症例⑧ 「杉田 昭広」

藤野は大学病院の前に着いた。

 駅から大学病院正面玄関への道は銀杏並木が続いており、金色のアーチが並ぶ。風が冷たくなったが、木漏れ日の暖かさが心地よく平日にも関わらず多くの人が散歩している。

 老年夫婦が手をつないでゆっくりと歩いている。片手には杖を、片手は相手の手を。転んだら手もつけないし危ないなと思ったが、すぐ思い直した。

 それくらい相手の事を信頼しているんだな。

藤野は大学病院正面玄関通って院内に入っていった。決心はついていた。

 杉田教授の面会アポイントはないが、会える段取りはしていた。教授は時間厳守で予定通りに動く。金曜十五時のカンファレンス終了後、杉田教授は必ず教授室に一度戻って次週の予定を確認する。それは今でも変わっていないはずだ。

 そうであれば、十五時過ぎに教授室を訪れれば必ず会える。

 大学病院に入るとまず消化器外科医局に向かった。医局の前には、眼鏡をかけた小太りの男が汗をハンカチで拭きながら待っていた。

「こんなに涼しくなったのに汗がそんなにでるのは相変わらずだな、近藤先生。」

藤野は近藤に声をかけた。

 びくっとして近藤は、急いでハンカチをしまった。

「そりゃ汗もでますよ。僕が藤野先生のためにセキュリティカード貸したなんてバレたら大変なんですから。」

「本当にありがとう。近藤には迷惑かけないから。な。」

「約束ですよ。藤野先生には研修医の時お世話になったから仕方なくですよ。それにしてもなんで教授に会いに来たんですか。まさか、大学に戻してもらうとか?」

「ありがとう。大学にはもう戻れないし、戻らないよ。別件でね。」

「そうですか。でも気を付けてください、今日は一段と杉田教授ピリピリしていたので。」近藤の汗がまた噴いてきた。

「何かあったのか?」

藤野は小声で訊いた。

「いやわからないですね。カンファレンスの後、人と会うといってたので、それが関係しているんですかね。」

近藤はしわしわのハンカチで額をふいて回りをきょろきょろしていた。

 しまった。他の人とのアポイントが入っていたら会えないじゃないか。

 藤野は自分のザルのような計画に、心底呆れた。その面会に関して近藤に詳しくきこうとしたが、長居するのも近藤に悪い気がした。

 大学から追放された人間と話す身にもならないとな。

 藤野は近藤に感謝を伝えて、セキュリティカードをもって急いで教授室に向かった。

 教授室は秘書室を通らないと入れない。つまりどう頑張っても秘書にはアポイントの有無を聞かれる。だからここからは力づくになってしまう。

 どうとなれ。

 藤野は秘書室に入った。三〇代半ばの化粧の厚い女性が、席に着いたまま藤野の方を見た。藤野は秘書の席に近づいた。

「あのー、十五時十五分から杉田教授と面会予定の藤野といいます。教授はカンファレンスから戻ってます?」

藤野は診察の時のような朗らかな顔を作って秘書に尋ねた。

 秘書は明らかに不審がっていた。

「ちょうど今しがた面会の予定の方が教授室に入っています。それに、藤野さんは面会予定に入っていませんね。」

秘書は面会予定表をなぞって確認した。

「あー、もしかしたら彼女かな。僕と部屋に入った彼女は一緒に面会することになっていたんだ。杉田教授もお忙しいからね。一度に会っとかないとね。」

藤野は思い付きのまま話し、面談予定表を覗こうとした。

 秘書はさっと面会予定表を引いて隠した。

「その方のお名前は?」

濃いマスカラで大きくなった秘書の目が、より威圧的になった。こうなったら本当に強行突破か。

 藤野がそう思った矢先、教授室から聞きなれた声がした。

「お願いします!」

迫力のある声だった。

 藤野と秘書は教授室の方に顔を同時に向けた。藤野に笑みがこぼれた。

「西條医師です。」

 藤野は教授室の扉に顔を向けたまま秘書に言った。秘書の返答を待たず、藤野は教授室のドアを勢いよく開けた。応接用のテーブルで深くソファ腰かけているのが杉田教授だった。

