Chapter 4

4-1

 魔法は、意思のある者を、その意思に反して操ることはできない。


――魔法録 第4章



 * * *



 早春の夜風が、晴れ渡る空の下、冷たいけれど穏やかに吹き抜けていく。

 およそ二年半振りとなる皆既月食ブラッドムーンの夜。王都全体が、祭りの空気に包まれていた。この国では、皆既月食は人々の願いの力が最も強くなり奇跡が起こるという伝説があり、願いを込めたランタンを飛ばす風習がある。

「こんな特別な夜に城の警備の当番が回ってくるなんて、俺たち、ついてないよなぁ」

 頭を掻きながら、同僚の青年が溜息ためいきをつく。

「それでも、団長が気を利かせてくれて、交代で全員がランタンを飛ばせるようにしてくれただろう」

 リュカが言うと、同僚は口を尖らせた。

「それは、もちろん、ありがたいけどさ……せっかくなら、今夜は一晩中、愛する人と過ごしたかったよ」

 彼には恋人がいて、来年、結婚する予定だという。

「それじゃ、また、後で」

「ああ。遅れるなよ、リュカ」

「そっちこそ」

 軽く顔をしかめ、リュカは城門の前で、同僚と分かれる。

 人の波に乗り、小走りで約束の広場に向かった。

「兄さん!」

 兄は既に着いていて、二人分のランタンを手に、リュカを待っていた。

「ごめん、待った?」

「いや。さっき来たところだよ」

 夜風に長い髪を揺らして、兄は微笑む。

 アカデミーを卒業し、ふたりは晴れて魔法士と剣士になった。今、兄は二十一歳で、リュカは十八歳。兄は王立魔法院で回復魔法の臨床研究をしていて、リュカは第一騎士団に配属され平時は城内の警備や要人の警護を担当している。

 兄からランタンを受け取り、一緒に広場の中央に向かう。既に月は皆既食を迎え、白い光のおもてを赤く変えている。集まった多くの人々が、それぞれに願いを込め、次々にランタンを夜空へと放つ。

 兄の隣で、リュカもランタンを手に、目を閉じた。願うことは、たったひとつ。ずっと変わらない、唯一のこと。


――兄さんを守って生きられますように。


 ランタンから手を離し、空へと送る。晴れ渡る満天の星空にかかるのは、深紅に染まった皆既月食ブラッドムーン

 振り返ると、ちょうど兄も、空からリュカへ視線を移したところだった。重なる視線。兄は何を願ったのだろう。微笑む兄の瞳の真紅は、今このそらに浮かぶ願いの果てに輝く月の色に似ていた。

「……そろそろ、戻らないと」

 遠く、時を刻む鐘の音が聞こえて、リュカは寂しそうに苦く笑った。

「気をつけて」

 兄も小さく苦笑して、リュカを見送る。

 城へと続く街路を駆けながら、リュカは、もう一度だけ、夜空を見上げた。

 無数のランタンが空へと上っていくさまは、さながら願い星が空へと還っていくさまにも見えた。



 二人一組で、複数の組が、それぞれ割り当てられた城内のエリアを見回る。皆既ブラッド月食ムーンの夜といっても、祭りは街の広場で行われ、城内で宴が開かれるわけでもなく、特に普段と変わりはない。

 そのはずだった。

 見回りの時間が半ばを過ぎた頃、不意に、甲高い警笛が静寂を裂いた。

「応援要請……!」

 同僚が足を止め、振り返る。東のエリアのほうだ。

 続いて、別の方角――西のエリアからも、警笛が鳴り響く。

「賊の侵入か⁉」

「二手に分かれよう」

「ああ。俺は東へ行く。お前は西を頼む」

「分かった」

 リュカは瞬時に身をひるがえし、西に向かって駆ける。

 同時に真逆の方向から侵入者……? 城外の警備は……?

