貴族令嬢が婚約破棄されるけどざまあ展開は無いし悪役も登場しない話
井上初志
第1話
「シャルラ・シュトラウェル公爵令嬢。今宵、この場をもって君との婚約は破棄とする」
高らかな声がパーティーの場に響きました。
さすがはイルベルゼ王国第一王子、アドベルト殿下。威風堂々とした宣言でございます。
柔らかな金糸のような髪、飴を煮詰めたような濃い色の瞳、見た目からも日頃からも穏やかな殿下は一変して、見たこともない厳しい表情でわたくしを見下ろしていらっしゃいました。
アドベルト殿下の隣には、真紅のドレスを着飾ったリンダ・ハートベック子爵令嬢。殿下とほとんど変わりないすらりとした背丈、つややかな長い黒髪──彼女はしなやかな肢体をぴったりと殿下に寄せ、薄く笑みを浮かべていました。その様は同性のわたくしから見ても妖艶な魅力にあふれています。
アドベルト殿下とわたくし、シャルラ・シュトラウェルが共に十歳の時から婚約を取り決められて八年。その関係は今宵、アドベルト殿下によって終わりを迎えました。
しかしながら、この婚約破棄についてわたくしに思うところはございません。……心のどこかで予期していた出来事でしたから。
それ以上に、婚約破棄より何よりもわたくしが避けたい事は一つだけ──。
静まりかえった会場に、ふわりと光が舞いました。大階段に並ぶアドベルト殿下とリンダ、ホールに立つわたくしの間に漂います。
「…………どうして」
触れれば散ってしまいそうな淡い光──今のわたくしにとっては絶望の象徵である、可憐な光。
「どうして、今なの……?」
せめてあと一日、あと半日、あと一時間早ければ。
こんなことにはならなかった。こんなことを起こさせさなかった。そのためにわたくしは殿下の婚約者として──将来の王妃として努力してきたのに。
すべては水の泡となったのです。
* * * * * *
アドベルト殿下がわたくしへの恋心を失われたのは、十歳の時でした。
アドベルト殿下の婚約者にわたくしが選ばれたのは、その立場に相応しい家格と年頃の令嬢が他にいなかったことが理由でございます。
婚約関係が結ばれてからは、父はわたくしを連れて公務へ赴くようになりました。父が王宮でお務めをされている間、わたくしは別室で王族のしきたりを始めとした妃教育を受け、時にはアドベルト殿下の話相手となりました。
社交界デビューもまだの幼い殿下とわたくしでしたが、幼いなりに自らの立場、お相手の身分、お互いの事情を理解して、それなりに良好な関係を築いておりました。婚約者、というよりは仲の良い異性のお友達、といったところでしょうか。
「お手をどうぞ、レディ・シャルラ」
王宮の庭園を散歩するとき、アドベルト殿下はいつもはにかみながらお誘いくださいました。わたくしもまた婚約者として、女性としてエスコートされることを気恥ずかしながらも嬉しく思ったものでございます。
そんなある日のことでした。
いつものようにアドベルト殿下とささやかなお茶会をして、散歩のお誘いをお受けして、庭園を歩いているとき──わたくしはあの光を目の当たりにしたのです。
昼間なのにきらきらと輝く、降って落ちてきた星のような光。とても綺麗なその光は殿下の周りを舞うではありませんか。
「わあ──アドベルトさま!」
「なんだい? シャルラ」
光に気づいていないのか、殿下はおっとりと首を傾げます。
その時、光は淡い軌跡を残して殿下の胸をかすめていきました。
すると──たちまちアドベルト殿下から笑顔が消え去ったのです。
「アドベルト、さま……?」
豹変とまでは言わずとも、急に雰囲気が変わられた殿下の様子にわたくしはたじろいでしまいました。
そんなわたくしを見つめるアドベルト殿下の瞳には、何の感情もございません。温もりも冷たさもない視線を受けて、わたくしはようやく気づいたのです。
ああ、殿下は妖精に恋心を盗まれたのだと。
妖精の存在は古くから言い伝えられております。けれど、実際に目にした方はほとんどいないでしょう。妖精というものはまず人前に現れはしませんから。もし妖精が人の前に姿を現すとしたら、それは恋心を盗むとき。
十歳のあの日、わたくしの目の前に現れた妖精はまさに殿下の恋心を盗んでいったのです。
それからの殿下は表面上、目立った変化は見受けられませんでした。
けれど──お話してくださる際に微笑みかけてくださっていたのが、目を合わせることすら叶わなくなりました。散歩のお誘いはしてくださいますが、手を差し出されることはなくなりました。
妖精に盗まれた恋心は二度と戻ることはありません。
アドベルト殿下とわたくしはいずれ結婚し夫婦となりますが、決して愛が実ることはないのです。その事実にまだ夢見がちだった幼いわたくしはうちひしがれました。
その夜、涙に枕を濡らしたわたくしでしたが、それよりもさらに恐るべき事態があることに気がついたのです。
妖精は恋心を盗みます。そして恋心を失った人間に悪心を与えるのです。
悪心を与えられた者はどうなるのか。考えるまでもございません。ただ破滅の道を行くのみでございます。
