2-2
夕食の時間が過ぎるのを待って、リュカはこっそりと寄宿舎に戻った。魔法士と剣士で属するアカデミーは異なっても、寄宿舎は同じだ。もっとも、各自の部屋は全て個室の上、兄の部屋とは棟も別だから、普段あまり顔を合わせる機会がなく、なかなか一緒にいられず寂しく思うことも多いけれど、今日ばかりは、それが幸いだと思う。
兄は級友たちと食事に行っているだろう。それで良い。それが良い。シャワーを浴びて血と砂は落としてきたけれど、頬の擦り傷や切れた唇は隠しようがなかった。兄には見せたくない。知られたくない。空腹は辛いけれど、食堂へ行くのは諦めて、このまま寝てしまおう。
そう思っていたのに、
「リュカ」
夕闇の中、寄宿舎の門から、リュカに駆け寄る人影があった。
「……兄さん……」
足を止める。リュカを待っていたのだ。兄は、ずっとここで。食事にも行かずに。リュカがなかなか戻らないことを、姿が見えないことを、心配してくれたのだ。
胸の奥が、じんと熱くなる。嬉しかった。でも、その嬉しさが、今は辛かった。
反射的に、兄から目を
「何があった」
兄が尋ねる。リュカは顔を伏せた。
「別に。ちょっと絡まれただけ。平気だよ」
短く答えて、兄の脇を
「待って、リュカ」
兄の手の力は、強くなかった。リュカがその気になれば、
「言いたくないなら、言わなくて良い。ただ、手当てだけはさせてくれ」
兄の声は静かだった。振り返らないまま、振り返れないまま、リュカは唇を引き結び、
兄の部屋は、いつも、古い紙の匂いが満ちている。アカデミーの図書館で、日々沢山の本を借りてくるからだ。多くが魔導書だが、植物学や地質学、天文学など、様々な分野の専門書も含まれている。それを毎回、返却期限までに全て読み切っているというのも、兄が学年主席で在り続けている理由のひとつだろう。
「……あんまり、見せたくないんだけど」
「患部を見ないで治せるほど、俺は優れた魔法使いじゃないよ」
「そういう意味じゃ……」
リュカは渋々、シャツを脱ぐ。上体に刻まれたいくつもの大きな痣が、ランプの光に照らされる。凪の湖水のように整った兄の表情に、さっと険しい
リュカをベッドに座らせて、兄はリュカの前に
「……ごめん、兄さん」
ありがとう。呟くように、言葉を落とす。ぽつり、と、ひとつ、
――本当に兄弟なのかよ。
ずきり、と胸の奥が、
――目の色、全然、違うじゃないか。
顔を伏せても、兄が自分を見つめていることは分かる。その美しい兄の瞳を見るのが、今は辛かった。兄の瞳は、内側から輝くように澄んだ、深く鮮やかな赤だ。対してリュカの瞳は、それとは似ても似つかない青。
胸の中に、仄暗い
「……どうして、俺には、魔力がないんだろう……兄さんの弟なのに……俺の瞳は、どうして、兄さんと、こんなにも色が違うんだろう……」
肩を震わせ、
「リュカ」
静かに、リュカを、そっと包む声で。
「リュカは、コランダムという鉱物を、知っている?」
唐突に水を向けられて、リュカは
「……知らない」
鼻を
「鉱物の一種で、宝石のもとになるのだけれど、含まれる不純物の種類と割合で、宝石の名前が変わるんだ。赤いものはルビー、青いものはサファイアになる」
「ルビーと、サファイア……」
「そう。それでね、リュカ。赤色以外のルビーは、全てサファイアと呼ばれるんだ。でも、そのルビーだけど、赤色を決めているのは、何だと思う?」
「……分からない。何?」
「たった一パーセントのクロムだよ。僅か一パーセントの不純物が、宝石の名前と価値を決めているんだ。ルビーもサファイアも、九十九パーセント以上は同じ組成のコランダムなのに」
それでね、と兄は続ける。穏やかに優しく微笑んだまま。
「赤以外のコランダムは全てサファイアに分類されてしまう。だからこそ、美しい青のサファイアは最高級と言われている。ルビーの赤と違って、サファイアの青の色合いを決めるのは、鉄やチタン、複数の不純物のバランスだ。ルビーよりも、ずっと複雑で、難しいんだよ」
「……まるで、兄さんと俺みたい……」
胸の中に立ち込めていた
「そうだよ、リュカ」
リュカの
「思い出して、リュカ。俺たちの名前のこと」
「名前……」
「LucasとClaus。俺たちの名前はアナグラム。同じ文字の組成でできていること」
兄の言葉に、リュカは唇を引き結んだ。涙を
「俺、誰にも負けない最高級のサファイアになるよ」
兄さんのルビーと並べるように。
青い瞳で、真直ぐに兄の赤い瞳を見つめて、リュカは微笑む。
兄が、安心したように立ち上がる。右手をリュカに差し出して。
「沢山、頑張って、お腹が空いているだろう。一緒に食堂へ行こう、リュカ。夕食、こっそり取り置いてもらっているから」
手を繋いで、廊下を歩く。そういえば、兄と手を繋ぐのは久し振りだった。幼い頃は、どこへ行くときも繋いでいたのに。
懐かしくて、少し気恥ずかしくて、それでも離したくなくて、リュカは繋いだ兄の手に、ほんの少しだけ力を込めた。
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