症例⑨ 「奥田 学」
結局その後も杉田経教授とは藤野も西條も連絡はとれないまま手術前日となった。
藤野は医局の机でパソコンをいじっていた。
これまで必死に治療を調べてきて唯一効果のある治療法だったエルガドランが使用できないとなると、もはや打つ手がなかった。
それでもいい方法がないか、藤野は調べ続けた。明日の手術日まであきらめたくなかった。
西條も同じ気持ちだった。藤野の隣で睡眠不足で充血し、腫れた目をこすりながらパソコンにかじりついた。
そんな追い込みをかける二人をよそに、外ではトラックが大きな音をたてて敷居内に入ってきた。
音は一向にやまず、それどころかどんどん騒音は大きくなってきた。
最初は我慢していた藤野も徐々に苛立ちが募り、そして爆発した。藤野はウォーターサーバーからコップに水を汲み、それを窓の外にむけてかけた。
「さっきからうるさいんだよ。こっちは必死になって調べ事してんだ。少しは静かに作業しろ!」
藤野が二階の医局の窓から身体を乗り出して怒鳴った。しかし次の瞬間藤野は固まった。
下にいたのは、びしょ濡れになった奥田部長あった。
藤野はすぐに窓から身体を引っ込めて、座り込んで隠れた。誰かばれていないことを心から祈った。
しかしその祈りは届かなかった。
「藤野先生。ちょっと降りてきなさい。」
奥田部長の声が窓を乗り越えて耳に入ってきた。
藤野はさすがに無視することもできず、窓から顔を出して両手を顔の前で合わせた。
「すいませんでした。今降ります。」
藤野は奥田部長にそう言って、白衣をきて下に降りる準備をした。
西條は面白がって、両手に手錠をかけられるふりをした。
「西條先生もいますよね。一緒に降りてきてください。」
奥田部長は西條も下に呼んだ。
「はい!わかりました!」
西條は藤野が怒られる所を間近で見られると思い、元気よく返事をした。
藤野と西條は医局をでて、階段でトラックのある裏出口の方にでた。
「奥田部長。本当にすいませんでした。まさか部長がおられるなんて思わなくて。」
藤野は奥田部長の姿を見つけてすぐに謝りに行った。
「私じゃなくてもだめでしょう。」
奥田部長は眉を顰めた。
「すいません。」
藤野は気まずい顔をして、再三謝った。
西條は隣で口を押えながら大笑いしていた。
「まあいいです。君たちにいいものを見せようと思いましてね。」
奥田部長はこほんと咳払いをしてから、トラックの運転手に合図をだした。
するとトラックのウイングサイドパネルが羽のように開き始めた。
藤野と西條はトラックの中身をみて、驚きを隠せなかった。
トラックの中には大きな機械が入っていた。
「手術用ロボットだ。」
藤野の口から言葉がこぼれた。
「でも大学病院にあるものと違う。こんなの見たことないわ。」
西條は興奮しながら奥田部長に言った。
「そう。これはヴェサリウス。最新モデルの手術用ロボットですよ。いままでついてなかった触覚もこのアームにはついています。」
奥田は満足気に笑いながら、二人に言った。
これまでの手術ロボットは繊細な動きと多関節による自由自在な動きを可能にしてきたが、触覚がなかったため慣れていない術者が使用すると組織を知らない間に損傷していることがあった。ヴェサリウスはその弱点を克服した国産のロボットであった。
「なんでそんなものがうちに。」
藤野は奥田部長に尋ねた。
「院長にはまだ内緒ですが、今後当院でもロボット手術を導入したいと思っているんです。ただ、私だけがほしいと言っていても買ってもらえませんからね。まずは多くの人にロボットの存在と凄さを知ってもらおうと思って業者に持ってきてもらったんです。」
奥田部長は嬉しそうに話していたが、藤野には到底理解のできることではなかった。
なぜ佐々木先生がこんなに大変な時に、関係のないロボットなんてもってきているのか。
そんな暇があるなら、佐々木先生のよりよい治療法を少しでも考えるべきだろう。