皺一つないパリっとしたグレーのワイシャツに白衣を羽織っていた。その前で西條が深く頭を下げていた。杉田教授は藤野に気がつきため息をついた。西條も頭を上げて藤野の方を見た。

「藤野先生。どうしてここに。」

「それはこっちのセリフだよ。」

「次から次へと。私は予定が詰まってて忙しいんだよ。騒ぐなら他所でやってくれ。私はもう出るからな。」

杉田教授は部屋を出ようとした。

「待ってください。話は終わってません。」

西條が杉田教授の前に立ち塞がった。

「お願いします。新薬使用を許可してください。」

「そんな聞いたこともない治療法を認めるわけないだろう。」

「大学にもメリットがあります。もし今回の症例で効果が認められれば、大学の大きな功績となります。今まで弱かった肝胆膵領域でも、日本をリードできます。」

「そんなこと大した功績ではない。私の遠隔ロボット手術の完全マニュアル化の論文に比べたらね。」

杉田教授は鞄からファイルに入った紙の束を彼女に渡した。

「ついに完成したよ。手伝ってくれた君にも渡しておくよ。君の名前も共著者入っている。」 

 西條は手渡された論文を地面にはたき落とした。

「こんな功績はいらない。私が望んでいることは、佐々木先生に大学でエルガドランの腫瘍内注入療法を行うこと。それだけです。」

 西條は杉田教授を睨んだ。

 杉田教授の顔は今までに増して冷たくなった。

「君は優秀だったけど、タツノオトシゴになってからひどく物分かりの悪い人間になってしまったようだね。確かに元医局員とはいえ、うちの医局の人間が早くに亡くなることは残念だ。しかし、個人のために全体が犠牲になることはできない。さっさと帰って治療方針を改めなさい。」

 杉田教授は部屋を出ようとしたが、西條はドアの前から動かなかった。

 杉田教授はため息をつきながら、急に西條を横に押し飛ばした。

 西條はそのまま倒れこんだ。

 藤野は西條のもとに近づき、怪我がないか確認した。

 藤野は杉田教授を睨みつけた。

「なんでそんなことができるんですか。西條先生も佐々木先生はもともと大学の人間でしょう。あなたたちの同僚だったんでしょ。なんでそんな冷たいことができるんですか。あなたは言ってましたよね。いつでも、どんな場所でも、どんな人にでも、ここ帝東大から最高水準の医療を提供できるようにすると。あなたのポリシーでもあるはずだ。」

 藤野は怒りをぶつけた。

「お前らは目の前の患者を救って満足しているかもしれないが、私はその先にいる何千、何万の患者を救おうとしているんだ。そのためにも私には一回のどんなミスも許されない。わかったような口をきくな。」

 杉田教授も語気を強めて言った。

「あなたたちはそうやって俺の父も見捨てたのか。」

藤野の声は震えていた。

 尊敬していた父が、見捨てられた瞬間を見た気持ちだった。保身のために、助けられるはずの命を放棄するのか。そんなことがあってはならないはずだ。

 藤野は自分のコントロールがきかなくなるのを感じていた。右脚、左脚と交互に動き杉田教授の前に立った

 両腕が動き、杉田教授を壁際まで押して叩きつけていた。飾っていたコロニアル調の街並みの風景画が音をたてて落ちた。

「お前らみたいな人間が、俺の父を殺したんだ。あの時、大学が擁護してくれていれば、父は外科医としてやり直せていた。」

「そんな昔話に付き合っている暇はないんだ。」

杉田教授は藤野の腕をふりほどいて、教授室をでていった。

「なんでそんなに仲間の命に無関心になれるんだよ。」

 藤野はぽつりと呟いた。

 西條先生はその場に立ちすくみ、藤野はその場にただ座り込んでいた。

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