 警笛が鳴ったのは、それぞれ一度だけ。無事に対処できたのか、あるいは……。

 城の西側、資料庫のある棟の裏に回ったところで、リュカは足を止めた。

 長い黒衣をなびかせる影が、剣士を一人、壁に追い詰めている。剣士は右腕を斬り裂かれ、剣を取り落としていた。見覚えのあるブロンドの巻き毛にヘーゼルの瞳――ユーゴだった。黒衣の影が長剣を振り被る。悲鳴を上げるユーゴの喉が、その剣に血飛沫しぶきを散らす前に――

 リュカの剣が、それを止めた。刃のぶつかり合う鋭い音が響く。

「リュカ……!」

 ユーゴが、はっと目を見開き、リュカを見つめる。

 交差する剣をはじき、リュカは素早く真横に振った。黒衣の影が飛び退すさり、距離を取る。何者なのか。フードを深く被り、顔は見えない。

 辺りには、倒れた剣士が三人。そして、彼らが戦った相手だろう、同じ黒衣の影が二人、転がっている。

「ユーゴ」

 対峙する影をにらみながら、リュカは短く、ユーゴに指示する。

「お前は、今すぐ騎士団の本部に走って、この状況を伝え、城門の閉鎖を要請しろ」

 きっと、同僚が向かった東のエリアでも、同じことが起きているはず。

「城門の閉鎖って……それって、お前が……」

「早く行け」

「っ! わ、分かった……っ!」

 きびすを返し、ユーゴが地面を蹴る。遠ざかる足音に、無事に本部に着いてくれと、胸中で彼の背を叩く。

 城門の閉鎖は保険だ。もし、討てなかったときに、城門の外に逃さないための――

 白刃がひらめく。咄嗟とっさに身を屈めてける。速い。けれど、読めない動きじゃない。リュカの剣が、相手の胸をとらえる。黒衣を斬り裂く。ほとばしる血。それでも相手は、なおも大きく剣を振った。リュカはかわす。リュカの髪の先が切られ、ぱっと夜闇に散る。リュカはひるまない。唇を引き結び、大きく踏み込む。一息に間合いを詰め、剣をぐ。相手の首を目掛けて。

 黒衣のフードごと、その首が飛ぶ。地面に転がる。ぐらり、と影の上体が揺らぎ、どさりと倒れる。広がる血溜まり。見下ろして、リュカは小さく息を吐いた。

 何者だ……? しかし、今はあらためている時間はない。目に入りかけた汗を拭い、上がった呼吸に肩を上下させながら、リュカは東に振り向く。同僚は無事だろうか。次は向こうへ、応援に行かないと――

「……っ、あ……」

 走りかけたリュカの足が、数歩、進んだところで、止まった。

 最初に感じたのは、背中の冷たさ。続いて焼けつくような熱さが、右胸に広がる。

「……な……に…………?」

 体が、動かない。辛うじて頭を向けて後ろを見れば、そこには、黒衣の影が――首を落とされた体で、リュカの右胸を背中から刺し貫いていた。

「なん……で……動いて……」

 ずるり。刃が抜かれる。血があふれ、リュカは、その場にくずおれた。首のない黒衣の影が、何事もないように、剣を鞘に収める。それが合図のように、倒れていた他の黒衣の影も、次々に起き上がっていく。ある者は片腕を失いながら、ある者は腹を深く斬られながら、平然と歩き去っていく。

 彼らの背中に放とうとしたリュカの言葉は声に乗らず、喉からこぼれ出たのは隙間風のような息の音と、せり上がる血の泡だけ。

 彼らの姿は、夜闇の中へ、すぐに見えなくなった。

(……止血……しないと……)

 隊服を使い、傷口を押さえる。けれど、胸の血は、広がるばかりで。

(……死ぬ、のか……? 俺は……)

 ぐっと、こぶしを握り込む。自分の手が、急速に冷えていくのが分かる。

(……兄さん……)

 さっき、願ったばかりなのに。

 兄を守って生きられるようにと、兄の隣で、願ったばかりなのに。

(兄さん……)

 リュカが剣士になったのは、兄を守りたかったからだ。

 最難関である王都への配属を勝ち取ったのは、王都に身を置く兄の近くにいたかったからだ。

(兄さん……!)

 いやだ。

 生きたいよ。

 まだ。

 兄さんの隣で。

 兄さんと一緒に。

 兄さんを守って。

 ふたりで。


 視界が暗くなる。体から力が抜けていく。

 心の中で何度も兄を呼びながら、リュカの意識は、そこで途切れた。

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