稀代の暴君と称された六代前の国王がそうでした。
かつては優れた政を行い、臣民から慕われていた時の国王でしたが、妖精に恋心を盗まれると王妃を国から追放し、悪心を与えられてからは暴君へと変貌したのです。王妃と離縁することを諌めた臣下を投獄し、それを非難した貴族達は処刑。遊興に耽り国庫を浪費し、政務を放棄して国は傾きました。
妖精に与えられた悪心はもはや変えられません。その結果、国の先行きを憂いた者達の手によって王は誅されたのです。それからは後継の王が数代掛かりで国を立て直し、今や西方一栄えたイルベルゼ王国があるのです。
次期国王のアドベルト殿下に悪心が与えられては同じ歴史が繰り返されてしまいます。そんなことあってはなりません。ならば、婚約者として、未来の王妃として、殿下に諫言しお支えできるのはわたくしだけ。決意を新たにしたわたくしはいっそう妃教育に打ち込みました。
けれど、幸いと申すべきでしょうか──アドベルト殿下は恋多き方でした。
初めて妖精が現れてから半年ほど過ぎた頃、あの可憐な光がふたたび姿を見せたのでございます。そして、またもや殿下の恋心を盗んでいったのです。わたくしへの恋心はとうに失われていましたから、殿下は別の誰かに恋をしていたという証にございます。
その頃、アドベルト殿下のもとには新しい侍女がついたばかりでした。明るく溌剌とした彼女は当時十五歳と年が近いこともあり、早々に殿下と打ち解けていました。彼女の次にアドベルト殿下が親しくされたのはわたくしのダンスの教師。またしばらく後にはマナーの先生。殿下とわたくしが王立学院に入学してからは、同世代の貴族令嬢達。アドベルト殿下の側に女性の影が見えるたび、妖精の輝き舞う風景はわたくしにとって当たり前のものとなりました。
これでは妖精も悪心を与える暇などないでしょう。
「シャルラ。最近ずっと難しい顔をしているが、何かあったのかい?」
「……何もございません。お気遣いいただきありがとうございます」
「そうかい? 君がそう言うのなら……。でも、もし何かあれば話しておくれ。僕達は婚約者なんだから」
そんなお言葉を掛けてくださるアドベルト殿下の表情はとても真摯で、本当にわたくしを心配されていらっしゃいました。気が多い殿下ですがもともとはお優しい性格にあらせられますし、建前上は婚約者のわたくしを無下にはできないのでしょう。
けれど、わたくしにとって殿下のその優しさは虚しいばかりでございました。
そうしてうわべだけの婚約関係と学院生活を経ていけば、ひっきりなしに舞っていた可憐な光は次第に見かけることが減っていきました。殿下も次期国王としての自覚をなさってきたのか、色恋にうつつを抜かすわけにはいかなくなったのでございましょう。それでも二、三ヶ月に一度は妖精が見えていましたけれど。
やがて、アドベルト殿下とわたくしが学院の最終学年を迎えた時──。
「あなたがシャルラ様? 初めまして。これからはどうぞ、あたしと仲良くしてくださらない?」
彼女、リンダ・ハートベックが現れたのです。
「アドベルト様から話に聞いてましたけど、本当に美人なんですね。その金髪もきれいで羨ましいですわ。ほら、あたしは黒髪だから色っぽいとか言われるんですけど、それってやらしく見えるってことじゃないですか。あたしはそんなつもりないのに、まるで娼婦みたいに言われるのって嫌ですよね」
初対面にも関わらず喋り倒すリンダにわたくしは呆気にとられてしまいました。
灰色の切れ長の目と長くしなやかな黒髪はたしかに色香があふれており、高い身長にすらりとした体つきを補って余りあるほどです。しかし、仮にも貴族令嬢でありながら慎みも礼儀もない言動にわたくしのみならず、他の生徒達も眉をひそめました。
ただ、それにも一応の理由がございましたのです。
「あたし、元々は平民だったんです。それが去年、ハートベック卿があたしを養子に引き取りたいって言ってきて。じつはあたしのご先祖様が貴族だったんですって──それが色々あって平民になったらしいんですけど、人生何が起こるか分かりませんね」
「…………リンダ、そのお話はあまり人にすべきではありませんことよ」
「そうなんですか?」
貴族が平民になるとはつまり、没落したか庶子であったかのどちらかです。どちらにせよ、まるで世間話のように他人に明かすなどハートベック家の恥を晒しているも同然──彼女はそもそも貴族としての常識や考え方を知らなさすぎたのです。それを備えさせるべくハートベック卿はリンダを学院に入れたのでしょうけれど、最低限の教育を施しもせずに丸投げ、それも最終学年に編入させるなどあり得ません。頭の痛いことです。
その一方で、彼女の振る舞いを「親しみやすい」と捉える生徒もおりました。
「リンダは飾ったところがなくて、話していて面白いんだよ。令嬢らしくないから女性であることすら忘れてしまってね。びっくりすることもあるだろうけど、シャルラも良くしてやっておくれよ」
「ひどいわアドベルト様! あたしは頑張って立派なレディを目指しているのに!」
「ははははっ」
