症例⑤ 「北条 敏郎」

夏も本領発揮してきた。家から病院までの短い距離を歩くだけでも汗が滲む。

夏は好きだ。夏の香りを感じると、昔の記憶がよみがえる。事故前の楽しかった家族の記憶。

小さい頃、父さんによく近所のプールに連れて行ってもらった。水泳は得意だったから、早く泳げる所を父さんに見てほしかった。父さんはそんな俺の泳ぎをみて過剰なくらい褒めてくれた。あまりに褒めるから将来水泳選手に慣れるんじゃないかと本気で考えたくらいだ。

 帰りは棒アイスを買って食べながら帰るのが習慣だった。いつもどちらが当たり付きでるか勝負していた。父さんは俺よりもたくさん当たりを引いていた。

 そんな所で運を使わなければ、人を轢くこともなかったのに。

 家に帰るとお風呂に入った。うちでは夕飯よりもお風呂に先にはいるルールだった。綺麗好きな母さんが決めたルールらしい。

 お風呂から出ると、大好きなカツカレーが待っている。セットで出てくる野菜サラダは嫌いだった。母さんに文句を言うと、カツカレーを作らなくなるから仕方なくサラダを食べた。今ではサラダがごはんについていないと違和感があるくらいだ。習慣とはすごいものだ。

 そんな当たり前の一日が俺にとっての大切な思い出となっている。

 秋になってほしくない。あの事件がおきた秋には。


 藤野と西條は外来が終わり、遅めの昼食を食堂で食べていた。

 ここの食堂は醤油ラーメンを売りにしていて、江藤が西條に薦めたことから食堂にくると二人はいつも醤油ラーメンを食べていた。

「やっぱり何回食べても飽きないんだよな。都内の雑誌にのってるラーメン店に負けてないと思うよ。」

 藤野はそう言ってラーメンをすすった。

「都内だったら、“この豚野郎”っていう店の豚骨ラーメンが美味しいですよ。」

「あ、そこ知ってる。いつも凄い行列作ってるよね。大学病院から近かったから行ってみたいとは思ってたんだけど。でもあそこすごい量じゃない?一人で行くの?」

 藤野は何気ない質問のつもりで言ったが、西條はラーメンを食べる手を止めた。

 西條の表情が少しだけ曇った。

 藤野はそれに気が付き、なにか地雷でも踏んだかと思った。

「友達と、行きます。」

 西條はいつもの表情に戻して、再びラーメンをすすり始めた。

 生ぬるい空気が二人の間にも浸食してくるのを藤野は感じた。

 そんな時藤野のPHSがけたたましく鳴った。普段はやかましく感じるPHSもこの時ばかりは救助の電話のように思えた。

 藤野が電話にでると、救急外来の看護師からであった。

「男子中学生が十分後に腹部外傷で搬送されてきます。対応おねがいしますね。」

 ゆったりした昼食もこのPHSが鳴れば、早食い大会に変わる。

二人はラーメンを胃にかきこんで救急外来に向かった。


 救急外来に到着すると男の子が救急ベッドで横になって唸っていた。顔は青白くなって、お腹を必死に抑えていた。

「救急隊です。北条敏郎君、十四歳男性。一時間前に校内の階段の踊り場で一人横になっていたのを担任教師が見つけて救急要請されました。来院時のバイタルは意識清明、血圧は98/50mmHg、脈拍は119回/分、体温は37.6度、呼吸回数30回/分でした。本人は階段から落ちてお腹を打ったとのことで、左側腹部の痛みを訴えています。」

