症例⑦ 「佐々木 正則」

次の日、藤野は体調不良を理由に病院を休んだ。

 奥田部長は特に理由について深堀しなかったため、幸い西條が事情を訊かれることもなかった。

 藤野はこのまま病院に来ないかもしれない。

 それでも病院は何も変わらない。患者のためにいつも通り病気と闘う。

 仲間が倒れようが何も変わらない。

 ここはそういう場所だ。

 そして西條もいつも通り働いた。

 今日は手術室に怒鳴り声が鳴り響いていた。

 ローテーションしている研修医の牧野が初めて胆嚢摘出術を執刀することとなった。外科志望の研修医は、ある程度助手を経験した後は執刀医をやることになっている。

 術者の布陣は執刀医牧野、第一助手佐々木、第二助手西條というものであった。

 牧野はここ最近ローテーションしてきた中でも一番器用な研修医で、飲み込みも早く将来有望であった。

 しかし手術が開始した直後から雲行きが怪しくなった。

 牧野が右肋弓下切開で開腹していると、佐々木は逐一間違いを指摘した。

「メスが曲がってる。」

「切っている層が一致していない。」

「小さい出血も全部止血してから次の操作にいけ。」

 全部大切なことであり、指導内容として間違ってはいなかった。

 しかし、今日の佐々木はどこが苛立っていた。その緊張感が牧野に襲い掛かり、牧野は思うように手が動かせなかった。そのことがさらに佐々木を怒らせるという悪循環に陥っていた。

 開腹がようやく終わり、胆嚢を肝臓から剥離していくときも何回も怒られ牧野は泣きそうになっていた。

「佐々木先生。もう少し優しく指導した方がいいかと思いますよ。彼も初めての手術ですし、できないのは当たり前ですよ。」

 見るに見かねて西條が横から佐々木に言った。

「この手術の牧野の指導医は私です。西條先生は口出ししないでいただきたい。」

 佐々木は低い声で西條を威嚇した。

 西條はこみあげるものを堪えて、再度佐々木に助言した。

「こんな空気ではできるものもできなくなる。感情的に怒ることと指導は全くの別物ですよ。」

「優しくして牧野がうまくなるならそうする。だけど、これは練習じゃないんだ。これは人形じゃなくて本物の人なんだよ。適当な指導をして、患者が不利益を被ったら私の責任になるんだよ。」

「そんなことはわかってます。でも躓いている所を後ろから蹴り上げても前には進みません。立ち上がらせて、どうやったら躓かないように進めるのか教えることが教育でしょう。」

 西條は拳を強く握りながら、努めて冷静に言った。

「無責任な発言だな。」

 佐々木は鼻で笑いながら言った。

「無責任なのはあなたの方でしょう。」

 西條の怒りは頂点に達した。二人の睨み合いが数秒続いた。

 すると佐々木は手術用手袋を脱いで手をおろした。

「そんなに言うなら西條先生、あなたが指導しなさい。私は帰るよ。よかったな牧野。」

 そう言って佐々木はガウンを脱いで手術室をでていった。

 牧野は、放心状態になった。 

  

 手術が終わり、西條は顔を真っ赤にして医局に戻ってきた。

 江藤は医局の机で論文を読んでいた。

 西條は自分の椅子に勢いよく座った。

「ああ!佐々木先生っていつもあんな感じなんですか。あー感じ悪い。」

 西條は頭を掻きながら、江藤に向かって怒鳴った。

「そんな怒ってどうしました?」

 江藤は自分のパソコンを閉じて、西條の方をむいた。

 西條は江藤に手術室でのことを説明した。

 江藤はお腹を抱えて笑った。

「なにがそんなにおかしいんですか。」

 西條は目をつり上げて言った。

「いや、ごめんなさい。佐々木先生らしいと思ったし、西條先生らしいなと思ったから。二人が交わるとそんな感じになるんですね。」

「あんな感じに指導されたら、研修医の子が可哀そうですよ。せっかく外科に興味持ってくれているのに。」

「まあそうですね。でも、佐々木先生のいっていることは間違ってましたか?」

「いや、技術的に間違ったことは言ってないですよ。」

「じゃあいいじゃないですか。」

「よくないですよ。最近外科医が減っているのもああいう指導が原因なんじゃないかと思いますよ。」

 西條は両手をあげて、呆れたように言った。

「でも、優しさは目に見えるものだけじゃないよ。これもウェルテスの言葉ですけどね。」

 江藤はウォーターサーバーから湯呑に水をくみながら言った。

「どういうことですか。」

「それは自分で考えてみてください。」

 江藤は汲んだ水を飲まず、西條の机に湯呑をおいて席を離れていった。

 途中で江藤は振り返り、西條に尋ねた。

「そういえば西條先生、藤野が休んでいる理由知ってます?」

 突然の質問に西條の心臓が跳ねた。不自然にならない程度に間をあけて、走る心臓が収まるのを待った。

「体調不良と聞いてます。」

 西條は淡白に答えて、江藤の反応をじっと待った。

「そうですか。はやく帰ってくるといいですね。」

 江藤はそう言って去っていった。

 江藤は口が堅いし、藤野の親友なのだから一部始終を話してもいい気がした。

 ただ勘のするどい江藤が必要以上に気がついてしまうことを西條は恐れた。

 西條は湯呑を手にとった。クリーム色の湯呑の底には金魚の絵が描いてあり、水が揺れると金魚が泳いでいるように見えた。

 藤野先生も必死に泳いでいるだろうか。 


 西條は夜になってもカルテ記載が終わらなかった。

 頭の中で、佐々木と江藤の言葉がリピートされてこんがらがっていた。

 一行書いては消して、一行書いては消して。遅々として進まなかった。

 気分転換に缶コーヒーを買いに、一階の自動販売機にむかった。

 すると、偶然奥田部長とばったり会った。

「西條先生じゃないですか。こんな時間までご苦労様です。」

「奥田部長こそ遅くまでお疲れ様です。当直ではないですよね?」

「当直ではないよ。会議の資料に目を通していたら遅くなってね。この歳になると、読むスピードも遅くなるし、集中できる時間も短くなるから時間がかかってしまって。若返りの薬が早くできてほしいと毎日期待しているよ。」

