4-4
兵士たちが去り、辺りには静寂の
「……さて」
ベルトランが、すっと手を掲げる。淡く発光する立方体の空間が、周りを囲んだ。声が外に漏れないように張られた結界魔法だった。
「君に問う。クラウス。なぜ、その獣を
たとえ、剣士を殺したのが、その獣でないとしても、身を
ベルトランの問いかけは静かだった。その瞳の色は穏やかで、慈しみ深かった。
だから、クラウスも、ベルトランを信じて、答える。
「……弟だからです」
「弟?」
ベルトランの眉が、僅かに上がった。クラウスは
「この狼は、私の弟なのです。……先程、この目で見ました。目の前で、弟が……この狼の姿に変わるのを」
それだけ答え、クラウスは狼を見上げる。
「ごめん、リュカ。矢を抜くから、少し我慢して。すぐに回復魔法で……」
狼の肩に手を伸ばす。しかし、クラウスの手が矢を掴む前に、それはひとりでに狼の体から抜けた。傷口が、たちまち癒えていく。クラウスの回復魔法に匹敵する速さで。
「驚異的な回復力だな」
ベルトランが、冷静に獣を見つめる。
「人間を異形に変える魔法か……」
ベルトランの瞳は、微かに揺れていた。常に穏やかで冷静沈着なベルトランだが、さすがに驚きを隠せないようだった。けれど、ベルトランは、その動揺を、数度の瞬きで完全に抑えてみせた。クラウスに視線を戻し、ベルトランは再び口を開く。
「君の言葉からすると、君が魔法で弟をその姿に変えたわけではないようだ」
「……はい。人を獣に変える魔法など、私は知りません」
「確かに。そんな魔法があるなら、私も知りたいものだね」
この世界の魔法は、制約が多い。無機物を融合させたり変形させたりすることはできても、魚を鳥に変えるような、生物としての種を変化させることはできないとされている。
「ただ、今夜は
ベルトランは、
ただ、文献によれば、過去に生じた魔力の
「……少し、気になることがある」
君に話すべきか迷っていたが、と前置きして、ベルトランは言った。
「剣士の遺体の近くに、彼らが対峙しただろう賊のものと思われる、黒衣に包まれた体の一部があった」
その黒衣の下を、君は見たか?
「いえ……」
クラウスは首を横に振る。ベルトランは
「ミイラ化していた。指先で触れただけで、砂のように崩れたよ」
「……っ、それって……」
「ああ。禁制の魔法が使用された可能性が高い」
魔法は、意思のある者を、その意思に反して操ることはできない。だから、魔法使いが操れるのは、人形などの無機物に限られる。だが、それは、言い換えれば、意思のない者なら操れるということ。
「死体を、操っていた……」
それは、倫理に反するとして、使用が固く禁じられている魔法だ。
それに、
「触れただけで崩れるほどに風化の進んだ死体では、剣を振るうことなど不可能なはず……」
クラウスが、眉根を寄せて呟く。ベルトランは静かに、愛弟子の考えを待った。
「何らかの魔法で、戦闘が可能なほどに遺体の鮮度を保っていた……本体から切り離されれば、その体の一部は、魔力の供給を絶たれ、本来の遺体の姿に戻る」
「明察だ」
ベルトランは微笑んだ。
「ですが、そんな魔法が……?」
「確かに、現存するどの魔導書にも、そんな魔法の記述はない。現代の魔法使いにとって、それは未知の魔法だ」
だが……と、ベルトランは続ける。
「魔法の研究により、時代とともに様々な魔法が新しく生まれてきた。それと同時に、失われた魔法も、数多くある。非人道的な魔法や、自然の摂理に反する魔法、あるいは世界の
その中に、今回使われた魔法もあったかもしれない。
「新しい魔法を発明した……もしくは、失われた魔法を復活させたか、密かに伝承を受けた魔法使いがいる、と……」
「ああ。私も、そう考えている」
何の目的で城に入り込んだのかは分からない。ベルトランの知る限り、現時点で建物の中へ侵入した形跡はなく、剣士を数人、殺害したところで立ち去っている。