 藤野は横になっている少年の腹部診察を始めた。

腹部を診ようとワイシャツのボタンを外して肌着を捲った時、藤野は手を止めた。お腹にはたくさんの打撲痕がついていた。

 藤野は唸っている少年の顔をみていった。

「痛い所ごめんね。敏郎君は階段から落ちてお腹ぶつけたんだよね。」

 利朗は言葉にはせず、一回だけ頷いた。

「そうか。」

見たことを一度頭の片隅によけて、藤野は診察を続けた。

左側腹部に最強点のある腹痛があり、反跳痛と筋性防御を認めた。危険な腹膜刺激兆候がでており、お腹で強い炎症がでている証拠だった。

西條が用意してあったエコーでFAST(外傷患者に行う出血スクリーニング)を行うと、脾臓周囲、膀胱直腸窩に液体貯留を認め、腹腔内出血が疑われた。

輸液を全開で落としながら、二人はすぐさま造影CT検査に向かった。

CT撮影が終わると藤野は右内頚静脈から中心静脈カテーテルを挿入し、西條はCTの読影に回った。

「藤野先生。造影CT検査で脾周囲に液体貯留あります。extravasation(造影剤の血管外漏出で活動性出血を示唆する)も複数箇所認めます。損傷形態ⅢBの脾損傷が原因の出血性ショックの状態が考えられます。」

西條は処置中の藤野に向かって声をはった。

「そうだな。補液への反応はあるし、このまま循環安定すれば手術じゃなくてIVR(画像支援下治療)でも対応できそうだが。」

藤野は西條に視線を向けていった。

 西條は敏郎に顔を近づけた。

「いえ、手術にしましょう。」

西條は即決した。

「そうしたらこのまま手術室に行く準備を進めよう。西條先生は輸血開始して。あと麻酔科と手術室連絡をお願い。俺は家族に説明して手術の同意書をとってくる。」

「わかりました。」

西條は返事をしながら、PHSで電話をかけ始めた。

 藤野は家族のいる待機室に向かった。

 手術の説明をしている間、敏郎の母親はずっと泣いていた。

 なんとか説明を聞いてもらい、同意書にサインしてもらった。藤野が待機室を出ようとした時、母親が口を開いた。

「先生、大丈夫ですよね。」

彼女は絞りだすように言った。

「できるだけのことをやります。」

藤野は努めて冷静に彼女に言って扉を閉めた。

 医者は〇パーセントと一〇〇パーセントは絶対口にしない。たとえどんな励ましの言葉が必要な人に対しても、『絶対』など言えないのだ。

藤野と西條は更衣室で着替えて、手術室で合流した。

麻酔科の医師が敏郎に麻酔をかけている間、藤野は西條に話しかけた。

「敏郎君の外傷、なんだかただの怪我とは思えないんだ。」

「それは私も思いました。でもまずは手術に集中しましょう。」

「そうだな。」

 そんな会話をしていると、モニターのアラームが頻繁に鳴り始め、麻酔科医師の動きが慌ただしくなってきた。

脈拍が上がっていき、血圧がぐんぐん下がり始めた。

「輸血ポンピングでも循環不安定です、早急な止血術が必要です。」

麻酔科医師が動きを止めずに二人に伝えた。

「急ごう。」

 二人は急いで手洗いをし、患者消毒などの執刀までの準備を済ませた。

 タイムアウトを早々に終わらせて、開腹を開始した。

 腹膜が開くと中から、大量の血液があふれ出てきた。

 血圧低下のアラームが鳴り響く中、藤野は腹腔内にタオルガーゼを詰めて圧力で出血を抑えた。吸引をしながら、腹部大動脈を見つけ指で押さえた。これで出血の勢いが収まれば、出血源の確認もできる。