自動販売機の灯りが照らす奥田部長の笑顔には、確かに疲れが窺えた。

しかし自分の顔も同じであることを、西條はすぐに気づかされた。

「西條先生元気ないですね。珍しい。何かありましたか。」

「いえ、大したことじゃないんですけどね。」

「佐々木先生と揉めたことですか?」

 奥田部長は西條の顔を覗きこんで言った。

「よくご存じですね。」

西條は目を細くした。

「手術室の看護師達が噂してましたよ。噂好きもたまには役に立ちますね。」

 奥田部長は自動販売機にお金を入れて、西條に選ばせた。

 西條はお礼を言ってホットの缶コーヒーを押した。病院はクーラーがよく効いていて、寒がりの西條にはやや肌寒く感じる。

「佐々木先生は嫌いですか。」

 奥田部長は西條と同じ缶コーヒーを押した。

「上司なので、あまり好き嫌いは言いたくありません。でも、今日の佐々木先生はちょっと厳しくしすぎている気がしました。あれでは指導される側はすぐに潰れてしまいます。大学でも同じように志望科を外科から内科に変える人を見てきました。」

 西條はコーヒーには手をつけず、両手でぐっと握っていた。

「佐々木先生はああ見えて誰より優しい人なんですよ。」

 奥田部長は西條に笑顔を向けた。

「それ江藤先生も言っていました。でも、全然そんな風には見えません。」

「優しいがゆえに、鬼になってしまう人もいます。」

 奥田部長はコーヒーを一口飲んで近くのベンチに腰掛けた。

「佐々木先生は奥さんを大腸癌で亡くしているんです。当時三十五歳だった奥さんは出産したばかりでした。出産後も、上腹部の膨満感が取れず痛みもあったので近くの消化器内科病院にいったそうです。そうして、大腸癌、多発肝転移、多発腹膜播種の診断となりました。」

「そんな」

 西條は俯いた。手にもつ缶コーヒーが急にぬるくなったように感じた。

「妊娠による身体の変化で血便や食思不振、腹部違和感などの大腸癌の症状がマスクされていたんです。これは佐々木先生に落ち度はないと思います。しかし佐々木先生は自分を許せなかったようです。一時は外科医をやめると言って、辞表まで書いたそうです。」

 奥田部長の低い声が、空気をより一層重くしていた。

「しかし奥さんの強い説得の末、なんとか大学に残り手術を続けていました。彼は自分に誰よりも厳しくなり、心と体を削り続けました。誰もやりたがらない難易度の高い手術に進んで立候補し、夜は寝る間を惜しんで論文を書き続けました、だけど彼の心には空洞が空いたまま。それを忙しさで埋めていただけです。そんな中事件がおきました。」

 奥田部長の手元を見るとわずかに震えているように見えた。

「その日は食道癌の手術でした。右開胸開腹食道亜全摘術、三領域リンパ節郭清、後縦郭胃管再建の予定でした。大手術です。三十代前半でその手術を任されるのは、大学では異例の事です。それほどまでに佐々木先生は信頼されるようになっていたんです。」

「そんな凄い人の話、大学で聞いたことありません。」

 西條は奥田部長に言った。

 食道の手術は消化器外科の中でも最難易度の手術であり、手術時間も長時間に及ぶ。嚥下障害や誤嚥性肺炎、縦隔炎といった重篤な合併症が起きれば、死に至ることもある。

 そんな手術を大学病院で任されるということは、相当な腕と信頼があるということだ。

 だが、西條は大学病院で佐々木の名前を耳にすることはなかった。

「大学では佐々木先生のことは今でもタブーのように扱われています。」

 奥田部長は人差し指を口元にあてて言った。

「話を続けます。手術は順調でした。食道切除までは滞りなく進みました。再建用の胃管まで作ったところで、外線が佐々木先生のPHSにかかってきました。それは奥さんの急変を知らせるものでした。大腸癌穿孔による急性汎発性腹膜炎とのことでした。もともと佐々木夫婦は手術は行わないと決めていましたから、大腸癌穿孔は死を意味するものでした。」

 奥田部長は目をつぶった。

「彼は悩んだ挙句執刀医変更をお願いした後、手術室を飛び出し搬送された病院に向かいました。」

 西條は唖然とした。

「急遽執刀医となったのは、教授の腹心の准教授でした。次期教授最有力候補とされる医師でした。ベテランの医師で、学会では様々な論文で評価をうけている方ですが、手術の腕はお世辞にも褒められるものではなかったと聞いています。食道と胃管の吻合のため、佐々木先生はサーキュラーステープラーという自動吻合機を準備していました。しかし准教授はサーキュラーステープラーを使ったことがなく、いつも手縫いで吻合していました。

 自動販売機の灯りが点滅するようになった。

「ここからは噂をもとに推測したにすぎません。」

 奥田部長はそう前置きして説明した。

「おそらく、准教授は使ったことのないサーキュラーステープラーを使用し、吻合に失敗しました。そこで再度手縫いで縫合し直しました。しかし縫合し直したことで胃管が短くなり吻合にテンションがかかりました。そうなれば胃管作成の修正をしなければならないのですが、准教授は時間短縮のためにそれを怠った。その結果術後食道胃管吻合不全となりました。その後、縦郭炎となり患者は最終的に死亡しました。准教授はサーキュラーステープラーなど使用しておらず、最初から手縫いを行ったと主張し、周りの助手も同様の証言でした。その准教授は、焦りを感じていたのかもしれません。十歳以上も離れた若手に手術の腕も勝てず、論文成績も徐々に詰められていることに。」

 奥田部長は一気にコーヒーを飲み切った。

「途中で手術を投げ出し、不完全な胃管を准教授に引き継いだとされ、主治医の佐々木先生が責任を負う形となり大学を追い出されました。」

 そう言って奥田部長は空き缶をゴミ箱に投げ入れた。空き缶は吸い寄せられるようにゴミ箱の中に音を立てて落ちた。

「佐々木先生は患者と奥さんを同時に亡くした状態でここに左遷されてきました。佐々木は大切な人を失う悲しみを誰よりも分かっている。だからこそ、人の命を扱う医療者に厳しくしてしまうんだと思います。それは優しさとは違いますか。」