リンダを好意的に評した生徒の大半は男子で、アドベルト殿下もその一人でした。殿下は親友ができたようだと喜んでいらっしゃいましたが、リンダの態度は周囲の──とりわけ女子生徒達のひんしゅくを買っていました。
殿下の姿が見えれば真っ先に駆けつける。男性同士で話しているのに平然とその輪の中に飛び込む。わたくしという婚約者がいる殿下と二人きりになることもしばしば……ある意味分け隔てないリンダをたしなめる者もいましたが、当の彼女はどこ吹く風。殿下に至っては堅苦しいことを言うなと庇う始末。
「立派なレディになりたいのなら、シャルラを頼るといい。彼女は頭もいいし作法も完璧だ。分からないことがあればシャルラに、もちろん僕に尋ねてくれても構わない」
「あら、ありがとう。アドベルト様。シャルラ様もよろしくお願いしますね!」
「リンダもシャルラも、二人とも同じ女性として仲良くしてくれたら僕は嬉しいな」
「……殿下の仰せとあらば」
わたくしもわたくしで慣れたものでございました。他の女子生徒からはずいぶんとご寛大なことと労われましたが、本音としてはそろそろ落ち着いてくださればいいものを、と半ば冷めた心地です。それに、いずれは妖精によって盗まれる恋心です。
けれど、そんなわたくしの考えを裏切るように妖精は現れませんでした──学院の卒業記念パーティーで婚約破棄を告げられる、あの時まで。
* * * * * *
「どうして、だと? そんなの決まっているじゃないか」
わたくしの呟きを聞きつけたのか、殿下は階段上で声を荒らげます。
「父上こそいないが、将来のこの国を導く我が同輩や友が一堂に会しているんだ。彼らは今夜の出来事の証人にふさわしいだろう」
わたくし達を取り囲む観衆は沈黙のまま、成り行きを見守っています。
相変わらず妖精はふわふわと漂っておりました。きっと、周りの見物人や殿下達には見えていないでしょう。
「ねえ、シャルラ様」
鼻にかかったハスキーな声でわたくしを呼んだのはリンダです。
「あたし、本当にシャルラ様のことを尊敬してたんですよ? 美しくて、聡明で、理想のレディそのもので──だからあたしもシャルラ様のようになりたくて、目指していたのに……」
眉尻を下げたリンダの悲しそうな表情はいっそわざとらしく見えます。彼女は真紅のドレスの裾をひるがえすと隣の殿下へ抱きつきました。
「あたしとアドベルト様の仲がちょっと良いからって、あんな仕打ちはひどいわ! あんまりよ!」
「リンダ……」
胸元にすがりつく彼女を一瞥すると、殿下は依然険しい眼差しを階下のわたくしに向けられました。
「君のおこないはリンダからすべて聞いている」
「…………わたくしが何をしたと仰るのですか」
「君自身がよく分かっているだろう。胸に手を当ててみるといい」
「思い当たることがございません」
「嘘よっ!」
がばりとリンダが顔を上げました。
「あたしに貴族としての常識が無いとか、女なのにはしたないとか意地悪を言って──そのうえいやらしい黒髪だってあたしの髪を引っ張ったわ! 服をムリヤリ脱がそうとしたことも……っ!」
「リンダ、もういい」
「ああ……アドベルト様……!」
興奮するリンダを殿下が力強く抱きしめて、リンダもその背中に両腕を回しました。そんな二人の姿をわたくしは呆然と見上げるだけでございます。
アドベルト殿下のお頼みに従い、リンダに貴族令嬢としての嗜みを折に触れて教えていたつもりでした。髪のことだって、まとめもせず流したままの彼女を見かねて手ずから結わえただけのこと。制服の襟や袖にフリルで過剰な装飾を施していたから、着替えるように注意しただけのこと。
「シャルラ」
わたくしを睨みながら、アドベルト殿下が低く唸りました。
「もう二度と僕にも、リンダの前にも姿を現すな」
──全身から血の気が引いていくような、あるいは本当に血の気を失っていたのでございましょう。履き慣れているはずのハイヒールは急におぼつかなくなり、気を保っていなければ今にも膝から崩れ落ちそうです。
周囲のささめきが消え、音という音が絶えたようでした。もはやわたくし自身どこに立っているのかも分からないほど視界があやふやです。
けれど、唯一はっきりと見える星のような光が──不思議にも輝きを増した妖精が、わたくしのもとへと近づいていました。
「させるかよっ!」
獰猛そのものの雄叫び。
真紅の裾をはためかせ、階段から飛び降りるその人の手には短剣が握られており──今、投げ放たれたのです。
ずん、と響いたのは剣の刺さる衝撃でしょう。
「っギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
その絶叫はまるで人のものとは思えない、事実、人間のものではございませんでした。
わたくしの目と鼻の先で、妖精は手足を引き攣らせて叫んでいました。短剣に身体を貫かれた痛みは想像するだに恐ろしいですが──苦悶に剥かれた目が、ギョロリとわたくしに向きました。口から血のようなどす黒いものを垂れ、全身をいびつに震わせるその様はとてもあの可憐な光の正体とは思ません。
果たしてこれは本当に妖精なのでしょうか?