藤野は呆れかえってしまった。
「俺は忙しいので、医局戻ります。奥田部長、鑑賞会するのは結構ですけど、明日は大切な日であること忘れないでくださいね。西條先生も戻ろう。」
藤野は苛立ちを抑えながら奥田部長と西條に話しかけた。
西條は新作ロボットに夢中になっているのか、ぶつぶついいながらロボットを隅々まで観察していた。
藤野は頭を掻きながらその様子を見ていた。しばらくして西條を連れていくのを諦めて、一人で医局に戻った。
次に院長が汗を大量にかきながら奥田部長のもとに走ってやってきた。
「これはどういうことですか、奥田部長。ロボットなんて、うちに買うお金はないですよ。」院長は困った顔をして言った。
「いやいやこれはデモ機ですよ。買う買わないは別にしても、勉強することは大切でしょう。それにこれからは今まで市場を独占していた会社のロボット特許が切れて、他社のロボットが沢山でてきます。価格競争も起こるでしょう。そうなれば、うちも安くロボットを変える日が来るじゃないんですか。」
奥田部長はもっともらしい理由をつけて、院長を丸め込もうとした。
「レンタルにしても、お金は発生してますよね。」
院長も用心深い。
「いえいえ。業者さんのご厚意ですよ。ねえ。」
奥田部長の隣にいたスーツの眼鏡男は満面の笑みで頷いた。
院長もお金がかかってないとなると、撤去する理由もなく逆戻りして院内に戻っていった。
西條はロボットを眺め終わると、考え込むように座り込んだ。
奥田部長は静かにその様子を眺めていた。
今夜はこの病院が一番盛り上がる、花火大会の日だ。
今日だけは、どの科も早上がりをして花火を観に行く。藤野ら消化器外科も予定手術は最低限にしていた。
藤野にとっては人生最期の夜であった。
そんな日に花火が上がるとは、人生の運気が最期に集まったような配分だなと藤野は思った。
藤野は毎年緊急手術が入ったり、急患が来たりして花火大会をゆっくり楽しんだことがなかった。
今年は今年で佐々木先生の執刀という大役を任され、浮かれる気持ちにはなれず、夜になってもCT画像を何度も見直していた。
自分が執刀するわけではないが、少しでも手術に役立つ情報を残したかった。
藤野は頭の中は完全に煮詰まり、これ以上考えると逆効果な気がした。それでも考えていないと、失敗した時に佐々木に申し訳ないと思った。
再度気合を入れなおしてパソコンに向かおうとした時、突然右頬に冷たい物体がふれ、藤野派は飛び上がった。
振り返ると、西條が立っていた。両手にはそれぞれノンアルコールビールをもっていた。
「そんな思いこんでどうしたんですか?」
西條が笑いながら藤野を見て言った。
「どうしたんですかって、明日佐々木先生の手術だから入念に準備しているんだよ。そっちこそどうしたんだよ。そんな物持って。」
「約束したじゃないですか。一緒に花火見るって。」
西條は少し恥ずかしそうに言った。
「たしかにそんな約束だったな。」
藤野は画像を見ながら、西條に言った。
約束はしたものの、やはり後ろ髪ひかれる思いだった。
すると西條がパソコンの電源を切ってしまった。
「私がもう穴が開くくらい画像を見ました。だから今日はもう休みましょう。」
西條は自信ありげに藤野に言った。
藤野はちょっと苛立って、不満を言おうとしたが西條が先に声をだした。
「少し力を抜いてください。ただそれを伝えたくて。不快になったのならすいません。」
西條は気を遣ってくれていたのだ。
そんなことにも気がつかないくらい、藤野は視界が狭くなっていた。
「いやこっちこそごめん。確かに、ちょうど煮詰まっていたんだ。一緒に行こうか。花火。」藤野は彼女がもっているノンアルコールビールをうけとった。
一階に併設されているコンビニに寄った後、二人は屋上にむかった。
さすがに今夜は長椅子が埋まっており、人混みもそれなりだった。
「すごい人混みですね。これは立ち見ですかね。」