 奥田部長は西條に尋ねた。

 西條は首を横に振った。

「そんなこと知らずに、無礼なこと言ってしまいました。ちゃんと謝らないと。」

 西條は肩を落とした。ただ、それでも佐々木の言動すべてが正しいとは思えなかった。

 心情として理解できることでも、論理的に行動しなければ教育は破綻する。

「でも、だからこそ思うんです。それだけ他人を想える人なら言葉にしないと。想っているだけでは伝わらないと思うんです。」

 西條は真剣な目で奥田部長に言った。缶コーヒーが再度熱を帯び始めているように感じた。

「そしたら見に行ってみますか。」

奥田部長は立ち上がり西條の肩を叩いてから、歩き始めた。

 西條は後ろ黙ってついていった。

 階段を上がりしばらくすると、見たことのない部屋の前についた。

 看板には“サージカルトレーニング室”と書いていた。すりガラスの窓から灯りが漏れていた。

「ここはサージカルトレーニング室といって、外科志望の研修医や外科修練医達が手技練習をするところです。」

 奥田部長がドアを開けて西條を中に入れた。

そこには縫合練習をしている牧野がいた。

「牧野君。」

「あ、西條先生。どうしたんですか、こんなところで。」

 牧野は不思議そうな顔をして言った。

「西條先生はね、君が佐々木先生に手術で怒られて心配になって見にきたんだ。」

 奥田部長は後ろから部屋に入り、牧野に説明した。

「そうなんですね。すいません、御心配をおかけしてしまって。」

 牧野は頭を下げた。

「謝ることじゃないよ。それより本当に大丈夫。あんなに怒られて。」

 西條は優しい声で牧野に話した。

「手術の時はやっぱりへこみました。それなりにうまくやれる自信もあったから。」

 牧野はうつむいたままだった。

「でも、手術の後佐々木先生に電話で呼ばれたんです。」

「えっ。」

「また説教されるんだと思いました。憂鬱な気持ちで佐々木先生の元にむかったんです。でも、違いました。」

 牧野は顔をあげて話した。


『これは私が上手だと思った大学の外科医の胆嚢摘出術の動画だ。参考にするといい。』

 佐々木はそう言って、牧野に動画データの入ったUSBを渡した。

 牧野は手術でうまくできなかったことを謝った。

 佐々木は再びパソコンに向かって、データ整理を始めた。

 牧野が佐々木の部屋を出ようとした時、後ろから佐々木が声をかけた。

『将来君が外科医になった時、自分の力だけで患者を助けないといけない日が必ず来る。その時、私は一緒にいてやれない。だから、一緒に手術ができる今、私が見ている中で間違えればいい。その代わり、将来同じ過ちをおかすな。』

 牧野は深くお辞儀をして部屋を出た。


「佐々木先生は僕を通して未来の患者を助けるために、必死に指導してくれていたんです。だから僕も患者さんのために頑張らないと。」

 牧野はそう言って、縫合の練習を続けた。

 西條は、頭の中のもやもやが晴れていくのを感じた。

「伝わる人には伝わっているものですよ。言葉がなくても。」

 奥田部長は牧野の背中を叩き、西條に微笑みかけた。


 翌日、西條は佐々木に謝罪するため早めに病棟で待機していた。

 昨日全く進まなかったサマリーを書いたり、書類を整頓したりしながら待っていたが、佐々木は病棟に現れなかった。佐々木は科内で一番いつも早く病棟に来るので、この時間に来ないのは珍しいことだった。

 西條は佐々木に電話をかけようとした時、西條のPHSが荒々しく鳴った。

 西條がでると、救急外来からの電話であった。

「西條先生ですか。こちら救急外来看護師の松田と申します。今お時間宜しいですか。」

「はい。」

「今、消化器外科の佐々木先生が救急外来に救急搬送されてきました。内科の先生が対応してくださっています。もし可能であれば一度来ていただいてもいいですか。」

 西條は愕然とした。

「は、はい。わかりました。すぐ向かいます。」

 西條は走って救急外来に向かった。

 西條が救急外来に到着すると、佐々木がベッドで横になっているのが見えた。

「佐々木先生大丈夫ですか。」

 西條は駆け寄り声をかけた。佐々木は聞き取れないこえで唸っていた。

 初期対応をしていた内科医師が西條に近づいてきた。

「あっ、江藤先生。」

 西條は内科医師が江藤であることに気がついた。

「すいません、急にお呼びしてしまって。」

 江藤は小さくお辞儀をした。

「佐々木先生、ひどい糖尿病をお持ちだったんですね。血糖が1200mg/dlと高血糖緊急症になっています。意識障害もそれが原因でしょう。動脈ライン含めモニター管理しながら、生理食塩水大量投与治療を開始しています。しばらく入院加療が必要ですね。」

