5-2

 山を越え、草原を抜けると、街が見えてきた。小さな街だが活気があり、宿や店も多く軒を連ねている。やっと兄を休ませることができると、リュカの心も明るくなった。

 しかし、

「狼って……御伽おとぎばなしの魔法使いでも、連れているのは黒猫かふくろうくらいだよ」

 宿の主人たちは、揃って渋い顔をした。

「しかも、その狼、随分と大きい。襲われたら、ひとたまりもないだろう」

「そんな……無闇に人を襲うことは絶対にありません」

「なぜ、そう言い切れる? せめて口輪でも嵌めておいてくれれば……」

「口輪?」

 兄が眉根を寄せる。

「結構です」

 フロントにきびすを返し、兄は外に出た。この宿で四軒目だ。

『兄さん、俺は外で良いから、兄さんだけでも泊まってきてよ』

 そろそろ日が暮れる。兄には早く休んでほしい。

『口輪だって、俺は別に嵌めてくれて構わないよ』

 言葉で伝えられないのが、もどかしい。クウ、と小さな啼き声になるばかりだ。

 けれど、兄には少なからず伝わったらしい。リュカの頭に、ぽんと手を置いた。

「そんなこと、俺は絶対にしないよ」

 そしてリュカを促し、歩き出す。

「食料だけ調達して、この街を出たところで野宿しよう」

 そう言って兄が笑ったとき、

「あの……」

 小さな声が、後ろから聞こえた。振り向くと、リュカと同い年くらいの女性が、荷馬車を引いて立っていた。オリーブ色の瞳に、薄い雀斑そばかす。亜麻色の髪を結い上げ、落ち着いたカーキのエプロンドレスを着ている。

「良かったら、うちに泊まりませんか? 宿屋ではありませんが、この先にある村で……客間にベッドも置いてありますから」

「良いのですか? ありがたいお申し出ですが……」

「ええ。……ただ、宿賃の代わりにと言っては何ですが……診ていただきたい人がいるのです」

「診て……?」

「はい。失礼ながら、魔法使いの方と、お見受けしました。どうか、私の父を診ていただき……可能でありましたら、回復魔法を施していただきたいのです」

 ぎゅっとエプロンのすそを握り、女性は真剣な瞳で兄を見つめた。

「承知しました。私で良ければ、尽力させてください」

「っ! ありがとうございます!」

 女性の顔が、ぱっと輝く。

「私、アンナっていいます。どうぞ、荷馬車の後ろに、お乗りください」

「ありがとうございます。私はクラウス。こっちはリュカです」

 兄がリュカの背中に手を添え、リュカを紹介する。怖がられるだろうかとリュカは身を固くしたが、アンナは怯える素振りもなく、リュカの瞳を覗き込んで言った。

「わぁ、貴方、とても綺麗な青い瞳をしているのね。サファイアみたい」

 予想外の反応に、リュカの心臓が、小さく跳ねる。アンナは笑顔で、リュカにも荷台に上がるよう促した。

「リュカさんも、どうぞ、乗ってください。大切な、お客様ですから」

 嬉しかった。思わず兄を振り返ると、兄は、もっと嬉しそうだった。重ねて口にした、お礼の言葉には、きっと、二重の意味が込められていただろう。



 荷台には、不思議な残り香があった。リュカの鼻が、無意識に、ぴくりと動く。

「街の薬屋に薬草をおろした帰りなんです」

 苦手な匂いだったらごめんなさい、とアンナは馬の手綱を引きながら、軽く振り向き、小さく苦笑する。リュカは慌てて、ふるふると首を横に振った。

「元々は、うちで使っていた薬草なのですが、父が家業を退いて今の村に移り住んでからは、私が薬草を栽培して街で売って、なんとか生計を立てているんです」

「そうなのですか……」

 兄が、ふっと視線を上げる。薬草を使っていた仕事ということは……。

「お父様は、医師の方でいらっしゃるのですか?」

 尋ねた兄に、アンナは顔をほころばせた。

「過去形でなく、現在形で言ってくださるのですね」

 アンナの言葉に、兄は微笑みながらも、少し不思議そうに小首をかしげた。

「医師は、魔法士と同じく、生涯の職であると認識していますから」

 違いますか? と瞳で問いかける。アンナは瞳をうるませ、ぎゅっと手綱を握った。

「……貴方なら、父も、魔法による治療を受けてくれるかもしれません」

 どうか、よろしくお願いします。

 兄を見つめるアンナの瞳には、切実な色が込められていた。

 夕陽の最後の一雫が、西の山の稜線を滲ませながら沈んでいく。

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