西條は周りを見渡して言った。
「いや、まだあきらめるのは早いよ西條先生。」
藤野は得意気に西條に言った。
藤野は振り返り、屋上の扉の上を指差した。西條はまだぴんときていなかった。
藤野は西條をつれて、裏にある梯子階段を見せた。梯子の隣には関係者以外立ち入り禁止のマークがついていた。
「屋上のそのまた上。ここは俺の秘密基地だ。」
藤野は梯子階段を登った。西條も続いて上がってきた。
秘密基地についた西條はとても驚いていた。
「ハンモックだ。」
二人の前には六畳程度の広さに青い色のハンモックが柵につられていた。
「秘密基地といっても昼寝用のハンモックがあるだけ。ここは、警備員さんと掃除のおじさんと仲良くなって勝ちとった俺だけのスペースなんだ。」
「すごーい。私ハンモックはじめてなんです。」
西條は少女のように目を輝かせて、盛り上がっていた。
「これ藤野先生が作ったんですか。」
「もちろん。」
「いつもここでサボってるんですか。」
「サボってないって。」
「今度からサボりたいとき私も使っていいですか。」
「だめだよ、今日だけだから。しかもサボってないって。」
そんな会話をしていると大きな音とともに花火が始まった。
二人はハンモックに腰掛けて花火を眺め、ノンアルコールビールで乾杯した。
藤野が小さい頃に見ていた花火とは違い、色も形もバリエーションが豊富になった。
それでも大人になると、花火そのものの綺麗さに感動しなくなっていた。
ただ、今日はいつもより綺麗に見えるのは、やはり人生最期の花火という修飾がかかっているからなのだろう。
「自分が明日死ぬなんて到底思えない。こんなに体調の変化がないのに。本当に死ぬのかな。」
藤野は冗談っぽく西條に聞いた。
「ええ。残念だけど。」
西條は花火を観ながら答えた。
「そうか。」
藤野は缶を傾けてノンアルコールビールを飲んだ。こんな酔いたい時に限ってアルコールは含まれていない。
藤野はハンモックが突然揺れて、ノンアルコールビールを零しそうになった。何とかバランスを保ち西條に文句を言おうとした時、西條が動いたことに気がついた。
花火が連発で上がる中、西條は突然顔を藤野に近づけた。
「どうしたの急に。」
藤野は動揺して右にいる西條の方に顔を向けることができなかった。
西條は真剣な顔で見つめてくるのを、藤野は横目で確認した。。
藤野は花火どころではなくなり、花火よりも大きな鼓動を感じていた。
すると西條は左手を藤野の右手に重ねた。
藤野は西條の方をむいた。
見つめ合う形となり今度は、藤野は西條から視線を外すことができなくなった。
西條の瞳が花火で赤く染まった。
西條が顔をさらに近づけて、藤野は目を閉じた。
シャンプーのいい香りが藤野を包み込む。
耳元で優しい声がした。
「藤野先生、これだけは忘れないでください。明日どんな結末になっても、誰かを憎んではいけない。あなたの事を想っている人がいるってことを思い出してください。」
西條の心地よい声がすっと耳を通り、高鳴っていた鼓動が落ち着いた。
目を開けると西條は少し離れて花火を眺めていた。
二人の手は重ねたままだった。
やはり今までの不運は今日のためにあったのかもしれない。
「暑いな今日は。」
奥田部長と佐々木は扇子を仰ぎながら、佐々木の病室で花火を観ていた。。
「今年の花火はいつにも増して綺麗でした。いやぁ、素晴らしかった。」
佐々木は眼鏡をとってタオルで汗を拭った。
「佐々木先生、これいかがですか。この蒸し暑い夜にはピッタリでしょう。」
そう言って奥田部長は佐々木に冷えた缶のノンアルコールビールを向けた。
「たまにはいいでしょう。こういうのも。」
「そうですね。たまにはね。」
そういって佐々木は、缶ビールを受け取り静かに奥田部長と乾杯した。
「佐々木先生、明日のことなんですが、、、」
「奥田部長。敬語はやめてくださいよ。昔の鬼の奥田部長を知っている身からすると、逆に怖いですよ。」