 近藤は丁寧に病態を説明した。そして表情を変えず加えて言った。

「しかしこれほどの糖尿病をお持ちであれば、前から症状もあったでしょうに。」

「そうですね。」

 西條は、ぐったりと横になる佐々木を見て気の抜けた返事をした。

 江藤の適切な対応で、手遅れにならずに済んだ。西條は丁寧にお礼を言った。

 しかし江藤の表情は曇ったままであった。

「西條先生に診てもらいたい画像があるんです。おそらくこれが今回の原因かと。」

 江藤は近くのパソコンのある机に移動し、佐々木のCT画像を西條に見せた。

 マウスをスクロールさせ、画像を流していくと膵頭部に大きな腫瘤が現れた。

 腫瘤は周りの動脈や門脈をまきこんで、存在感をアピールしていた。

「膵癌。」

 西條はぽつりと呟いた。

 消化器を専門とするものなら、膵癌の恐ろしさは誰もが知るところであろう。

 悪性度の高い癌でありながら、かつ手術の難易度も高い。さらに症状が出づらいことから発見が遅れ、進行癌となってみつかることが多い。

「高い可能性で膵癌でしょう。これによりインスリン分泌能が低下して、高血糖となったと考えるのが自然です。」

 江藤は西條の横顔を見て、悲しそうに西條に伝えた。

 西條はその場で動けなくなった。膵臓の腫瘤から目が離せない。

 江藤は何も言わず佐々木のベッドに戻り看護師に指示を出し始めた。

 なんで佐々木先生が。

 西條はそう思わずにはいられなかった。

 なぜ不幸はこんなに偏るのだろう。

 なぜこんなに頑張っている人間に理不尽に降りかかるのだろう。

 西條は歯を食いしばり、画面上の腫瘤を睨んだ。

 必ず助ける。

 西條は強く誓った。


 奥田部長と西條、牧野は緊急カンファレンスを開いた。

 西條は佐々木の検査結果を説明した。

糖尿病の原因となる膵腫瘤は画像上膵癌が最も疑わしいという結論が三人とも一致していた。

日本では二人に一人が生涯でがんに罹患する。その中で膵癌は四〇人に一人の割合で膵癌に罹患する。

昔よりは化学療法も手術も進歩し治療成績は良くなった。それでも膵癌は消化器癌の中で厄介な癌であることは間違いない。

「でも遠隔転移はないですよね。それだったら手術できるじゃないですか。こんなに手術が上手な先生が集まっているんだし。」

 西條の説明が終わると、牧野が発言した。

「確かに牧野先生の言う通り遠隔転移はなさそうだ。じゃあ腫瘍が噛みついている血管はどうしようか。」

 奥田部長は牧野に優しく質問した。

 牧野がおろおろしていると、西條が変わりに返答した。

「腫瘍がSMA(上腸管膜動脈)だけでなく、CHA(総肝動脈)にも浸潤しているため根治切除は困難でしょうね。」

手術での摘出は困難であり、なんとか摘出したとしても癌細胞が残ってしまい再発する可能性が非常に高かった。

牧野以外の二人は現状と今後の流れを分かっているからこそ、何も言えなくなってしまった。

根治切除は不可能。化学療法をして小さくなり切除できるようになれば手術、だめなら化学療法継続という方針が妥当であろう。効果がなければ一年もたない可能性も十分にある。

淀んだ重い空気が部屋中に漂う。

 すると奥田部長が口を開いた。

「佐々木先生の意識が戻ったら、私から話をする。それで方針を決定する。それでいいかね。」

西條は頷くしかなかった。

 緊急カンファレンスは熱を帯びることもなく、静かに終了した。

 奥田部長が出ていき、西條と牧野は部屋に残った。

「やっぱり化学療法になるんですよね。」

 牧野は西條に尋ねた。

「現代の医療ならそうなるでしょうね。」

 西條はそう言いながら机に突っ伏した。

「でも最近は色んな抗がん剤があるから、どれかはきっと効果ありますよね。佐々木先生もともと体力もありそうだし。」

 牧野は立ち上がり、再度重い空気に反抗するかのように明るく振舞った。

「それでも一年ももたない。それに重度の糖尿病に加えて糖尿病性腎症もあることがわかった。だから抗がん剤の用量調整も普通の人と比べて難しいの。」

 西條はそんな牧野の明るさをかき消すように冷たく言い放った。

「そんな。」

 牧野は落胆して、椅子に再度腰かけた。

 西條はいつも藤野がカンファレンス室で座っている定位置をみた。

 ただその席が空いているだけなのに、いつもより不安になってしまう。

 私が頑張らないと。

 西條は不安な気持ちを押し殺し、気合を入れなおした。


 後日、奥田部長は衝撃的なことを発表した。

「佐々木先生は手術することにしました。」

 奥田部長はカンファレンス室で前に立ち、西條と牧野に話した。

「えっ、この前手術はできないって言いませんでしたっけ。」

 牧野は戸惑いながら小声で言った。

「画像上は動脈浸潤が強いが、術中所見と画像は解離することもあります。動脈再建も準備して手術に臨みます。異論は認めません。」

 奥田部長はいつもの穏やかな口調ではなく、別人のように力強く断言した。

「ちょっとまってください。そんなの切除したって再発するに決まってるじゃないですか。」

 西條は勢いよく立ち上がって猛反対した。

「さっき言ったはずです。異論は認めないと。それと、執刀医は今不在だが藤野先生、第一助手は私がやります。」

 奥田部長は話を終え、部屋から出ようと扉にむかった。

 西條は駆け足で奥田部長の前に立ち塞がった。

「ちゃんと説明してください。納得できません。」

 西條は奥田部長を睨みつけた。

「西條先生が納得するかどうかは大した問題じゃない。患者が納得しているかが大切なんです。どいてください。」

 奥田部長は殺伐とした空気を醸し出していた。不動明王顔負けのしかめ面をしていた。

「どきません。それは佐々木先生が手術を望んでいるということですか。」

「そうです。」

「嘘です!奥田部長、佐々木先生にいったいどんな説明をしたんんですか。常識のある消化器外科医ならそんな判断はしないはずです。」

「そう思うなら佐々木先生に直接訊きなさい。」

 奥田部長はそう言って西條を押しのけ部屋を出ていった。

 一体どうなっているの。

 西條は狐につつまれたような気持ちだった。

 西條はカンファレンス室をでて佐々木の病室にむかった。

 西條が佐々木の病室の扉をノックして中に入ると、佐々木はベッドの上で手術書を読んでいた。

「どうした西條先生。そんな怖い顔をして。」

 佐々木は小説を閉じて、西條の顔を見ていった。

「手術するってどういうことですか。」

 西條の声は震えていた。

「患者の私に体調を聞く前に、その質問か。相変わらずそそっかしいな。」

 佐々木は苦笑した。

西條は顔をしかめたまま佐々木の返答を待った。

「そのままの意味だよ。私は奥田部長から膵癌である告知をうけて手術することを選択した。それ以外の意味があるかな。」

「手術したって再発しますよ。それに糖尿病や腎機能障害もあれば合併症のリスクも上がります。手術自体で命を落とす可能性だってある。それをわかって手術を受けるんですよね。」

「そうだ。」

 佐々木は西條から視線を外さず、はっきりと言ってのけた。

「どうして。どうしてそんな自殺みたいなことを。」

 西條は佐々木の肩を掴み、顔を近づけて語気を強めて質問した。

 佐々木は何も答えなかった。

 すると看護師が病室に入ってきた。

「これから術前検査があるんだ。すまないが、失礼するよ。」

 佐々木はそういって西條の質問には答えず担当看護師と一緒に病室をでた。

 西條には何が起きているのか理解できなかった。

  

 習慣とは恐ろしいものだと、藤野は思った。

 西條から余命告知をされてから一週間が経過するが、毎日病院の前を通っている。

 今日も朝早くに病院の近くを散歩してしまった。

 病院に向かわないといけないような強迫観念に襲われる。

 幸い知り合いに会うこともなかったが、一週間も体調不良なのに外で朝早くに会えば変に思われるだろう。藤野は病院の近くに行くのは明日から止めると決めた。

 結局この一週間旅行に行くわけでも、趣味に興じるわけでもなく時間がだらだらと流れていった。

 スマホは電源を切りっぱなしだった。普段からそんなに連絡を取る人もいないし、改めて連絡を取りたい人もいなかった。

 強いて言うなら叔母さん達だろうか。こんな自分を大切に育ててくれた二人に藤野は感謝しかない。

 しかし、特に用事もなく仕事を休んで会いに行けば不審に思われるだろう。藤野は自分のことで二人に心配をかけることは避けたかった。もちろん死んでしまえば迷惑をかけることになるのだが。