ベルトランの言葉に、クラウスは、ぐっと
「弟を狼の姿に変えたのも、その魔法使い……」
「確証はないが、そう考えるのが自然だろうね」
「師匠」
ベルトランを見上げ、クラウスは言った。
「私に、調査の許可をいただけないでしょうか」
「調査?」
ベルトランが、僅かに眉を上げる。クラウスは
「相手は、おそらく組織的なもの……そして、複数の死体を操るとなると、王都はおろか、街や村に拠点を構えれば目立ちます」
「心当たりがあるようだね」
「……《起源の地》あるいは《果ての地》を」
「驚いたな」
ベルトランは感嘆の息をついた。
「その若さで、君は《空白の歴史》を知っているのか」
それは、王立図書館の閉架書庫の最奥に収められた魔法史の書物に、僅かな記述が遺るのみだ。アカデミーで教えることはなく、ほとんどの魔法使いは、その存在すら知らないまま生涯を終える。
魔法は、太古、ひとりの魔法使いによって発明され、瞬く間に広まった。しかし、数百年前、ある時の為政者が、魔法使いの台頭を恐れ、魔法の弾圧を行った。多くの魔法使いが無実の罪で処刑され、魔導書も火にくべられた。迫害の中、大部分の魔法使いは、生き延びるために為政者に従い、魔法を制限した。だが、一部の魔法使いは、魔法を守ることを誇りとし、為政者の手を逃れ、魔法使いの始祖が生まれた土地を聖地として目指し、行き着いたその地に隠れ住んだ。その歴史は、後世で塗り潰すべき汚点とされ、あらゆる歴史書から抹消された。それが《空白の歴史》と呼ばれる
「しかし、その地を、君は、どうやって探すつもりだ? 具体的な場所は、明らかになっていないはずだ」
手掛かりはあるのか?
「……それは……」
クラウスは言い
「手を、出してみなさい」
クラウスは一瞬、途惑ったものの、ベルトランの言う通りにする。
クラウスの
「この地図を、君にあげよう」
地図には七か所、丸い印がついている。
「私が研究により絞り込んだ、《起源の地》あるいは《果ての地》たりえる場所を記したものだ」
黒い石は、記憶石――魔力により記録や参照ができる、魔法使い専用の記憶装置だった。《空白の歴史》を経て、魔法使いが、秘匿したい記録をつけるために創り出したもの。ただ、至極希少で、
なぜ、ベルトランが記憶石を持っているのか。
なぜ、《起源の地》あるいは《果ての地》の研究をしているのか。
湧き上がる問いかけを、しかしクラウスは胸の奥に留めた。弟を元の姿に戻す、そのための手掛かりとなるなら、何だろうと縋らなければならなかった。
「調査の許可を、と言ったね」
「はい」
「これを渡す代わりに、君の個人的な調査の許可ではなく、私からの特命という形にさせてもらう」
「特命?」
「そうだ。君に、この地図に記した各地の現地調査を命じる。《起源の地》あるいは《果ての地》が実在するのか、そして、未知の魔法は存在するのか、それを調べてもらいたい」
君の弟を元の姿に戻す方法を探すついでで構わないから。そう言い添えて小首を
クラウスを見つめるベルトランの瞳は、変わらず穏やかで、
「……分かりました」
クラウスは
「君の弟は、重傷を負い転地療養することになったとでもしておこう。こう見えて私は、騎士団長とは親友でね。話をつけておくから、安心しなさい」
君たちを根無し草にはしないよ。
「途方もない旅に必要なのは、帰る場所だ。君たちの居場所は、私が保っておく。だから、必ず帰ってきてくれ。無事を祈る」
「はい。……ありがとうございます」
ベルトランの声は、偽りのない
夜明けとともに、王都を
「リュカ」
狼の背を撫で、クラウスは、意志を宿した瞳で微笑んだ。
「大丈夫だ。お前は、俺が、必ず元の姿に戻してやる」
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