佐々木は久々のビールの味と奥田部長の敬語に苦い顔をした。
「なあ、今からでも手術は中止にしないか。手術なんかしたら、お前の寿命が、、、」
奥田部長は最後まで言えずにいた。
「懐かしいですね先生。昔はこうやって手術終わりに二人で乾杯したものです。」
佐々木は奥田部長の言葉は遮って話始めた。
「あの頃は本当に楽しかった。どんなに大変な時でも、常に目の前は輝いていた。がむしゃらに努力して、勉強して。患者さんが笑顔で退院していく姿をみる。至高の喜びだった。」
「佐々木はよくやってたよ。」
奥田部長はゆっくりとノンアルコールビールを飲んだ。
「よくやった。そうですね。私はよくやっていたと思います。」
佐々木は小さく笑って言った。
「もし私に孫ができて、将来必死に野球に打ち込んで大会で結果を残せなくても私は孫に同じことをいうと思います。『よくやったよ、お前は。』って。ただ、私達は外科医だ。野球でなく、手術だ。人の命を預かっている。よくやったなんて、なんの意味もないんです。」
佐々木はノンアルコールビールを煽った。
「相変わらずストイックだな。」
「大学で学んだことですよ。」
佐々木は皮肉めいて言った。
「やはり大学を恨んでいるか。」
「もう昔のことです。今更そんなことを言っても誰も幸せにならない。」
佐々木は花火が小休止となった窓の外をみた。
花火が上がる前の夜空は、希望に満ちた漆黒だ。
「百歩譲って手術をするにしても、なぜ藤野に執刀させるんだ。責任をもって、俺が切るといってるのに。」
奥田部長は不満気に言った。
「奥田部長。私はあなたの熱意のこもった素晴らしい手術を間近で見て、あなたのようになりたいと思った。私が今までペースダウンしながらもなんとか走り続けてこれたのはあなたのおかげなんです。ただ、私にはあなたほどの手術を見せることもできなければ、その域に達する余命もない。だから私は、文字通り命を懸けるんです。」
佐々木は自分の心臓を力強く叩いた。
「藤野先生が私の執刀医となれば、彼も熱くならざるをえないでしょう。きっと一生懸命勉強し、腕を磨く。そして、それでも私の命は救えない。そのことを糧に、彼は一層飛躍するでしょう。そうなれば私が救えなかった患者達を彼が救えるようになる。」
佐々木は目を輝かせていた。自分の死のことなど眼中にないように。
「仕方ない。わかったよ。」
奥田は両手を挙げて降参のポーズをとった。
「それにしても佐々木がそこまで藤野を買っているとはな。知らなかったよ。」
「こうみえて私は後輩思いなんですよ。」
二人は笑いながら、空のビール缶で再び乾杯をした。
そしてついに当日を迎えた。
藤野はいつも通り目覚まし時計で目を覚ました。
ベッドから降りて、ストレッチで体をのばした。
身体の調子はいつも通りであった。自分の人生が今日で終わりなんで信じられないくらいだ。
命日にも関わらず、いつも通り寝ることができたのは自分の中の新発見だった。
藤野は水道から水を汲み、いつもより喉を鳴らして飲んだ。そして今日のスケジュールを再度頭の中で確認した。
藤野は計画通り今日は出勤しない予定だった。そして西條から連絡がきても出ない。完全に無視するんだ。そうなると執刀医は奥田部長、第一助手に西條、第二助手に牧野となる予定であった。
佐々木先生や奥田部長には申し訳ないが、いつ倒れるかもわからない人が執刀医になるわけにはいかない。
藤野は残りの水を飲み切った。
部屋は昨日の夜に可能な限り整頓した。亡くなった後片付けをする人は、叔母さんだろうと藤野は考えていた。大切に自分を育ててくれた叔母さんに、できるだけ迷惑をかけたくなかった。
でもあんまり準備しすぎると、自殺したと怪しまれても嫌だったので契約解除などは行わなかった。遺書も書けなかった。
藤野はいつも通りの恰好で家をでた。
猛暑の時期をすぎて、秋を感じる涼しさだった。