 日が落ちて外が暗くなり、藤野は晩飯を食べようと冷蔵庫を開けたが、空っぽになっていた。愛用しているカップ麺も今日の朝食べたものが最後だったらしい。

 仕事をしていれば気にならない空腹も、暇なときは自己主張が強い。

 藤野は渋々コンビニに夕食を買いに出かけた。いつもであれば病院近くのコンビニを利用するが、病院の職員を避けるため病院から離れたコンビニに歩いてむかった。

 少し時間はかかったがコンビニに辿りついた。周りを見渡し顔見知りがいないことを確認してからコンビニの入り口に近づいた。

 なるべく早く買い物を済ませよう。藤野はそう思いながら頭の中で買うべきものの検討をつけて自動ドアを通過した。

すると、レジで会計を済ませた江藤がちょうど自動ドアに向かってきて、二人はばったり遭遇してしまった。

「あれ、藤野じゃん。どうしたの最近病院来てないじゃん。病欠って聞いたけど。」

 江藤はいつもと変わらないテンションで藤野に話しかけた。

「ああ。ちょっと体調悪くて休んでんだ。でも、体調悪くても腹は減るもんだな。」

 藤野は気まずさを感じながらも、なるべく明るく振舞った。

 医者に仮病を使うと根掘り葉掘り問診されて、その内ぼろが出てしまう。藤野はそれを恐れて、頭の中江必死に病気の設定を組み立てた。

 しかし江藤はそんな心配をよそに、江藤は疑ってくる様子もなかった。

「じゃあほとんど治ったってことだな。あ、ちょうどビールもあるし少し話していこうぜ。昔みたいにコンビニの前でさ。」

「いやまだ治りかけだしやめとくよ。」

「いいからいいから。少しくらい飲んだ方が楽になるぞ。」

 医者とは思えない根拠のない発言で押しきり、江藤は藤野をコンビニ前のベンチに座らせた。

「うつっても知らないからな。」

 藤野は観念して、江藤から缶ビールを受け取り乾杯した。

 大学生の頃、テニスの大会が終わると二人は帰りにコンビニにより試合の反省会をした。

 勝った日は缶ビールで祝杯をあげ、負けた日は野菜ジュースで乾杯するという二人のルールがあった。

「大学五年の時の医学部のダブルス全国大会準決勝でフルセットで競り勝った時もこうやってビール片手に乾杯してたよな。」

 江藤は美味しそうにビールを飲んだ。

「あの時二人ともアドレナリンでまくってて、ビールが止まらなくてな。」

「結局二人ともコンビニの前で潰れちゃって。結果決勝でボロ負けするってやつだろ。これ話したの何回目だよ。」

 藤野は呆れながらも、久しぶりに笑った気がした。

「やっといつもの顔になったな。」

「いつもと変わんないだろ。」

「いや、さっき会った時は死んだような顔してたよ。ほんと死相がでてた。」

 江藤は笑いながら言った。

 そりゃでるよな、死相くらい。

 藤野は江藤の言葉に少し動揺したが、なんとか表情を崩さなかった。。

 話したい。

 藤野は衝動に駆られた。自分の死を間近に控え、自分が胸の内に秘めていた想いを吐露したくなった。

 両親を襲った災害ともいえる事件を呪う気持ち、これまで償うように生きてきたことの辛さ、そして今度は自分の命が奪われようとしていることへの言葉にならない感情。

 すべてを吐き出し、江藤から同情の言葉を一言もらう。

 そんなことができたら、どれだけ楽だろう。

 死ぬ間際に立たされているのに、それでも自分をさらけ出せないでいる。

 いや、そもそも本当の自分なんてもういないんじゃないか。

 長い間自分を殺して贖罪の道を歩いてきた。その間に、自我は消えてなくなってしまった。今この場にいるのは、人を治すロボットと一緒だ。たまにミスをする不完全なロボット。

 打ち明けたい気持ちと自分への諦めの気持ちが入り混じった結果、藤野の選択した会話は恥ずかしいものとなった。

「江藤はさ。もし余命三週間で言われたら何する?」

 藤野は江藤の顔をみることができなかった。声が上ずってないかだけを気にした。そして間が空かないように、穴だらけの言い訳を付け加えた。

「いや休んでる間結構テレビ見ててな。番組でそういう話題があがってて、江藤なら何て答えるかなって思ってさ。お前好きだろ、もしも話。」

「なんだよ、珍しいな。藤野からもしも話してくること。いつもそんなことありえないって否定的なのに。」

 江藤は“もしも彼女が有名人だったら誰が良い”とか“もしも一億円もらったら何に使う”と言った中学生みたいな話が好物だった。二人はそれだけで、一日飲み明かしたこともあった。

