Chapter 1
1-1
魔法は、無から有を生み出すことはできない。
また、組成の異なるものに変換することもできない。
――魔法録 第1章
* * *
この街の空は、冬になるにつれて、鉛色の日が増えていく。雪こそまだ降ってはいないものの、朝が来てもなお、陽の光は満足に射さない。
寂れた東部の辺境地。旧市街の路地裏に
「クラウスくん、いるかい? ちょっと来てほしいんだけど」
クラウスくん、と女性は再度、待ちきれない様子で呼びかけた。間もなく、外れかけた扉が軋みながら開いて、幼い少年が顔を出す。白い肌に黒い短髪。深く透き通った青い瞳が印象的だ。
「あら、リュカくん。おはよう。お兄ちゃんは?」
「兄さんは、今……」
「リュカ」
言いかけた少年の後ろから、別の少年の声が掛かった。階段を下りてくる足音が聞こえ、リュカと呼ばれた少年よりも幾つか年上らしい、もうひとりの少年が顔を出す。リュカと同じ白い肌に、真直ぐな黒い髪。けれど、長さはリュカより長く、華奢な肩の上でさらさらと揺れている。そして、その瞳は、影の下でも人目を引く、内側から光の
「すみません、ちょっと手が離せなくて、すぐに出られなくて……俺に、何か?」
「あぁ、クラウスくん」
酒場の主人の顔が、ぱっと輝く。
「実は、うちの人が昨日、夜遅くに帰ってきたんだけど、出稼ぎに行った先で足を痛めたみたいで……朝まで水で冷やしてみたけど、どんどん腫れてきちゃって……」
「怪我人ですね、分かりました」
クラウスと呼ばれた少年は、微笑んで
「良かったわぁ! それじゃ、早速、来てくれる?」
「はい」
返事をして、クラウスはリュカを振り返る。
「ちょっと行ってくる。リュカは留守番していてくれ」
クラウスの言葉に、リュカは
「いやぁ、助かったよ。ありがとな、クラウス。俺たちみたいな貧乏人は、正規の医者にも魔法士にもかかれないからなぁ」
連れられた酒場の二階。ベッドに上体を起こした男は、クラウスの背中を叩き、豪快に笑った。幸い、男の怪我は単純な骨折で、クラウスの回復魔法で治すことができた。
「朝一番に、ありがとうねぇ、クラウスくん。……これ、お礼に、持って帰って」
酒場の主人が、紙に包んだパンを差し出した。柔らかく温かい。焼き立てだった。ありがとうございます、とクラウスは笑顔で受け取る。
「これからも、よろしく頼むな」
「はい。俺で良ければ、いつでも」
お大事に、と微笑んで、クラウスは足早に帰路についた。
街の人々は、日々こうしてクラウスを頼る。怪我の治療だったり、壊れたものの修理だったり、依頼は様々だが、日夜を問わず、クラウスのもとを訪れる。そして、クラウスの魔法のお礼に、食べるものや、着るもの、時には数枚の銅貨を、与えてくれる。
「朝食のパンを貰えたよ。冷めないうちに食べよう」
息を切らして走り戻ったクラウスを、リュカは複雑な表情で迎えた。
「……パンを貰えたのは良いけど……」
俺は、兄さんが心配だよ。
「昨日も、夜遅くに呼ばれて、兄さん、あまり眠れていなかったじゃないか。俺は魔法が使えないから分からないけど、魔法を使うのって、負担が大きいことなんじゃないの……?」
街の人たちは、ちょっと兄さんに頼りすぎだと思う。
ぽつりと、そう言って、リュカは視線を下げた。
クラウスは八歳で、リュカは五歳。ふたりきりで暮らすのに贅沢は言えないことは分かっている。街の人から声が掛からない日は、旧市街の中心地に行って、仕事を探す。運が良ければ、観光客から荷物持ちや道案内の仕事を貰うことができる。けれど、その仕事で得られるお金では、一切れのパンも買えないことがほとんどだ。
「魔法でパンが出せたら良いのにな」
クラウスは苦笑する。廃屋に吹き込む隙間風が、ひゅうひゅうと冷たい。一枚の毛布にふたりで包まって、貰ったパンを分け合って頬張る。寒さも、飢えも、魔法で簡単に解決できたら楽なのに、それは叶わない。
この世界の魔法には、いくつかの絶対的な制約がある。例えば、魔法は無から有を生み出すことはできず、組成の異なるものに変換することもできない。だから、どんなに凍えても、火種がなければ炎で暖を取ることはできず、どんなに飢えても、泥水をパンに変えることはできない。
「……俺にも、魔力があれば良かったのに」
リュカが
「兄弟なのに……俺には兄さんと違って、魔力が欠片もない」
魔法が使えたら、少しでも兄さんを助けることができるのに。
リュカの声が、悔しそうに震える。
「魔法は万能じゃないよ、リュカ」
ぽん、とリュカの頭に手を置いて、クラウスは微笑んだ。
「リュカには、魔力よりずっと凄い力があるじゃないか」
「え……?」
リュカが顔を上げる。クラウスを映して
「俺を元気にする力だ。リュカにしかない力だよ」
クラウスは笑った。しんしんと凍える廃屋の中で、互いの温度だけが温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。