人は散歩日和だったり、運動日和だったり表現するだろう。
藤野にとって、今日は命日日和であった。
死に場所は決めていた。
今日の手術の邪魔にならず、人目につきづらい場所。それでもって自分が好きな場所。
藤野は私服のまま病院に入り、なるべく人と会わないようにして屋上にむかった。
屋上にでると、風がより心地よく感じた。湖が太陽の光を反射して輝く。
海ではないが、仕方がない。
それでも今日はきっといい日になる。
藤野はなんとなくそんな気がしていた。
藤野はハンモックに揺られながら、今までのことを振り返っていた。
楽しかったプール。
父さんと母さんがいる幸せだった食卓。
嵐の中、病院に向かう父さんの後ろ姿。
冷たくなって棺桶に入った父さん。
首をつって動かなくなった母さん。
新しい苗字のネームプレート。
必死に勉強して合格した医師国家試験。
外来で暴れて秘密を暴露する患者。
新天地の龍明総合病院。
初対面にも関わらず怒っている西條。
春巻きを美味しそうに食べて嬉しそうな西條。
余命を俺に伝えて泣いている西條。
隣で花火をみている西條。
あの父さんの事件が起きてから、本当に辛い人生だった。常に罪の意識が薄れず、誰かに謝罪の気持ちをもって生きなければならなかった。
自分が何をしたいというよりは、何をしなければいけないのかを考えて生きてきた。
死ぬまで終わらない罪滅ぼしが、ゆっくりと心を蝕んでいた。
西條に最初に余命を伝えられた時、正直よかったと思っていた。救われたと。
今までずっと何かに追いかけられて、ゴールのない道を俺は走っていた。ゴールが見えて後ろを振り返った時、俺を追っているものは何もなかった。
もう走る必要はなかったが、俺は走り続けていた。隣には西條がいてくれた。辛いこともあったが、走っている俺はきっといい顔をしていた。そんな自分も悪くないと思えた。
左腕に着けた腕時計のタイマーは残り五秒を示していた。
そうか俺はもう。
藤野が目を閉じると涙が頬をつたった。
ピーピーピーピー。タイマーが鳴った。
藤野は目を開け、何回も瞬きをした。そしてゆっくりと起き上がり、タイマーを切った。
涙をスクラブで拭き、胸にゆっくり手を当てた。
心臓は動いている。
「生きてる。」
藤野は自分が生きていることに戸惑っていた。
藤野は戸惑いながらも屋上をでて手術室に向かった。
理由はわからないが、西條の予見は外れていた。何かが起きて運命が変わったのか?
なんにせよ、生きているのであれば佐々木の手術を手伝える。
藤野は気持ちを切り替え、手術着に着替えて佐々木の手術が行われている部屋に入った。
ドアをあけて入ると、信じられない光景が待ち構えていた。
ロボットが佐々木を手術していた。そして術野では西條がアームのサポートをしていた。
ロボットのスピ―カーからは聞き覚えのある男の声が手術室に響いていた。
「どういうことだ。」
藤野は呟いた。
「それは私から説明しよう。」
藤野は後ろをみると奥田部長が腕を組んで立っていた。
「どういうことですか、奥田部長。ここに奥田部長がいて術野でアーム交換をしているのが西條先生なら、手術をしているのは誰なんですか。」
藤野はパニックになっていた。
奥田部長がにやりと笑い藤野の肩を叩いて言った。
「よく声を聞いてみなさい。必ず聞いたことのある声だよ。」
藤野は的確な指示をだす声と記憶を結び付けようと頭を回転させた。
「西條君。三番アームを電気メスに交換してくれ。」
この落ち着いた声。
「杉田教授ですか?」
藤野は自分でも驚きながら奥田部長に尋ねた。
「そう、杉田教授です。杉田教授が帝東大から遠隔操作で佐々木先生の手術をしている。」
奥田部長は答えた。
藤野は状況を全く飲み込めなかった。
藤野は助けを求めるように西條の方を見た。二人は視線が合ったが、すぐに西條は術野に目を戻した。
「この状況を理解するためには、最初から説明する必要があるでしょう。計画を練ったのはある二人の外科医です。」
