1-2

 今日か明日には初雪が降るだろうかという、厚い鉛色の雲に覆われた寒空の下、スモッグにくすんだ旧市街の中心地を、リュカは、ひとりで歩いている。兄は街の人に、暖炉の修理を頼まれて出かけていった。リュカは留守番だと言われたけれど、兄が働きに行っているのに、自分だけ家にいるなんて落ち着かない。兄は、いつもそうだ。リュカはまだ小さいから働かなくて良いのだと言う。けれど、兄だって、まだ八歳だ。リュカと三つしか違わない。

 旧市街の中心地へ行けば、運が良ければ観光客から仕事を貰える。荷物持ちだったり、宿までの道案内だったり、様々だが、銅貨一枚か二枚は稼げる。兄には遠く及ばないけれど、ほんの少しでも、兄の助けになりたかった。

「あっ、そこの少年」

 昼を少し回った頃、駅舎とは逆の路地のほうから、リュカの背中に声が掛かった。振り向くと、二人組の年かさの男が、煙草を吸いながら、リュカを手招きしている。

「ちょっと、この荷物を宿まで運んでくれないか。銅貨三枚やるよ」

「はいっ!」

 リュカは、ぱっと笑顔を咲かせ、彼らのもとへ走った。ぺこりとお辞儀をして、丁寧に挨拶とお礼をする。銅貨三枚! 普段より沢山だ。嬉しくて、リュカの瞳がきらきらと輝く。それを見て、彼らは顔を見合わせると、にやりと笑った。

「先に来ている仲間と合流してから宿に向かうから、少し付き合ってくれ」

「はい。分かりました」

 荷物を受け取り、リュカはうなずく。そんなに大きく重いものではなかったが、五歳の腕には、どんな旅行鞄も余ってしまう。落とさないように、リュカはしっかりと両手で抱えた。

「こっちだ」

 路地の奥へと進んでいく。二人のうち一人はリュカの前を、もう一人は後ろを、ぴったりと歩いていた。大柄な大人の男二人に挟まれて、リュカは不安と警戒に、顔を曇らせる。

「あの……」

 しばらく歩いて、いよいよおかしいと感じたリュカは、躊躇ためらいがちに足を止めた。

「一体、どこまで……?」

「そうだな、この辺りで良いか」

 前を歩く男が振り返る。思わず後退あとずさったリュカの背中に、後ろを歩いていた男の脚が当たった。リュカの退路を塞ぐように。

「改めて見ると、本当に綺麗な顔をしているな、少年」

 怯えた顔も格別だ。リュカを見下ろす男の目が、三日月形に細くなる。

「ああ。銅貨三枚で、金貨が釣れた」

「喜べ、少年。俺たちが、お前を高く売ってやるよ」

 彼らが笑う。戦慄して、リュカは荷物を手放すと、身をひるがえし、地面を蹴った。この路地から出て、大通りに逃げるために。

 だが、

「おっと。暴れる兎は怪我するぜ」

 太く長い腕が、リュカの体を易々やすやすと捕らえる。声を上げようとした口は、分厚いてのひらに塞がれた。

「早く、薬、嗅がせろ」

「分かってるって」

 そんな会話が頭上で交わされる。リュカはこぶしを握りしめ、必死で抵抗した。右手が男の頬に当たり、くわえていた煙草が飛んで、路地の先に転がっていく。

「このっ……おとなしく……っ!」

「暴れるなっての、クソガキ」

 二人に体を抱え込まれ、リュカが、ぎゅっと目を閉じたときだった。

「弟を、離してください」

 凛とした声が、路地裏に響いた。リュカは、はっと目を開ける。

「……兄さん……」

 リュカの声が、塞がれた口の中で響く。

 路地の先に、兄が立っていた。その手には、今しがた男が落とした煙草が握られている。

「なんだ、子供ガキか……」

 男たちは一瞬、警戒したように眉をひそめたが、相手が子どもだと分かると、口の端に下卑た笑みを浮かべた。

「へぇ、兄貴か。確かに、よく似ている……いや、よく見たら、弟よりも上玉じゃねぇか」

 ちょうど良い、と男は笑った。兄弟揃えてさらっていこう、と。

「捕まえろ」

 男の片方が、もう片方に命じる。うなずいた男が、リュカから離れ、兄へと向かった。

 瞬間。

 男のすぐ脇を、巨大な火炎がかすめていった。ちりりと髪の先が焦げる音と匂いが立つ。驚愕した男が、悲鳴を上げて飛び退すさる。

「なん、だ……?」

 男たちが狼狽うろたえる。拾い上げた煙草を手にしたまま、兄は彼らに、距離を詰める。煙草の火はついたままで、煙がゆらりと、兄を取り巻いている。

「もう一度だけ言います。弟を離してください。炎で全身を焼かれたくないなら」

 落ち着いた、静かな声だった。けれど、そのまなざしには、鋭く研ぎ澄まされた怒りがあった。

「……お前……魔法使いか……」

「嘘だろ……魔法使いが……しかも、こんな子供ガキが……こんな所にいるわけ……」

 途惑とまどう男たちに、兄は小さく息をつくと、ちらりと煙草に視線をった。煙草の煙が渦を巻き、松明たいまつのような炎が上がる。

「……魔法は、無から有を生み出すことはできません。だから、何もないところから火は出せない。でも、こうして火種があれば、それがどんなに小さなものでも、魔力を注いで業火に変えることができる」

 貴方の落とした、この煙草一本でも。

「さっきは、わざと外したんです。次は確実に、貴方がたを焼きます」

 炎を手に、兄はさらに距離を詰めた。ゆっくりと、一歩ずつ。ごくり、と男たちが唾を飲み込む。顔を見合わせ、後退あとずさり、舌打ちとともにリュカを放すと、一目散に逃げていった。

「兄さん……!」

 駆け寄って、兄に抱きつく。兄もリュカを、しっかりと抱きとめた。

「……ごめん、リュカ……」

 兄の言葉に、リュカは兄の腕の中で、首を横に振る。

 謝らなければならないのは、迂闊うかつに人攫いに捕まってしまった自分のほうだ。

「怪我は……」

 腕を解き、兄がリュカの体を確認する。拘束された腕に、男たちの指の痕が、くっきりと赤く残っていた。ぎゅっと眉根を寄せ、兄は静かに、手をかざす。ほんのりと柔らかな光が灯り、じんわりと、陽だまりのような、心地良い温もりを感じた。痛みと赤みが引いていく。兄の回復魔法は、いつも、とても、あたたかい。

「ありがとう、兄さん」

 癒された腕を、リュカは、そっと撫でる。リュカが微笑むと、兄も、やっと表情を和らげた。

「帰ろう、リュカ。明日からは、必ず、どこへ行くにも、ずっと一緒にいよう」

 ふたりで。ふたりきりで。

 守れるように。奪われないように。

 手を繋いで、歩いていく。

 薄陽すら射さない空の下、それでもリュカは寒くなかった。

 兄がいるから、寒くなかった。

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