「アアアアアアア゙ア゙ア゙ア゙!!!」
叫びながらわたくしへと手を伸ばしますが、怨嗟にまみれたそれに恐れをなしたわたくしは動けませんでした。息をするのもやっとのことです。
「ひっ……」
「シャルラ!」
凍りついていたわたくしの体は、強い力でその場からもぎ取られました。
目の前から遠ざかっていく妖精──その向こう側には、黒と紅をまとう彼女。
ドレスと同色の手袋に覆われた手が短剣を握り、下へ振るいます。その勢いによって、串刺しだった妖精が床へと打ち捨てられました。
「ア゙──ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙……!」
なおも上がり続ける悲鳴はまるで毒のようで、聞く者に耐えがたい悪寒を与えるのみ。
しかし、リンダは憎悪に満ちた叫喚をものともしていません。
短剣を両手で構えると一切の迷いなく、苦しみのたうつ妖精へと突き立てたのです。
剣先が床を抉る音を最後に、妖精の断末魔は完全に断たれました。
「消えちまいな」
そう呟いたリンダの声は、ぞっとするほど低いものでございました。
「シャルラ──シャルラ、大丈夫かい?」
「…………でん、か?」
気がつけば、前髪が触れ合いそうなほど間近からアドベルト殿下に顔を覗きこまれておりました。たちまち頬が熱くなり殿下から離れようとしましたけれど、わたくしの体はしっかりと抱かれていてびくともしません。
「どこかに怪我は? 妖精から何か良くないものを受けたのかい? それともまさか、心を奪われては……」
「大丈夫ですぜ、殿下」
矢継ぎ早に尋ねてくる殿下の背中に、落ち着きはらった声が掛けられました。
「ぎりぎりでしたが間に合った。妖精も始末できました。ご安心くださいませ」
「……あなたは……」
ドレスの紅とつやめいた黒髪がよく映える、相変わらず色香にあふれた美貌の持ち主──。
「リンダ……?」
「あー、と……その名前で呼ぶのはどうかご勘弁願えませんかね、レディ。『リンダ』の役目はもうお終いなんで」
そう言って苦笑いを浮かべる『リンダ』はいかにも慣れた様子で短剣を──よく見ればアドベルト殿下が腰に帯びていたはずの儀礼用のそれを手に、大股にこちらへ歩み寄ります。一連の所作や粗雑な口調はとても女性らしからぬものです。
「俺はリンド。リンドーロ・ハートベック。──改めてお見知りおきを、レディ・シュトラウェル?」
そして、口紅を引いた唇から発されるのは、鼻にかかっていない重みのある低音にございました。
「と……殿方でしたの……? でも、その格好は……」
「殿下の趣味っス」
「リンド!」
「すみません冗談です。だから殿下をそんな目で見ないでやってください、レディ」
これまでの学院生活で親密な雰囲気を漂わせていたリンダ、いえ、リンドーロと殿下──それを思い返せば冗談とは思えませんでしたが、当の殿下は本気でご立腹の様子です。
けれど、リンドーロは刺々しい視線を意に介することもなく、大仰に肩をすくめてみせました。
「ま、わざわざこんな
「お待ちになって。わたくしの護衛ですって?」
「そうだよ。君は妖精に狙われていたんだ、シャルラ」
「それは殿下のほうではございませんか」
「僕?」
わたくしの言葉に殿下は目を瞬かせます。そのぽかんとした表情についわたくしはむきになってしまいました。
「そうですわ。これまで何十回と恋心を盗まれていらしたのを存じ上げております。その浮気性のおかげで悪心が与えられなかったのは幸いにございましたけれど……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! シャルラ、何を言っているんだ? 浮気だって? ──僕は一度だってそんなことをした覚えはない!」
慌てたように殿下がわたくしの肩を掴みました。張り上げた声と心なしか青ざめたお顔──どこからどう見ても必死なご様子。
「……昔よりも目の色が深くなられたのですね」
「?」
「こうして殿下のご尊顔をまともに拝するのは、何年ぶりでございましょうか」
「──。……あ……ああ……」
ささやかな皮肉のつもりでしたが、見事に痛い所を突けたようでした──濃い蜜色の目はしばし泳いだ後、殿下は顔ごと伏せられました。わたくしの肩を掴まれていた手からも脱力していきます。
「初めて殿下の恋心が妖精に盗まれたときのことをよく覚えております。……八年前のあの時からずっと、わたくしは殿下の横顔ばかり見ておりましたわ」
わたくしではない女性に笑いかけ、気安く言葉を交わす殿下の姿も、この八年ですっかり見慣れたものです。
「悪心を与えられたわけでは無しに、そのような嘘は仰せにならないでくださいませ。──このシャルラ、イルベルゼ王国第一王子の婚約者シュトラウェル公爵令嬢としての立場を重々理解しております。アドベルト殿下のお優しい性格も幼少のみぎりより存じ上げております故、あえて申し上げますわ──愛はなくとも夫婦になれるのです、殿下。わたくしはとうに割り切っておりますので、もう……無用の情けをかけるのはおやめくださいませ」
すべて分かっておりますから。
そう締めくくると、後ろへ体を引きました。殿下はうつむいたまま、わたくしの肩に掛けられていた手がずるずると落ちていきます。
場にふたたび静寂が訪れました。
「──あっはっはっはっは!」
すると、リンドーロが堪えきれないように噴き出したのです。
「何十回も妖精に心を盗まれてたなんて、そりゃ愛想を尽かして当然だ!」