そう言って奥田部長は藤野に語り始めた。
「二人の外科医の師匠は、ある事件を契機に外科医を辞め自殺しました。その自殺した外科医には高校生の子供がいました。しかし、その子の母も精神を病み自殺してしまいました。」
「二人は自分の師匠の子供の成長を気にしていました。しかし二人の不安をよそに、高校生だった少年は道を外すことなく立派な男に成長し父と同じ医師になりました。二人は心から喜びました。教授となった一人は自分を育ててくれた恩返しとして、師匠の子供を熱心に指導しました。もともと人付き合いが苦手だったこともあり、指導方法は不器用なものでした。それでも男は外科医としてしっかりと育っていきました。」
「ただ男は、父と違いどこか冷めていました。医療に対して距離をおいているようでした。そんな姿をみて二人は気づいてしまいました。その男は自らの意思で医療現場に身を置いているのではなく、贖罪の気持ちで働いているのだと。二人は悩みました。技術的なところは教えられても、心の芯の部分はそう簡単には変わりません。そんな中、再び事件が男を襲い大学病院にいられなくなりました。そして田舎の市中病院に飛ばされてしまいました。」
「病院が変わってもその男は周囲と上手に付き合い、与えられた仕事はしっかりとこなしていました。しかし、男の目に火が灯ることはありませんでした。父の事件がトラウマで医療にのめりこむことを避けていたんだと思います。二人の外科医は男に、師匠が命をかけて全うした外科医という仕事としっかり向き合ってほしかった。」
「そして二人はある計画を思いつきました。あまりに大胆で、リスクのある計画。それは男に余命宣告をするというものでした。」
「これは賭けだった。余命を聞いて医師という仕事を辞めてしまう可能性も十分にありました。それでも二人は信じていました。男がもう何かに追われているのではなく、自分の意志で走っていることに気がつくことを。」
「そして男は二人が信じたように余命わずかになりながらも外科医として懸命に働きました。外科医として自分の意志で命と向き合った。」
「これが今回の一部始終だ。」
奥田部長は話終わり、大きく息を吐いた。
「その二人は奥田部長と杉田教授。その師匠というのが俺の父さん。その子供の男が俺。そういうことですか。」
「そうです。」
「じゃあ俺の余命宣告っていうのは。」
藤野は西條の方を指差して言った。
「あれは嘘です。さっき言った通り君に試練を課すために。西條先生に余命が見える眼なんてものはない。」
「じゃあどうやって西條先生は余命を知ったんですか!せつさんが無くなる直前に家族を呼び、敏郎に自殺時間を予知していた。」
藤野の問いには西條が答えた。
「せつさんの呼吸苦は亡くなる前日に一度急激に増悪していました。心エコーで著明に右心系が拡大していて、肺動脈に大きな血栓が詰まっていました。もう一度大きな血栓が肺動脈に飛べばそのまま亡くなる可能性は高かったし、すぐに飛んでしまいそうだった。だから息子さんに来るように電話したんです。せつさんが亡くなったタイミングと余命が一致したのは確率の問題です。」
思い起こせば西條がナースステーションで寝ていた席の隣に心エコーが置いてあった。
「敏郎君が手術後ブログをやっているのをちらっと見たんです。いじめられている人はどこかに助けを求めているんです。止めてくれる人を探しているんです。後で調べてみるとやっぱりその中に自殺を示唆する書き込みがありました。自殺の日時まで書いてあったのでそれを見て予見に利用しました。」
あの時パソコンを急いで閉じていたのは、ブログを見ていたからなのか。
カラクリを聞けば、ものすごく単純なことであった。偶然が続いたに過ぎない。
藤野は近くの壁に倒れるようにもたれかかった。
突然の暴露の連続で、藤野の心は乱れ切っていた。混乱はやがて怒りに変わった。
