けたとは考えにくい。おそらく、これは、一時的なものだろう。

 だとしたら、

「狼になったときにあって……今、人に戻ったときにないもの……」

 落としていたクラウスの視線が、そこで、ふと、上がる。

「……月の光……?」

 弟が狼になった日は、月食――つまり、満月だった。そして今日は、その対極の新月。

「新月の夜……一時的に獣化の魔法が弱まるのか……?」

 どんな理由で?

 どんな理論で?

 分からない。全くもって未知の魔法だ。

「兄さん」

 思考の渦に入りかけたクラウスを、弟が呼び戻す。

「人でいられる今のうちに、話しておきたいことがあるんだ」

「ああ。俺も、お前に聞いておきたいことがある」

 弟の話を、その声を、クラウスは、一言、ひとこと、噛みしめるように聴いた。首を斬り落とされても動いた黒衣の集団のこと。胸を刺されて気を失い、目覚めたら狼の姿になっていたこと。

「……やっぱり、死体を操っていたんだ」

 誰が? 何の目的で?

 立てていた仮説の一つは確かめることができたが、そこから先は不確定のままだ。

「兄さん」

 自分の無力さに唇を噛んでうつむいたクラウスを、弟が、ひょいと横からのぞき込む。苦笑まじりに、それでも、努めて明るく笑って。

「そんなに難しい顔しないで、兄さん。もしかしたら、本当に魔法が解けたのかもしれないよ。俺に魔法をかけた奴の魔力が切れたとかでさ」

 分かっている。それが、弟の、心からの言葉ではないことを。そんなこと、信じてもいなくて、考えてもいなくて、ただ、兄であるクラウスに顔を上げてほしくて、わざと楽観的なことを口にしているのだということを。

「リュカ……」

「このまま、ずっと、人の姿でいられたら、魔法は解けたってことで、この旅は、おしまいかな」

「リュカ」

「あっ、でも、兄さん、師匠の人から、何とかの地ってところの現地調査も言い渡されているんだった」

「リュカ!」

 心の表層を滑り落ちていく言葉を、クラウスは遮った。

「もう良い、リュカ」

 弟の両頬に、クラウスはてのひらを重ねる。無理やりに明るい笑顔を張りつけていた弟の面持ちが、ふっと緩んで、笑顔を取り落とす。

「……兄さん」

 弟が、すがるように、クラウスを抱きしめる。微かに震えた体。弟も不安なのだ。不安で、たまらないのだ。クラウスよりも、ずっと。

「大丈夫だ、リュカ」

 弟を抱きしめ返し、クラウスは、弟に、そして自分自身に言い聞かせるように、ささやく。

「必ず、お前の魔法を解いてみせる。お前を、絶対、人の姿に戻してみせるから、待っててくれ」



 その夜、クラウスと弟は、手を繋いで眠った。子どものときのように。

 そして翌朝、クラウスの予想は残酷にも当たり、弟は、再び狼の姿になっていた。


――新月の夜だけ、人に戻れる。


 その仮説も、次の新月の夜に、証明されることになる。

 理由も、理論も、分からないままに。

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