麗しい見た目に反した豪快な笑い声はやはり違和感がとてつもございません。目尻に涙を浮かべたリンドーロがちらりと殿下を見ます。
「そのうえ婚約者に見向きもせず他のご令嬢と親しくされていたとあっちゃあ、潔白だなんだと言い張られても信用ならないでしょうねえ。──さて、まだ申し開きはございますか? 浮気性のアドベルト第一王子様?」
リンドーロはとても楽しそうにニヤニヤとしていますが、何がそんなに面白いことやら。
やがて、アドベルト殿下が顔を上げられました。真っ直ぐな瞳が正面のわたくしを見据えます。
「君はすべて分かっていると言ったが……それは違うと断言しよう」
殿下のお言葉にわたくしは眉をひそめました。
「シャルラ──シャルラ・シュトラウェル。君は僕の大切な婚約者だ。政略上必要だとかに関わらず、僕の愛する唯一の女性なんだ」
「っ……」
殿下の表情は真剣そのものです。不覚にも胸の鼓動が高鳴り、とっさに息を深くします。期待など幼い時分に捨てたはず、ゆっくりと呼吸して胸を鎮めます。
「……昔の話にございます。妖精に盗まれた恋心は如何なことでも戻らないのです、殿下」
「僕は君に恋した瞬間を覚えているよ」
殿下が穏やかに微笑まれました。
「初めて出会ったとき、君は王宮に呼ばれて緊張していたのもあったんだろう。美しい姿勢を崩さないで、まるで人形みたいだった。笑った顔を見てみたい、と願ったよ」
「…………」
「その次は、王宮の庭を散策している時だ」
「……次?」
耳を疑って思わず聞き返してしまいました。そんなわたくしに殿下は口元をほころばせて続けます。
「よく晴れた昼下がりだった。君の手を引いて歩いていたら名前を呼ばれて、後ろを振り返ったら──君が笑ってた。午後の陽射しを浴びた君の金髪は輝いていてとても綺麗だったし、周りには花が咲き乱れていて、そんな中で嬉しそうに僕の名前を呼ぶんだ。たまらなく愛おしくて……一瞬で、心を奪われたよ」
まさか、そんな──問いかけようとしても声が出てきません。唇を震わせることしかできませんでした。
「それからも、どんどん君に惹かれていった。同じ年のはずなのに君のほうがずっと大人びていたから、僕も追いつこうと必死だったな。──あの頃は僕の周りにいる女性といえば母上と侍女くらいだったから、彼女達にもっとスマートなエスコートの方法を請うたり、シャルラの前で平常心を保つにはどうしたらいいかを尋ねたり……。ああ、当時の君の教育係達にもよく話をせがんだな。シャルラがどれほど優秀か褒められるのを聞くのが嬉しくて、学院に入ってからは同級の令嬢達からシャルラの話を聞くのが楽しかったよ」
「のろけじゃねえか」
遠慮のない放言はリンドーロのものでしたが、わたくしはそれどころではございません。殿下も華麗に無視されます。
「いろんな人から君のことを聞いて、君の新たな魅力を見つけるたびに僕はもっと君を好きになった。そんなに恋心を盗まれていたとは思いもよらなかったけど……。でも、そのたびに僕は君に恋をしていたんだ」
そう仰って面映そうにはにかむ殿下のお顔は、幼少時のあの表情と変わりないものにございます。
それでも──素直に聞き入れることができないのは、八年という長い月日のせいでしょうか。
「でしたら……どうして、わたくしを見てくださらなかったのですか……?」
「それは……」
言いよどむ殿下の姿は、わたくしの胸に重苦しさをふたたびもたらしました。
「君が……綺麗だから……」
「…………はい?」
今、何と?
「最初は可愛いらしかったのが、成長するにつれてどんどん綺麗になっていくものだから……顔を合わせると緊張してしまって……。手を取るのも、平静をとりつくろえる自信が無かったんだ……」
「な……」
そんなことで……?
先程までの凛々しさは何処へやら、殿下はいじらしげに頬を紅潮させていらっしゃいます。
馬鹿馬鹿しくすら思える理由に言葉も出てきません。けれど、顔や耳にじわじわと熱が集まっているわたくしも、自分のことながら呆れてしまいます。八年もの間長きにわたって思い悩んでいたというのに──こんな単純な事でほだされそうだなんて。
「ま、殿下はレディ一筋であらせられますからねえ」
含み笑いのリンドーロにわたくしは目に力を入れます。
「貴方……どちらの味方でして?」
「んー? どちらかと問われれば今んとこレディ寄りっスかね。つーか、聞いてくださいよ。このへたれ王子様ときたら、事前の打ち合わせじゃでっちあげの行状を糾弾するはずだったのが、ここぞというときに尻込みしやがったんスよ? しかも俺がすかさずフォローしてやったっつーのに、文句タラタラだわ首絞めてくるわ……」
「君も抱きつく振りして絞めてきただろ……。僕はもともと反対してたんだ。いくら妖精を誘い出すためとはいえ、シャルラにまったくの濡れ衣を被せたうえこんな公の場で断罪するなんて……。もう少しやり方というものがあったはずなのに」
「だーかーら、こうやって心を弱らせて隙が生まれないと妖精も姿を現さないって説明したっしょ? レディは特に気が強いからぬるい手段じゃ通用しなかったってえのによ」
少々聞き捨てならない発言がありましたが、あえて見逃すといたしましょう。
わたくしの冷えた視線に気づいたのか、リンドーロがへらりと笑い返します。反対にアドベルト殿下は表情を引き締められると、わたくしの手を取りました。
「妖精の事は抜きにしても、いままで君に対して誠実とはいえない態度をとってしまっていた……。そのせいでずっと誤解させていたし、辛い思いをさせていた。今日だって、演技とはいえ君にひどい仕打ちをした。シャルラ──すまなかった」
