5-3
アンナの父親は、名をセヴランといい、長年、街で医院を開いていた。けれど、半年前、急に医院を閉じ、病床についたという。
「閉院する前……去年から、咳が続いていて、気にはなっていたんです。……でも、父は、
アンナの家は、街から西に馬車で一時間ほど離れた村の、さらに外れにあった。二階建ての小さな家で、周囲に広がる畑には、様々な薬草が
「ただいま、お父さん」
階段を上がってすぐの部屋を、アンナは開けた。
まず目に入ったのは、大量の書籍。壁一面に置かれた本棚は満杯で、そこに入りきらない本が、足の踏み場もないほど床に積まれている。医学書だった。
その本の中に埋もれるようにベッドがあり、年かさの男性――セヴランが、上体を起こしていた。痩せた体だった。
「遅かったじゃないか。心配したぞ」
年齢にそぐわない、しわがれた声だった。微かに
「アンナ? そちらの方は……?」
ふと、アンナの後ろに立つクラウスに気づいて、セヴランは尋ねた。
「クラウスさん。街で出会って、来ていただいた、魔法士の方よ」
「魔法士?」
セヴランの顔が、
「魔法士が何の用だ? 私を笑いに来たのか?」
口の端を
「お父さん!」
アンナがセヴランを
「お帰りいただいてくれ。魔法の
そして軽く咳き込むと、拒絶するように背を向けて、ベッドに深く
アンナは泣きそうな顔で
「失礼します」
クラウスが、静かに口を開いた。アンナの脇を
「私は、訳あって、西に向かって旅をしています。今晩、泊まれる宿がなく困っていたところ、アンナさんに助けていただきました。せめて、ここまで馬車に乗せていただいたお礼に、診察だけでも、させていただけませんか」
「礼などいらん。帰ってくれ」
「いえ。貴方に対するお礼ではありません。アンナさんに対するお礼です」
「何……?」
セヴランが、毛布を僅かに
「私は、アンナさんから、貴方を診させていただき、回復魔法を供することを、宿代として、ご提示いただきました。たとえ、ここで退出させていただいても、ここまでの馬車代は残ります。それだけでもお支払いしないことには、道義に反します」
「物は言いようだな」
セヴランが、再び上体を起こす。
「若造が……忌々しいほど弁の立つ魔法士のようだ。……良いだろう。精々、口先だけのペテン師でないかくらいは、見定めてやろう」
好きなだけ診るが良い。そう言って、セヴランは目を
一礼し、クラウスはセヴランの前に立つ。祈るようなアンナの視線を背中に感じながら、クラウスはセヴランの体に手をかざす。セヴランの体を光が包み、魔法陣が展開する。クラウスは目を閉じ、セヴランの体を調べていく。
「……肺に、毒の岩があります」
しばらくして、魔法陣を収めると、クラウスは言った。
「ほう。私の見立てと同じとは……少なくともペテン師ではなさそうだな」
セヴランが目を開け、薄く笑う。
確かに、毒の岩は、
「現代の医術では治せない病だ。魔術でも難しいだろう」
「治します」
「なに……?」
セヴランの瞳が、僅かに大きく見開かれる。
「確かに、毒の岩は、数か月から数年かけて体を
淡々と静かに、ゆっくりと、クラウスは言葉を続けた。
「ですが、今、調べたところ、貴方の毒の岩は、まだ肺だけに留まっている。手の打ちようがあります」
「……治せるのか?」
「治します」
クラウスは再び、きっぱりと言った。その真摯なまなざしに気圧されたように、セヴランが、ぐっと息を呑み込む。
「……どうやって?」
「毒の岩を、魔法で崩します。ただ、毒の岩は、崩れると中から毒素が流出する。そのため、時間をかけて慎重に崩していくと同時に、解毒魔法を、重ねてかけます」
「そんなことができるのか……しかも、二つの魔法を、同時に……」
「はい。大きさから考えて、毒の岩を崩す魔法は、一回に四時間。その後、二時間、解毒魔法のみ継続しながら、経過観察の時間を取ります。これを一クールとして、計十二クール、行います。三日後の朝には、治療は完了です」
「六時間を要する治療を、十二回、通しで……? 三日間も、君は不眠不休で、私に魔法をかけ続けるつもりか」
「もっと早く治せる魔法があれば良いのですが……力不足で、申し訳ありません」
「いや、そうじゃない」
セヴランは嘆息し、首を横に振った。
「君は正気か? どう考えても、宿賃どころじゃない。あまりにも、君にとって、割に合わない過酷な魔法ではないか」
「割に合わないかどうかは、私が決めることです」
クラウスは微笑んだ。セヴランは再び嘆息する。
「……魔法士というのは、いつも我々医師を、魔法士の下位互換だと
君は違うようだ。そう言って、セヴランは、苦く、しかし親しみの色を滲ませて、微かに笑った。応えるように、クラウスも笑顔で
「では、早速、取りかかりましょう。アンナさん、この家に、重曹はありますか?」
「重曹?」
アンナが目を丸くする。
「ありますけど、それを何に……?」
「水に溶かして、飲んでいただきます。それとは別に、無理のない範囲で、多めに水を摂ってください」
クラウスは、流れるように、さらさらと言った。
「毒の岩が崩れたときに流れ出る毒素によって、体は酸性に傾きます。重曹を溶かした水を飲むことで、それを補正することができます。また、水を多く摂れば、体の中で毒素を薄め、結晶化を防ぎ、体外へ排出もしやすくなります。もちろん解毒魔法はかけますが、体に少しでも負担のない状態にしておきたいですから」
「ちょっと待ってくれ」
セヴランが、驚いたように、声を挟む。
「君の、その知識は、魔法学のものではないだろう」
「はい。
クラウスは、にこりと笑い、そして続けた。
「人を助けるための知識に、垣根などありません。それは、魔法士も医師も、変わらないはずです」
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