 何とか出血の勢いは弱まり、血圧も少しずつ上がり始めたところで佐々木が別の予定手術を終わらせてから到着した。

 佐々木は状況をすぐには把握し、術野にはいってきた。

 藤野は腹部大動脈を指で押さえたままで、佐々木と西條が脾臓摘出術を進めていく。やはり脾動脈の本幹が裂けており、急激に出血量が増えてしまったと考えられた。

IVRだと危なかったか。藤野は汗が首筋をつたうのを感じた。


 手術は何とか無事に終わり、数日が経過した。

 集中治療室も退室でき、食事もとれるようになった。

 藤野は両親が看病から離れたタイミングを見計らって、敏郎の病室を訪れた。

「こんにちは敏郎君。体調はどうだい。」

 藤野はベッドの隣に椅子をおいて座った。

「まだ動くと痛いけど、ちょっとずつ良くなってるよ。」

「そうか、それならよかった。」

 敏郎は両親が持ってきた携帯型ゲーム機で格闘ゲームをやりながら話した。

 藤野は気になっていたことを切り出した。

「敏郎君。君、本当に階段から落ちたの?」

「そう。授業に遅刻しそうだったから、急いで階段をかけおりたら脚が絡まっちゃって。危なく、死ぬところだった。先生ありがとう。」

 敏郎はゲームから目を離さず言った。

敏郎の顔は笑っていたが、全く目が笑っていなかった。

藤野はもう少し切り込もうとした。

「どういたしまして。でも、もし本当のことを、、、」

 藤野が言い終わる前に病室に子供達が入ってきた。

「敏郎大丈夫だった。」

「大きい手術したんでしょ。どんな感じだった?やっぱり麻酔ってすぐ寝ちゃうの?」

「階段から落ちるなんで本当にどんくさいやつだな。」

「元気そうでなによりだけど。」

 中学生と思われる学生服を着た少年達は、藤野を押しのけてあっという間に敏郎を囲った。

「こんにちは。君達は敏郎君の友達かな。」

藤野は後ろから少年達に声をかけた。

「そうです。敏郎の同級生です。先生が手術してくれたんですか。」

背の高い、爽やかな少年が振り返って藤野に言った。

「そうだよ。」

「先生、ありがとうございました。」

アイドル顔の彼がそう言って頭を下げると、残りの子たちも同調して藤野に頭を下げた。

 最近の若者のモラルに関して、テレビで教育評論家が長々と嘆いていたことを藤野は思い出した。

とんだ杞憂だな。藤野はそう思った。

 子供からの感謝に恥ずかしくなってきて、あんまりうるさくしないようにだけ言い残してその場を去った。

 敏郎も恥ずかしいのか、俯いていた。


 医局に戻ると、西條がパソコンとにらめっこしていた。

「どうしたの、西條先生。今日の手術も無事終わったんだし、少し休んだら。」

藤野はウォーターサーバーに向かいながら、後ろから声をかけた。

西條は慌ててパソコンを閉じた。

また小島の際どい動画を見ているのか。藤野は特に触れずに、水を汲んで飲んだ。

「私達、見落としているものとかないですかね。」

西條は振り返って藤野に言った。

「見落としてるもの?時間外労働の給料とか?」

「それは見落としているものというよりは、見落とされているものかしれないですが。違います。敏郎君のことです。」

 こんなブラックジョークもジョークで済まないから、意外と深刻な問題だ。

「見落とし?うーん。画像は俺と西條先生、あと放射線科の先生もみてトリプルチェックになってるからないと思うけどな。手術も問題なく終わったし、術後の検査も順調そうだった。なにより、敏郎君本人が元気そうだったよ。」