すると殿下は躊躇なく跪き、わたくしの手に額をこすりつけるようにして頭を下げたのです。
「許してくれとは言わない。軽蔑してくれて構わない。どんな謗りも受け入れよう。ただ、これだけは知ってくれ……いままでも、これからも、僕が愛するのは君だけだ。シャルラ」
「…………信じても、よろしいのですか」
絞り出した声は思った以上に強張っておりました。
殿下が跪いてここまで仰るからには、紛れもない真実なのでしょう。──それなのに、まだ心のどこかで燻るものがございました。
「婚約破棄を宣言しておきながら、後になって取り消そうなんて自分勝手なのは分かっている。そんな都合のいいことは言わない。……だから」
殿下が面を上げられました。その目に迷いは見えません。
「シャルラ・シュトラウェル──僕と結婚してほしい」
「…………それこそ、都合のいいことでは、ありませんこと……?」
どうして、こんなときに目に熱いものが込み上がってくるのでしょうか。みっともない姿を晒すわけには参りませんのに、どうして。
「な、泣くほど僕が嫌いになったのかい?」
「……違いますわ」
ずっと、わたくしへの感情など潰えたものだと思っておりました。愛が実ることは決してないのだと思っていたのに。
「こんな……こんなに都合のいい夢を、見てもよろしいのですか……?」
「夢じゃないよ、シャルラ。どうか返事を聞かせてくれ」
力強く否定なさる殿下の声は、表情はたしかに現実のものでございます。
いままで何度、夢見たことでしょうか。何度諦めたことでしょうか。妖精の姿を目にするたび、どれほど絶望してきたことでしょうか。そのたびにわたくしは……。
──ああ、いまさらこんなことに気づくなんて。
何度絶望しようと、何度諦めようと、わたくしはアドベルト殿下の婚約者という立場を手放しませんでした。この関係を壊しはしませんでした。例え殿下のお気持ちがわたくしに向けられなくとも、殿下に尽くそうと決めておりました。
だって、わたくしは
「……愛して、います。アドベルト様」
何度もあなたに恋をしていたのですから。
その瞬間──世界は一変しました。
煌びやかな会場、わたくし達を取り囲んでいた観衆、目に見えるものは見た目こそ何も変わりません。
けれど、たしかにわたくしの目の前のすべてがガラリと変わったのです。
「っ……シャルラ! ああ、シャルラ!!」
アドベルト様に抱きしめられ、ドレスが乱れました。髪型も化粧も崩れてひどいことになっているでしょうが、そんなの気になりません。
「アドベルト様っ……、アドベルト様!」
精一杯抱き返せば、アドベルト様もまた力一杯に抱きしめてくれます。苦しくて、痛くて、でも幸せに満たされていきます。
「お二人に祝福を! ──イルベルゼの未来に多くの幸あらんことを!」
リンドーロの雄々しい叫びが響いた後、歓声が沸きました。
それでもなお、わたくしはアドベルト様にすがりつき、アドベルト様もわたくしを離されませんでした。
* * * * * *
「相変わらず仲のよろしいことで、お二人さん」
のどかな青空の下、賑わう宴の最中に背後から声を掛けてきたのは一人の騎士でした。
ひとつに結わえた長い黒髪、それに見合った高い背丈。しかし、今は宴席に座るわたくしとアドベルト様の陰に潜むようにしてしゃがんでいます。
わたくしと揃って振り返ったアドベルト様は、騎士──リンドーロの顔を認めるなり瞠目されました。
「リンド! こんな所で何してるんだ?」
「本日の主役がふらふらと歩き回るとは……貴方、
わたくし達が囲む宴席の中心には闘技場が設けられております。先程叙任式を終えた騎士達がその腕前を披露するため、いまは準備の真っ最中のはず。
「その前の腹ごしらえっス。昨夜からろくなもん食えてないんで──失礼」
そう言いながら、リンドーロはわたくしとアドベルト様の間に腕を割り込ませると、テーブルに並べられた料理を摘みます。こそこそと盗み食いに勤しむその様はなんと行儀の悪いことか。
よもや、現在国中の注目を集める騎士だとは誰も思わないでしょう。
偽りの婚約破棄宣言に乗じた騒動は、アドベルト様、リンドーロ、そしてハートベック子爵の三名だけで計画したものでございました。万が一にも妖精に気取られてはならないとのリンドーロの進言により、わたくしを含む周囲はもちろんのこと、国王陛下にも事の仔細を明かしていなかったそうです。
無事に妖精を倒し、一連の事情がつまびらかになるとたちまち国中の話題となりました。伝説上の妖精が実在していたこと、その妖精に狙われ続けていた王子とその婚約者のこと、妖精を伐った勇敢な騎士のこと──リンドーロは此度の功労者として讃えられました。
正確にはまだ騎士見習いであったリンドーロでしたが、本日ついに騎士叙任式を迎えたのです。アドベルト様とわたくしの恩人の晴れ舞台ですから、こうしてお祝いに訪れた次第でしたが──。
「それに俺の出番はまだまだですよ。なんせ本日の主役なんで場が温まってからドカンと登場! って演出だそうで」
「そうは言っても何かと準備があるだろう? 形式的な試合といえど、腕試しの意味合いもあるんだから」
「試されたって俺は元平民ですぜ? あんまり期待されてもねえ」
なお、彼は妖精退治の功績によって宮廷騎士隊へ入ることが決定しています。
果物を一欠片咀嚼すると、リンドーロは目についた杯を呷りました。
「──ふう、やっとひと心地つけた……。あれ、この葡萄酒もしや殿下の?」
「うん。美味しかったかな?」
「やっべ」
「構わないよ。新しいのを貰うから」