「そうだな。やっぱりロンドン・ウェルテスに会い行くな。それで、できることならウェルテスとテニスしたい。」

「さすがにそれは難しいんじゃないか。」

「余命幾ばくのファンの男が、生涯最期の夢だと言って会いに来るんだぜ。ウェルテスならそんな男の夢を叶えてくれるさ。」

 江藤は嬉しそうに藤野に話した。

 藤野は人生最期にやりたいことが決まっている江藤が羨ましかった。

「藤野は人生最期に何をしたい?」

 江藤が尋ねた。

 そりゃそうだ。この質問が自分に返ってこないわけない。

 しかしこれまで何も思いつかなかったのに、昔からずっと考えていたかのように答えがさらっとでた。

「そうだな。旅行に行きたいかな。海がある場所ならどこでもいい。海を見ながら死にたい。」

自分でも驚いた。これが自分の本心なのかはわからない。でも海を見ながら死ぬのも悪くないなと思った。 

 江藤の反応が気になり、藤野はビールを飲みながら横目で江藤をみた。

 江藤は口を開けて、びっくりしていた。そして急に江藤が笑い始めた。

「何言ってんだよ。藤野が旅行なんてできるわけないじゃん。」

 江藤は手で膝を叩きながら、声をあげて笑っていた。

「な、なんでだよ。」

 藤野は戸惑いながら言った。藤井の鼓動が速くなる。

「お前はそんなことできないよ。病院の患者のことが気になって、病院の周りをうろうろするのが関の山だな。なんだかんだ藤野は死ぬまで藤野先生なんだよ。」

 江藤はそう言ってビールを飲み切り、缶をつぶしてゴミ箱に入れた。江藤の顔は笑っていたが、目はじっと藤野をみていた。

 この顔は昔何度も見たことがある。ダブルスの試合の一ポイント目に入る前。江藤が必ず駆け寄ってきてタッチを求める。その時の顔だった。

 お前はやれる男だ。いつもそう言われているように思えた。

「ありがとう。」

 藤野は旧友に感謝を述べた。ダブルスの時でさえ恥ずかしくて言えなかった言葉。言ってみると意外と悪くない。

「なんだよ急に改まって。気味悪いな。やっぱりまだ体調悪いんじゃないか?」

「いや体調は良いよ。これまでになく。」

「じゃあ元気になったばかりで悪いが、さっそく仕事だ。」

 江藤は真剣な顔で言った。

「佐々木先生が倒れた。」

「えっ。」

「膵癌が見つかった。根治切除はかなり難しいと思う。方針に関して奥田部長と西條先生が対立してて、西條先生は大変そうだよ。そろそろ出勤した方がいい。まあ体調がよくなったらでいいけどな。じゃあな。」

「ちょっと。もっと詳細を聞かせてくれよ。」

「聞きたかったら、自分で直接診察しに行け。医者の基本だろ。」

 そう言って江藤はコンビニを去った。

 佐々木先生が膵癌って。それに奥田部長と西條先生がもめているのも気になる。

 藤野は新しい情報が急に飛び込んできて驚愕したものの、頭の中は思ったよりクリアであった。

 自分のやりたいことは初めから決まっていたのだ。

 藤野は残ったビールを飲みきった。喉を刺激する炭酸が心地よかった。


 次の日藤野は病院に戻った。

 カンファレンスで奥田部長と西條、牧野に頭を下げた。体調不良という設定とはいえ、藤野も佐々木もいないとなると三人への負担は相当なものだった。

 意外にも奥田部長は業務的なこと以外は何も言ってこなかった。

 佐々木の件で西條と揉めているために、藤野にまで心配が及ばなかったのだろうか。

 カンファレンスが終わり、奥田部長が早々と退室してから西條が藤野に話しかけた。

「戻ってきたんですね。」

 西條の顔は疲れていたが、嬉しそうであった。

「迷惑かけてごめん。」

 藤野はそれだけ言った。多くを語る時間がもったいなかった。

 そして西條もそれを理解してくれた。

 西條は藤野がいなかった一週間の出来事を要領よく藤野に説明した。

 佐々木が膵癌と診断されたこと。手術での治療が困難なこと。それにも関わらず、佐々木が手術を望み、奥田部長が手術をしようとしていること。そしてその執刀医が藤野であること。

 藤野は出勤早々頭を抱えた。

「やっぱり術者が奥田部長でも藤野先生でも私でも手術をした場合は一か月程度。一番余命が長かった化学療法にしても半年程度しか。」

 西條はすでに佐々木を訪れ、余命を確認していた。おそらく手術をして一か月という余命は何かしらの合併症がおきてしまうことを予知していると二人は思った。

 そのため西條は再三奥田部長に手術中止を訴えたが聞き入れられなかった。

 そうかといって、奥田部長に余命予知のことを言っても信じてもらえないだろう。

 やはり佐々木を説得するしか道はなかった。

「俺が佐々木先生を説得してみる。」

 藤野は立ち上がり、西條にそう言って部屋をでた。

 病室まで歩きながら、佐々木との記憶が蘇った。

 佐々木と同じように手術が非常に困難な胃癌の男性患者がいた。名前は田所と言った。

 胃癌のサイズは大きく、腫瘍が膵臓に噛みついていた。

 PD(膵頭十二指腸切除術)という胃と膵臓の一部と十二指腸を切除する手術を行えば根治切除をすることはできた。しかし田所は九〇歳という超高齢であった。

 主治医だった佐々木と一緒に藤野は、田所とその家族に治療方針の相談のため面会した。

 田所は勢いよく面会用の部屋に入ってくるなり、手術希望の旨を佐々木に伝えた。

 杖をつき動きはゆっくりであったが、言葉ははっきりしていた。

 藤野は正直な話、手術することを期待していた。

 藤野にとって大きい手術ができることは、手技向上に繋がる。外科医であれば、みんなそう思うだろう。

 佐々木が丁寧に合併症のことも含め田所とその家族に説明した。

 それでも田所の意見は変わらなかった。家族も不安そうな顔をしていたが、本人が望むならと言って手術を承諾した。

 心躍る藤野をよそに、佐々木はよく検討しておくよう田所達に伝えて部屋を出ていった。

 藤野はその後をついていき、なぜ手術に踏み切らないのかと訊いた。 

『患者希望に沿えば手術をすることだってできる。合併症の説明もしっかりしたし、同意書を盾にすれば失敗しても問題にはならないだろう。それにあれだけ元気があれば手術成功するかもしれない。だけど、俺たちの仕事は手術をすることじゃない。患者を良くすることなんだ。回診の時に行けばわかる。』

 佐々木は真剣な顔で藤野に言った。

 佐々木と藤野は夕方、回診で田所を訪れた。手術のことを話した時、田所の意見は変わっていた。

『佐々木先生、やっぱり手術はしたくない。あれだけ大勢の家族の手前退くに退けなかった。戦争の方に比べれば手術なんて大したことないって自分に言い聞かせてたけど、怖いものは怖いんだな。家族に話したら、皆安心してたよ。あの話し合いで手術すること決めてたら、きっと手術をしてたと思う。時間をくれてありがとな。』

