4-3

 右胸に灯る温もりに、リュカは、重いまぶたを薄く開いた。暗かった視界が、明るくなっていく。遠ざかっていた体の感覚が、戻ってくる。

 回復魔法だろうか。

(……兄さん、来てくれたの……?)

 おぼろげな意識の中、リュカは瞳を巡らす。

 兄の姿は見えない。

 右胸に感じる熱が、次第に温度を上げていく。

(……回復魔法じゃ……ない……?)

 身に馴染んだ、兄の回復魔法の温もりとは違う。右胸の熱が、燃えるような灼熱へと変わっていく。全身に、広がっていく。

(体が……焼ける……!)

 熱い。あつい。何だ、これ。

(水……を……!)

 体を起こし、リュカは走った。水を求めて、中庭の池へ。

 無我夢中で、水に飛び込む。早鐘を打つ心臓。リュカは、ぎゅっと目を閉じた。少しずつ、熱が引いていく。刺し貫かれたはずの胸の痛みも、不思議と消えていた。

 水面に顔を出す。縁まで泳いで、池から上がる。

(……え……?)

 縁石についた手に、リュカは瞠目した。人間の手じゃない。ずっと大きく、鋭く長い爪を持った、獣の前足だった。

(何……どういう……)

 途惑とまどいと混乱の渦の中で、リュカは、そろそろと、池を振り返る。水面を、恐るおそる、覗き込んで――

 息を、吞んだ。

 水面に映ったのは、見慣れた自分の顔ではなかった。

 鋭い牙の光る、大きな黒い狼だった。

 思わず声を上げる。だが、リュカの喉から放たれたのは、獣の吠え声だけ。

「いたぞ! こっちだ!」

 不意に、強い光が、リュカを照らした。兵士の掲げたランプだった。弓を構えた兵士たちが、素早くリュカを取り囲む。

「どこから入った?」

「よくも仲間を喰い殺したな」

 恐れと怒りのまなざしが、一斉にリュカに注がれる。本部の命令を受けてきた者たちではない。異変に気づいて独自に駆けつけた、下級の兵士たちだった。

『違う! 俺じゃない!』

 叫んでも、それは人の言葉にはならない。獣の威嚇と受け取った彼らが、さらに強く弓を引き絞ったとき、

「待ってください!」

 凛とした声が、響いた。

 兄だった。兵士の脇から兄が飛び出し、リュカを背にかばって、彼らの前に立つ。

「弓を、下ろしてください。剣士を殺したのは、この獣ではありません」

「……貴方は……魔法院の……?」

「なんで、ここに魔法士が……?」

 兵士たちに動揺が走る。

「どういうことですか? 殺された剣士たちの傷は皆、鋭い凶器で切り裂かれたり、刺し貫かれたりしていました。その獣の爪や牙によるものでしょう」

「いいえ。あれは、剣による創傷です」

「剣?」

 兵士の中から、どよめきが上がった。

「賊の仕業だって?」

「殺されたのは、俺たちよりずっと上位の剣士だったんだぞ」

「そんな簡単にやられるわけ……」

 狼狽した兵士の一人が手を滑らせ、兄に向かって矢が飛ぶ。

 瞬間、リュカは身をひるがえし、兄を庇った。放たれた矢が、リュカの肩に突き立つ。瞠目した兄がリュカを見上げ、呼びかけようとしたとき、

「落ち着け!」

 後ろから、ひとりの剣士が、ざわめく兵士たちを一喝した。ユーゴだった。肩で息をしながら、彼らを見据えている。

「ユーゴ様……!」

「落ち着くんだ。その方がおっしゃっていることは正しい」

 応急処置の施された腕を、それでも痛みに押さえながら、ユーゴは続けた。

「俺は、賊と相対した剣士の生き残りだ。仲間を殺したのは、獣じゃない。得体の知れない黒衣の集団だ。既に本部には報告している。お前たちにも、順次、指令が下るかもしれない。だから、早く持ち場に戻れ」

「……ですが……」

 兵士たちが、逡巡しゅんじゅんしてユーゴを見つめる。

「この獣も、見るからに危険です。このままにしておくわけには……」

「ならば、私が引き受けよう」

 不意に、別の方向から声が掛かった。

「ベルトラン魔導師……!」

 兵士たちが、一斉に振り向く。

「……師匠……」

「久しいね、クラウス。騒ぎが聞こえて来てみれば……なかなか興味深いことになっているね」

 ふっと兄に微笑みかけると、ベルトランは再び兵士たちを見渡した。

「ここは私に任せてくれ。それとも、私では心許こころもとないか?」

「い、いえ……!」

 彼らは慌てて弓を下ろし、途惑とまどいながらも各自の持ち場に戻っていった。

「ユーゴ」

 兵士たちとは別の方向に走り出そうとしたユーゴを、兄が呼び止める。

「ありがとう」

 兄の言葉に、振り返ったユーゴは、ぎゅっと眉根を寄せて、視線を落とす。

「ごめんなさい……っ!」

「ユーゴ?」

「リュカが……っ! リュカが、どこにも、いないんです……! 探しても、探しても、どこにも……。俺を庇って……助けてくれたのに……俺……っ」

 泣きそうな顔で、ユーゴは唇を噛む。

「俺、子どもの頃、リュカに、酷いこと、したんです……なのに、リュカは……」

「ユーゴ」

 柔らかな兄の声が、ユーゴの言葉を、そっと抑える。

「それ以上、自分を責めることはない。リュカを探してくれてありがとう。きっと大丈夫だから、君も戻って」

「……はい……」

 泣き出しそうなのをこらえながら、ユーゴは震える唇を引き結び、精一杯、姿勢を正すと、兄に向かって、剣士の敬礼をした。

 兵士たちの帰った方向に、ユーゴも戻っていく。

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