「アドベルト様、ここはお怒りになるべきですわ」
一年間にわたって目的を同じくし行動を共にしていたためか、アドベルト様とリンドーロは気の置けない友人となったようです。平民育ちの騎士見習いと王位継承権第一位の殿下──身分も立場もかけ離れている二人ですが、アドベルト様のおおらかな気質とリンドーロの図々しいほどに物怖じしない性格が上手く噛み合っているのも、一因にあるのでしょう。
「ところで──レディ、例のお話についてですが」
アドベルト様が葡萄酒を運ばせていると、リンドーロが声を潜めてわたくしに顔を寄せます。やけに神妙な表情です。
「お返事は如何に? 考えて頂けましたか?」
「…………ああ、その事ですけれど……」
「何の話だい?」
どう伝えたものかと逡巡していると、アドベルト様がリンドーロの肩に手を置かれました。顔は笑っておられますが、心なしかその手が力んでいるような……。
「殿下のお耳に入れるほどの事ではありません。俺とレディの間の話ですので」
「君と僕の仲だろ? それにシャルラは僕の婚約者だ」
リンドーロが唇だけで「面倒くせえなこいつ……」とぼやきましたが、アドベルト様はいっそう笑みを深くされただけです。その笑顔に諸々どうでもよくなったのか、わたくしに答えを促しました。
「それで、レディ? お返事は?」
「…………皆さん『友人としてなら良き関係を築きましょう』と」
「何ッッッでだよ!!」
勢いよく膝から崩れ落ちたリンドーロは拳を地面に叩きつけました。慟哭にも似た絶叫です。
「今を絶賛ときめくちょっと軽いけどそこが親しみやすい騎士様だぜ?! 顔良し名誉あり女心の分かるいい男なのに! 何故!?」
「……シャルラ?」
「どうかご令嬢を紹介してほしい、とリンドから頼まれておりまして……。可能な限り、わたくしの友人達に声を掛けてみたのですが」
わたくしの友人達とはすなわち、学院の同級生でもあった貴族令嬢達が主でございます。彼女達は当然ながら“リンダ”と共に学院生活を送っていましたが、あのパーティーでリンドーロが現れるまでは誰一人としてその正体に気づかなかったのです。
『あれほど美しい人がお相手では女性としての自信を無くしますわ……』
全員がお断りした理由はそれに尽きました。
美しさは罪、とはよく言ったものでございます。
「シャルラに紹介を頼まなくても、ハートベック家には交際の申し込みが舞い込んでいるだろ? 求婚する者も跡を絶たず、屋敷の前は連日列を成していると話題だし」
「みーんな野郎ばっかですけどね?」
顔を引き攣らせてリンドーロは不気味に笑います。どういった感情が由来の笑顔なのでしょうか。
「純真なお貴族様のご令息方の間では『殿下の命で男と名乗った女装した女性』って通説が蔓延ってるようで女装した女性ってただの女だろ男の部分見せて現実突きつけてやろうかつったら男でも構わないむしろそれがいいとかいう真性の連中どうすんだと旦那様にぶっ叩かれたくらいには? 俺の女装が完璧過ぎたせいですけど? そもそもだ、そもそも! あんたのせいだからなアド殿下ぁ!」
「人を指差すんじゃない」
「平民のわりに顔が良かった俺も悪かったけどよ! レディの外聞が云々でお為ごかしてましたけど、妖精に恋心を盗まれたレディが俺に惚れる可能性があるとビビってたの丸分かりだったからな! あんたが駄々こねなけりゃ、俺は騎士として学院のご令嬢様方とめくるめくロマンス物語を繰り広げてたのに!」
「君が編入してきた時点でほとんどのご令嬢はとっくに婚約済みだったよ」
「夢くらい見てもいいだろ! クソっ!」
なおも地面を殴るリンドーロを、アドベルト様は慈しむように眺めています。
「リンド! どこだ、リンドーロ!」
「げっ」
遠くから聞こえてきた声にリンドーロが顔をしかめました。
「もうバレたか……。そんじゃ、また後で。お二人さん」
挨拶もそこそこに、リンドーロは腰を屈めたままそそくさと離れて行きます。その背中に向けてアドベルト様が「おとなしく戻ったほうがいいぞ」とたしなめましたが、たちまち人混みの中へ消えました。
「リンド! 逃げてないで出てこんか!」
「リンドーロ殿! “妖精殺し”殿、どこですか!」
探す声は複数。きっと間もないうちに見つかることでしょう。
「ハートベック卿は相変わらず元気だなあ」
「それにしても……“妖精殺し”とは、ものものしい二つ名ですわね」
アドベルト様は杯を傾けつつ、リンドーロの名が飛び交う群衆を見渡します。
「リンド自身も多少思うところがあったようだけど、ようやく先祖の無念を晴らせたんだ。名誉の証には変わりないよ」
「無念?」
思わず聞き返したわたくしにアドベルト様が目を瞬かせました。
「彼は何かしらの因縁が妖精との間にあったのでございますか?」
「それは……あれ? シャルラは聞いてなかったかい……?」
杯を置くと、アドベルト様は体をひねってわたくしと向かい合われます。
「ええと──まず、リンドの出自は知っているね?」
「平民の生まれである、とだけ。今はハートベック子爵家の養子ですので形としては貴族の一員ですが」
“リンダ”から聞いていたお家事情はおおむねリンドーロの立場そのものでもございました。
もともとは平民であった彼は、働ける年齢になると雑用として地方の騎士団へ通い始めました。そのうち見習いとして騎士を目指すようになり、成人を目前としたある日、妖精退治の協力者を求めてやって来たアドベルト様と出会ったのです。
妖精退治を引き受けたリンドーロはまず、正当に学院の門を潜る下準備としてハートベック家の養子となりました。アドベルト様の我儘で女装することになったのは予定外だったようでしたが。
