Chapter 5

5-1

 魔法の強度と持続性は、使い手の魔力の強さと大きさに比例する。


――魔法録 第5章



 * * *



 王都をって三日目の夕暮れ。リュカは兄と共に、西に向かって歩を進めていた。

 馬車には乗れなかった。狼を連れていることを理由に、どの馭者からも断られたからだ。

 うつむくリュカに、兄は明るく笑って言った。

「お前と並んで歩けるから良いさ」

 そして徒歩と野宿を続けている。兄は昼間、上手く隠していたけれど、夜、眠る兄の顔には、少しずつ疲労の色が滲んでいる。狼の姿になっている自分はともかく、兄は人間だ。次の街に着いたら、兄には川や泉の水でなく熱いシャワーを浴びて、温かいベッドで休んでもらいたい。

「明日には、街に着きそうだ」

 春とはいえ、山の夜は冷える。火をおこして暖を取りながら、ふたり寄り添って、保存食を分け合う。けれど、差し出されたそれを、リュカは、なかなか食べようとしなかった。

「リュカ? 具合でも悪いのか? ずっとまともに食べていないじゃないか」

 兄が心配そうに眉根を寄せる。リュカは、ふるふると首を横に振った。自分でも、どうしてなのか分からない。空腹なのに、体が受けつけず、食べることができない。頭では、それが食べ物であると認識できるのに、体は、そう認識できないのだ。

 どうして……。

 不意に、背後の茂みが小さく揺れた。カサリ、と茂みの隙間に、小さく白い影が横切る。

 気づいたときには、リュカは、それに飛びかかっていた。本能に突き動かされた、獣の反射だった。白い影が逃げる。リュカが追う。距離は瞬時に縮まり、リュカの爪が、それを捕らえた。赤い血が地面に広がり、それはリュカの爪の下で、僅かにもがいた後、動かなくなった。兎だった。

 あぁ、やっと、食べられる――

「リュカ……⁉」

 後ろから聞こえた兄の声に、リュカは、はっと目を見開いた。

 今、自分は、何を考えた……?

 この兎は……。

「リュカ」

 走って追いかけてきたのだろう。息を切らしながら、兄が茂みを抜け、リュカに近づいてくる。

 いやだ。来ないで。

「リュカ?」

 見ないで。

 リュカは顔を伏せた。兄の瞳が、リュカを映す。リュカの爪に仕留められた、血に染まった白兎を、見る。

「おいで、リュカ」

 優しい色をした、穏やかな声だった。リュカを見つめる兄の瞳には、恐怖の影も嫌悪の濁りも微塵もなく、そっとリュカを包むような、柔らかな慈しみの光だけがあった。

「食卓は、一緒に囲もう。兄弟なんだから」

 そう言って、兄は微笑んだ。気づかなくてごめん――その言葉を、言わずに留めた兄は、どこまでも兄だった。言えばますますリュカを追い詰めると分かっていて、言わずにいてくれたのだ。

 兎をくわえ、項垂うなだれながら、リュカは兄の後ろに続く。火の傍に戻り、それぞれの食料を口にする。

 こんなの、食べたくない。そう思うのに、この体は、夢中で兎を貪ってしまう。

 おぞましくてたまらないのに、それは至極、美味しくて。

 怖かった。

 怖くてたまらなかった。

 いつか、この心まで、狼になってしまうんじゃないか。

 いつか、兄を喰い殺してしまうんじゃないか。

 空腹が満たされるほどに、嫌悪と恐怖は増していく。

「リュカ」

 兄がリュカの頭を撫でた。

 木の根もとに穴を掘り、兄とふたりで、残った兎の骨を埋めた。

「おやすみ、リュカ」

 テント代わりの結界を張り、兄が眠りにつく。この体が獲物を仕留めて食らうところを見たばかりなのに。狼であるということを、まざまざと見せつけられたというのに。兄は何も変わらず、リュカの隣で寝息を立てている。大丈夫だ、リュカ。そんな言葉の代わりみたいに。

 兄の体を、リュカは自分の体で、そっと包んだ。

 せめて、毛布みたいに、この体で、兄を少しでも温められたら。

 微かに伝わる兄の心音を聴きながら、リュカも静かに目を閉じた。

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