 そう言って田所は笑っていた。

 佐々木は田所のことをよく理解していた。その上で、わざと時間をとっていたのだ。

『医は仁術なり。患者の事を想うことが大切なんだよ。』

 佐々木自身がそう言っていた。

 だからこそ、藤野は患者である佐々木の真意を察することが必要と考えた。

 藤野はドアをノックして佐々木の病室に入った。

 佐々木はベッドの上で座りながら論文を書いていた。

「こんな時まで論文書いているですか。自分の体少しは大切にした方がいいですよ。」

 藤野は椅子をベッドに近づけていった。

 ベッド脇の棚にはガーベラの入った花瓶が飾ってあった。その横には佐々木の娘の写真が飾っていた。

「俺のことより、お前体調不良で病院休んでたらしいな。休んだ分しっかり働けよ。」

 佐々木は表情を変えず、ノートパソコンからも目を離さず言った。

「相変わらずストイックですね。そんな勉強熱心で誰よりも患者のことを考えている佐々木先生が、どうして自分のことにはそんなに疎いんですかね。」

 藤野は皮肉めいて言った。

 佐々木は藤野に構わずタイピングを続けた。

 藤野はためらいながらも、お互いに時間もあまりないため切り札を取り出した。

「娘さんはいいんですか。」

 余命の短い藤野と佐々木の大きく違うところであった。大切な子供のためであれば、さすがの佐々木も少しでも長く生きようとしてくれるのではないか。

 しかし佐々木の返答は藤野の期待を裏切った。

「俺を助けたかったら、お前が頑張れ。俺の執刀医なんだから。」

 佐々木は鬱陶しそうに藤野を見ていった。

 藤野は取り付く島もないことを悟り、病室を出ていった。

 病室の外には、心配そうに藤野を見るスーツ姿の若い女性が一人立っていた。

「あなたは。」

 藤野は佐々木の部屋で見た写真を思い出した。

「佐々木の娘の佐々木愛奈と言います。いつも父がお世話になっております。」

 愛奈は丁寧に頭を下げた。

 藤野と愛奈は面会部屋に入って話をした。

「手術の件はすでに聞いてますよね。」

 藤野は愛奈に確認した。

「はい。とても難しい手術と聞いているので、心配ですが。あの頑固な父が決めたことなので、私が何をいっても聞いてくれなくて。」

 愛奈は小さく笑っていたが、悲しそうな目をしていた。

 藤野は愛奈に佐々木を説得するようお願いしようと密かに考えていたが、その手も詰んでいた。

 藤野が言葉に詰まっていると、愛奈の左手の薬指に光る指輪が目についた。

「ご結婚されているんですね。」

「はい。私、MR(医薬情報担当者)の仕事をしていて、同僚の男性と今年入籍しました。結婚式は十二月なんです。」

 愛奈は微笑みながら、藤野に言った。

「おめでとうございます。佐々木先生は少し寂しいでしょうが。」

「そうですね。一人しかいない親ですから、父にも列席してほしいんですが、今のままだとどうなるか。」

 愛奈の目は潤んでいた。

 藤野は複雑な気持ちになった。

 自分のことを想って泣いてくれる家族がいることが羨ましく思える一方、そんな大切は人を悲しませるようなことが自分にはなくてよかったと安心していた。

「父のこと、どうか宜しくお願い致します。」

 愛奈はそう言って深くお辞儀をして、部屋をでて佐々木の病室に向かった。 

藤野は部屋に残り、静かに思考を巡らせた。

結婚式に出るには手術をしてはいけない。化学療法なら体調次第ではあるが生きて参列することができる。

しかし佐々木は手術を望んでいて、他の選択肢を受け入れようとはしない。

そんな佐々木が藤野を執刀医に選んでいる。

 自分の寿命は佐々木より圧倒的に短い。

 逃げ出したくなるような絶望的な状況だった。意気込んで病院に戻ってきたものの、自分の死に際にこんな苦渋の選択が待ち受けていようとは思ってもいなかった。

 藤野は淀んだ部屋に空気に疲れ、屋上に一人で出た。

 外も曇っていて日中にしては、空は暗く灰色に染まっていった。

 患者と思われる子供たちが走りまわっていた。患者によっては走り回れるくらい元気でも入院していることがある。

 そういえば敏郎君は元気だろうか。藤野は少年たちを見て思った。

 いじめをなくす。敏郎君はそういっていたが、実際問題として可能なことなのか。これまで多くの大人が頭を悩まして、一進一退を繰り返してきた難題。心に特効薬はない。 

 将来、感情をコントロールする新薬でもできたら解決するのだろうか。

 でも万が一そんなものができても、使用可能になるには膨大な時間がかかるだろうな。

 なんたって治験は気が遠くなるほど手間が多い。

そんな妄想をしていると、ふとある考えが頭の中に湧いてきた。

 藤野は体の中が熱くなってくるのを感じた。

 走り回っている子供たちのうちの一人が躓いて転んだ。藤野は声をかけに行こうとしたが、その少年はすぐに立ち上がり何事もなかったようにまた駆け回り始めた。

 藤野は医局に向かって走りはじめた。

 転んだっていい。すぐに立ち上がれば。


 数日後、藤野はにやにやしながらノートパソコンをもって西條のデスクに向かった。

「どうかしましたか。」

西條は怪訝そうな顔を藤野に向けた。

「佐々木先生の手術の件で西條先生に力を借りたくて。」

「この前言いましたけど、ここにいる誰が手術しても結果は変わりませんよ。それは多分他の病院の誰がやっても同じです。」

「それは聞いたよ。だったら既存の手術方法だけじゃなくて、新しい治療方法を試してみるのは。」

「そんなこととっくに調べましたよ。術前化学療法、放射線治療も含めてね。」

 西條は治療法と余命期間を照らし合わせた表が描かれた紙を藤野に渡した。

 藤野は一通り目を通してから笑った。

「本当に全部調べたの?」

 藤野は西條のデスクにノートパソコンを置いて、フォルダを開いた。

ファルダの中には大量の論文が入っていた。

「これは。」

西條はのめりこむように、パソコンを覗いた。

「そう、手術と化学療法を合わせた治療計画だよ。ガイドラインに乗っていない症例報告程度のものや治験も含めて可能な限りリストアップしてきた。これを全部佐々木先生にあてはめて、もっとも効果がある方法をとる。」

「こんなにたくさん。数日でこれ全部ピックアップしたんですか。」

 西條は驚きを隠せなかった。

「佐々木先生の娘さんがMRなんだ。それで頼んでみたら、旦那さんがちょうど膵癌の化学療法を担当しているってことで快く承諾してくれた。」

 藤野は自慢げに西條に話した。

 西條は唖然としていた。

「佐々木先生は俺に命を託してくれた。だから俺も文字通り命を削って救わないといけない。でも一人ではできない。西條先生のその目と知識、そして奥田部長の手術サポートがないと絶対に成功しない。力を貸してほしい。」

 藤野は西條に頭を下げた。

「自分のことはいいんですか。もう時間ないんですよ。」

「それでも俺はやる。やらないと絶対後悔するから。」

 藤野の顔には今までにない真剣さと必死さがあった。

「本当に馬鹿ですね、藤野先生は。」

「人が頭を下げてるのに、馬鹿扱いはないだろう。」

「いえ馬鹿です。親馬鹿ならぬ”医者馬鹿”です。」

 西條は嬉しそうに言った。

「やってやりましょうよ。」

西條は力強い口調で言った。藤野も深く頷いた。

 