リンドーロを養子に迎えたハートベック家については、アドベルト様の伝手によってご協力頂けたとのことです。先祖が貴族だったという事はないとリンドーロ本人から聞いております。
「そこからか……まあ、彼自身が平民だと言い張ってるから仕方ないか」
アドベルト様は呟き、改めて説明なさります。
「まずはリンドの先祖について話そう。──貴族ではないと彼は言っているが、それは誤りだ。確かに彼の先祖は名のある貴族だったし、リンドだってあるいは平民ではなかったかもしれない」
「まさか……。本当にございますか?」
「普段からああいった態度だから、そうは見えないだろうけどね。それと、貴族と言っても彼はハートベック家の血縁ではない──“アイングトン”の名を聞いたことはあるかい?」
「“アイングトン”……」
口の中で繰り返し、記憶を探ります。
社交界で耳にしたことはない名です。知っている限りの貴族にも覚えはございません。過去に名を馳せた家だったようですが、王侯貴族にまで覚えがめでたい程度ならばわたくしも知っているはず──その時、脳裏によぎるものがありました。
「ひょっとすると……百五十年ほど前の武家の名門がそのような名であったかと存じます」
「そうだ。今の宮廷騎士隊の前身である、王宮騎士団を設立し率いたアイングトン伯爵──その人こそがリンドの先祖であり、イルベルゼを守護した忠義の騎士──そして、リンドーロ・ハインネ・アイングトンがハートベック家に養子へ入る前のリンドのフルネーム。さらに言えば、かつてアイングトン伯爵の下に仕えていた家の一つがハートベックだった」
なんということでしょう。
今の騎士隊の礎を築き、騎士の称号と爵位を持っていたとは国を支えた重鎮ではありませんか。リンドーロはその血を引く正統な騎士だということです。
だとすれば、大きな疑問が一つ。
「それほどの家がどうして廃れてしまったのですか……?」
不肖ながら、妃教育の一環としてイルベルゼ王国の歴史はひと通り学んだつもりです。騎士団の礎を築いた人物とあらば、何らかの理由で没落したとしても相応の事件や騒動が起こったはず。良くも悪くも、アイングトンの名が語り継がれていてもおかしくありません。
わたくしの問いかけに、アドベルト様の瞳がかすかに揺らぎました。
「……六代前の、暴君王のことはもちろん知ってるよね?」
「え──、ええ。妖精に悪心を与えられたという」
「でも、妖精に恋心を盗まれるまでは名君だった。
「そうでしたの……」
「そして、道を誤った王を弑したのもアイングトンだった」
「────」
「その後、新たな王を玉座に据えて政がある程度落ち着くと、アイングトンは爵位も領地も何もかもを返上して野に下った。すべての功績を捨てて、暴君王を討った英雄という賞賛のことごとくを拒んだらしい」
妖精によって変貌した友を目の当たりにし、自らの手で友を討った。
……その心情は如何ばかりか。計り知れません。
周りの群衆が沸き立ちました。歓声の中、闘技場に騎士が登場します。リンドーロではございません。きびきびと剣を構える動きはぜんまい仕掛けの人形のようです。
「……最初は、誰も妖精のことを信じてくれなかった」
剣の打ち合う音が響く中、アドベルト様の声はかき消されてしまいそうなほど細いものでございました。
「伝説に語られているだけで、実際に目にした僕もなかなか信じられなかったしね。それでも妖精退治に力を貸してくれないか、手当たり次第に尋ね回ったよ。──そんなとき、リンドだけが信じて協力を申し出てくれたんだ」
『言っときますが、期待はしないでもらえます? ぶっちゃけ俺だって妖精の存在については半信半疑ですし、見たこともない。もちろん退治の方法だって分からない』
『何も分からないんじゃないか……。そんなのでよく手を貸そうなんて言えたな』
『あ? じゃあ、あんたは大切な人が妖精に狂わされていく姿を、指咥えて見てるだけってか。ずいぶんな趣味だことで』
『…………』
『打つ手が無いなら考えりゃいい。──そのためにずっと駆けずり回ってきたんだろ、あんた』
「……きっと、アイングトンも僕と同じだったんだと思う。僕の想像に過ぎないけど──妖精の存在を目の当たりにして、友を守ろうと模索した。でも……間に合わなかった」
「…………その無念を、リンドは忘れずにいたのですね」
「本人は、見返りが欲しかっただけ、の一点張りだけどね」
その時、空を震わすような歓呼の声が轟きました。
闘技場に目をやれば、そこには鎧に身を包んだ騎士が一人──“妖精殺し”のリンドーロです。
彼の対戦相手も進み出ます。同じく鎧姿の、細身のリンドーロとは対照的に大柄で体格の立派な騎士にございます。
「あの方と戦うのですか? 大丈夫かしら……」
「平気さ。僕らの騎士を信じよう。──シャルラ」
アドベルト様に呼ばれて隣に向くと、蜜色の目と目が合いました。微笑みと共に手が差し出されます。
「そうですわね。──信じると致しましょう。わたくし達の騎士様を」
わたくしも手を差し出せば、アドベルト様の手と重なりました。
優しい色の目は、ひたすらにわたくしを見つめていらっしゃいます。その瞳には、自然と笑みの浮かんだわたくしの顔が映っておりました。
貴族令嬢が婚約破棄されるけどざまあ展開は無いし悪役も登場しない話 井上初志 @inouehatsushi
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