「楽しかったかよ。みんなして俺が右往左往しているのを見て。」
藤野は敵意を剥き出しにして奥田部長に言い放った。
奥田部長は何も言わなかった。
それが藤野の怒りを助長させた。
「悪趣味すぎる。佐々木先生もそうだ。自分の手術まで利用して俺を試すようなことをして。最低だよ。」
藤野は麻酔のかかっている佐々木に向かって叫んだ。
藤野が最もショックをうけていることだった。命がけで救おうとした佐々木にも騙され、もうだれも信じられなくなった。
だが、奥田部長の口からは予想外の事実が飛び出した。
「佐々木はこの一連の計画を全く知らないよ。」
「えっ。」
藤野は奥田部長が発した言葉もそうだが、奥田部長の口調が変わったことにも驚嘆した。
「佐々木はお前が手術すると思って麻酔にかかった。」
「じゃ、じゃあなんで杉田教授が手術しているんだよ。」
藤野は怒りが空回っていることを自覚していたが、今更退くこともできず奥田部長に食って掛かった。
「それは私のエゴだ。あまりに難易度の高い手術。私でも不可能な手術だ。私の親友である佐々木をなんとしてでも助けたかった。だから佐々木との約束を破って杉田に手術を頼んだんだ。」
奥田部長は、自分と藤野の白熱した会話を無視するように動くロボットの本体に手を置いた。
スピーカーから杉田教授の声が聞こえた。
「藤野先生。君達が見つけてきたエルガドランの術中腫瘍内注入療法は高い有効性を示す可能性を秘めていたが致命的な欠点があった。このエルガドランという薬は非常に殺細胞性が高く、腫瘍細胞と一緒に正常細胞も脆弱にしてしまう。だから人間が手術をすれば、大事な組織を損傷してしまい、大きな合併症に繋がる。しかし人間とほぼ同等の触覚を持ち、人間より拡大視に優れ繊細な動きができるこのヴェサリウスならそれを可能にする。」
アームが動き、総肝動脈から腫瘍を丁寧に剥がしている映像が、モニターに映されていた。とても細かい操作であったが、アームの先端は的確かつ滑らかに動き、腫瘍を切り取っていった。
「始めから帝東大学病院で手術をしろといっても、佐々木は手術を拒否しただろう。大学を嫌っているからね。それでも大学の最先端の手術でしか救えない。だから佐々木にも嘘をついた。悪いことをしたと思ってるよ。でも私は後悔していない。」
奥田部長は腰に手をあて、寝ている佐々木を見た。
「佐々木はお前に命を本当に預けてたんだ。自分の命を糧に、お前が医師として成長することを心から願っていた。」
奥田部長が藤野に顔を向けた時、目が赤くなっていた。
藤野は力が入らなくなり、その場に座りこんだ。
信じられないことばかりだ。
「なんでお前は佐々木を助けようとしたんだ。」
奥田部長は落ち着いた声で藤野に言った。
「なんで自分の寿命が残りわずかことを知っていたのに、佐々木のために医師として働いたんだ。どうしてだ。」
奥田部長は藤野に尋ねた。
「そんなの。俺にはそうするしかないから。」
藤野は戸惑いながらぼやいた。
「そんなわけがない。」
奥田部長は鼻で笑った。
「人間はな、死を前にした時、本当にやりたいことをやるんだ。」
奥田部長は藤野に近づきながら言った。
「藤野、お前もそうだろう。一人でも多くの人を救いたかったんだろ。お前の父の高橋先生のように。」
「違う!俺はこんな人生歩みたくなかった。医者になんてなりたくなかった。俺は、俺は!」
藤野は立ち上がり、叫んだ。
奥田部長は藤野の前に立ち、そして強く抱きしめた。
「いい加減認めろ。もうお前は贖罪のために医師をやっているんじゃない。お前は自分の強い意志で人の命を救っているんだよ。」
奥田部長は腕の中にいる藤野に言った。その声は震えていたが、はっきりしたものだった。
藤野の目から熱い涙が溢れた。
藤野は石の塔を壊す鬼がいなくなったのを心の中で感じた。
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