「これはどういう診察なのかな。」

佐々木は戸惑いながら言った。

 西條はタブレットと佐々木の左目を交互に見ながら、メモを繰り返していた。

「新しいタイプの診察ですので、あまり気になさらず。疲れたら言ってください。」

 藤野はあまり良い説明も浮かばなかったので、適当に理由をつけた。

「俺は座っているだけだから疲れはしないが。まあ、君たちに任せるよ。」

佐々木も深くは突っ込まずにおとなしく座っていた。

 西條は表情変えず、黙々と治療法を当てはめては時間をメモしていった。

 通常業務もあるため、時間をわけてこの作業を繰り返していった。

 しかし、そう簡単にはベストな治療法は見つからなかった。そもそも薬の組み合わせ、量、投与期間、手術介入タイミングなど、考えられるパターンは無数にあった。その中から佐々木に合うベストな治療手段を選ぶことは容易でなかった。

 だが、西條の目があるだけで治験とは日にならないペースで効果を確認できている。それだけでもマシだと思わないといけない。

 それでも、刻々とタイムリミットが近づいていた。

 懸念材料もあった。 

 腫瘍の増悪がある程度進んでしまうと、手遅れになってしまうのではないかということだ。今行えば良くなる治療も、十日後には効果がなくなってしまう可能性がある。

 それに落としどころも必要だ。現実的に考えて、現段階の進行度で治療をしても五年生きられる人は十パーセントもいないだろう。

 だから最低でも三か月後の娘さんの結婚式に出られること、可能であれば孫の顔を見られることを目標に余命を設定した。

 西條が必死に調べている間、藤野は近くで見守ることしかできなかった。

 藤野は自分の時計のタイマーを見た。

『254:56:32』

 藤野の余命も残り十日間程度となった。藤野はこのまま佐々木の治療が見つからないまま命を落とすことを想像した。充分にあり得ることだった。

 後ろからひたひたとし忍び寄る死の影が、現実味を帯びてきた。

 早く佐々木先生の治療法が見つかり、忙しくなれば気にならなくなるだろうが。

 藤野は自分の手が震えていることに気がついた。

 藤野は想像以上に焦りを感じていた。

その焦りが西條に伝わらないように藤野は部屋を静かにでた。


 進展がないまま三日が過ぎ、藤野の余命は残り七日間となった。

 藤野の焦りがピークに達しようとしていた時、ついにその時がやってきた。

 他の治療とは抜けて余命が長い治療法が見つかったのだ。その期間一〇四八日間。

 これなら、孫に顔も見られるかもしれない。藤野は期待に胸が膨らんだ。

 二人は佐々木の病室をでて、医局に戻った。藤野はガッツポーズをとり、全身で喜びを爆発させた。

 二人が見つけてきた治療はアメリカの癌研究センターで一時期行っていた術中の薬物腫瘍内注入療法であった。そうすることによって腫瘍内の癌細胞を殺すことができる。これなら腫瘍が血管に浸潤している部分を少し残しても、残った部分の癌細胞はなくなっているので根治切除とすることができる。

 これまでも様々な薬で試されてきたが、有効性をだした薬剤は一つもなかった。今回見つけた新薬のエルガドランは、まだ術中腫瘍内注入療法で試されてはいなかった。

「西條先生やったぞ。これならいけるよ。佐々木先生にとってベストな治療だ。」

「そうですね。」

西條は静かに言った。西條は複雑そうな顔をしていた。

「どうした。あとは実行に移すだけだろ。」

「それが難しいと思います。この腫瘍内に注入する新薬のエルガドランは、ここの病院では扱ってないんです。というより日本で扱ってるのは一か所。」

 西條はタブレットに病院のホームページをだして見せてきた。

 帝東大学附属病院。

 藤野は舞い上がっていた熱が、一気に冷めていくのを感じた。

 よりによって嫌われている大学病院でしか扱ってないなんて。ただでさえ保守的な大学病院が、最も嫌っている龍明総合病院のエビデンスのない治療法に手を貸すとは到底思えない。

 藤野は疲労感も重なり、どっと身体が重く感じた。

 西條も両目を手で覆い、椅子から動けなくなっていた。

「どうしたんですか。二人してそんな暗い顔して。」

後ろから低い声が聞こえた。

 奥田部長だった。

「最近二人して佐々木先生のところに通い詰めているそうじゃないですか。身体診察するわけでもなく、タブレットをもって顔をみてくると佐々木が不審がっていましたよ。なにか悪いことでも企んでいるんじゃないですか。」

奥田部長は藤野と西條を交互に見た。

藤野は言うべきか否か迷った。しかしここで奥田部長に説明したところで、やってみようとは言われないだろう。この計画の最大の問題点は、新しい治療方法を見つけたところで根拠がないことだ。いままで実績も何もない治療法を生身の人間に使うことは、不可能に近い。

「手術までにできるだけの事をやっておきたくて、身体所見含めデータをタブレットにまとめていました。」

 西條も藤野と同じ考えを持っているようで、真実を伝えず誤魔化す方向に舵をとった。

「そうなんですか?」

 奥田部長は藤野の方を見た。藤野は突風をうけているような圧に飛ばされそうになった。

「そうです。」

 藤野は負けずに奥田部長の目から視線を外さず答えた。

「そうですか。熱心で宜しい。」

 奥田部長は満足そうに言った。

 藤野が何とか誤魔化せたと安心しているところに、奥田部長は爆弾を投下してきた。

「手術日はちょうど一週間後に決まりました。花火大会の次の日だな。執刀医は藤野先生、第一助手は私、第二助手は西條先生でいきます。宜しく頼みましたよ。」

 奥田部長は二人にむかって言った。

 一週間後。

 藤野は腕時計に目をやった。それはちょうど藤野が死ぬ日であった。

 藤野の思考が止まっている間に、奥田部長は去っていった。

 西條は何も言わずに藤野を心配そうに見ていた。

「西條先生。俺は執刀することはできなそうだ。」

 藤野は静かに言った。

 西條も静かに頷いた。

 しかし藤野の心の火は消えてはいなかった。

 転んでもすぐ起き上がる。もう立ち止まる時間なんてないのだ。

「俺はまだ闘うよ。俺はまだ死んでない。エルガドランは俺がなんとかする。」

 藤野には、この状況を解決できる人は一人しか思い浮かばなかった。

俺はまだ生きている。やれることをやるだけだ。

藤野は歯を食いしばった。

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