藤野は近くのソファに腰を下ろした。

「私もそう思うんです。」

「じゃあ心配ないじゃないか。」

「ただ、敏郎君の余命は手術前から約五日間だったんです。それは手術後も変わらないんです。」

 西條は思いつめた顔をしていた。

「じゃあこの後、なにか起きるってことか。」

 藤野は勢いよく立ち上がった。コップの水が少しこぼれた。

「じゃないとこんな余命にはならないと思うんです。」

 自分の余命宣告を受けたかのように、藤野は茫然とした。

 手術からこれまでの術後管理を頭のなかでもう一度さらったが、全く分からなかった。

「とにかく、小さな変化も見落とさないようにしよう。」

 藤野は自分にも言い聞かせるように言った。

 西條も真剣な表情で頷いた。


 藤野と西條は頻回に敏郎君の所に行っては、様子を確認した。

「回診ってこんなに頻回に来るの。」

藤野が病室を訪れると敏郎は少し嫌そうな顔をしていた。膝元には漫画があり、机には漫画が山積みになっていた。

「大きい手術だったし、心配で見に来てるんだよ。」

「そんな心配になる手術だったの。」

敏郎は明らかに不快そうだった。

「いやいや、ちゃんと手術したから安心してよ。あ、それよりこの漫画、今凄い人気あるやつでしょ。日本の戦国時代が舞台やつ。俺も読んでるんだよね。」

 藤野は“戦国ウェーブ”と書いてある漫画を手に取った。

「そうだよ。詳しいね。これ、友達が全部貸してくれたんだ。」

「この前来ていた子達か。敏郎君人気なんだなー。そうそうこの巻に泣ける名シーンがあるんだよな。」

 藤野が積んである一番上の漫画を手に取って開こうとした。

「それはだめ!」

 敏郎が顔色をかえて叫んだ。

 藤野は漫画をゆっくり戻して、両手をあげた。部屋の外から大声を聞きつけて、看護師が飛び込んできた。

「ごめん。」

 藤野は敏郎に謝った。看護師にも目で謝った。

「あ、ううん。まだ読んでなかったからさ。ネタバレされると思って大声だしちゃった。へへ。」

 敏郎はへらへらと笑い始めた。

「ちょっと大きな声だしたら、お腹痛くなっちゃった。少し休みたいんだけど。」

 敏郎は布団をかぶって横になった。 

「申し訳なかったね。おやすみ。」

藤野は怪訝な顔をして病室をでた。


 敏郎の余命があと二時間となった。二十二時過ぎて、夜が更けてきた。

 本人は変わりなく、余裕そうに漫画を読んでいた。すでに最終巻になっており、凄まじいペースで読み進めていた。

 採血、画像検査も必要以上に行ったが、順調そのものだった。

 それでも、藤野と西條は医局とナースステーションを行ったり来たりしていた。

藤野は予告犯罪の現場に、入りびたる刑事の気持ちがわかる気がした。

さすがに西條の予知は外れているんじゃないかと思うようになってきた。

こんな静かな夜に、何か起こるわけがない。

藤野の気は少しずつ緩み始めていた。


 十分前となり、藤野は敏郎君の部屋を覗きに行った。

すでにライトは消えていた。寝ている患者を起こすのはあまり好きじゃないので、こっそり部屋に入りベッドを覗いた。

敏郎は見当たらなかった。トイレにもいない。

 机には読み終わった漫画が綺麗に積まれていた。

 ナースステーションのナースに訊いても、部屋にいると思っていたとのことだった。

 藤野は嫌な予感がした。

 西條も心配になったのだろう、ナースステーションに現れた。敏郎がいなくなったことを伝えると、彼女の表情がこわばった。

 二人は病院中を走り回った。一目のつかないところで倒れていたら、救命できない可能性が高くなる。

 検査でも問題は見つからない。だが、事故で亡くなる可能性は否定できない。何としても見つけ出さないといけない。

 藤野は気が緩んだ過去の自分を呪った。

 残り五分となったが、敏郎は見つからなかった。

藤野は病室に戻っているんじゃないかと思って、敏郎の部屋を再度訪れた。

敏郎はいなかった。

 ため息とともにベッドについている机に寄り掛かると、そのまま机が滑っていき藤野は後ろ向きに転倒した。机のロックが外れていたのだ。藤野は腰を強く打ち、舌打ちをした。    

漫画が床に落ちて散らかってしまった。

藤野は腰をさすりながら、漫画を一冊一冊集めていくと違和感がそこにはあった。

 本の厚みがそれぞれ全く違うのだ。

 藤野が読んだことのある五巻を手にとって読んでみると、その違和感の原因に気が付いた。  

 ところどころページが飛んでいた。そこには荒く破った後があった。

 他の巻も確認したところ、やはりページが破られていた。

 藤野の頭に恐ろしいストーリーが閃いた。

 足跡のついた服。

 友達が持ってきた漫画。

 それを見ようとして動揺する敏郎。

 荒々しく破られたページ。

 あとわずかな命。

 藤野が慌てて病室をでた。

エレベーターを待っていられず、階段で走って屋上にでた。

階段を駆け上がったため、息が上がって声がでない。

 暗闇の奥に人影がうっすら見えた。

 顔はみえないが、藤野は確信していた。

「敏郎君!」

藤野は唾をのんで何とか声を絞り出した。

少しずつ目が慣れてきた。

敏郎は柵の向こう側に立っていた。右手で背後にある柵を握り、左手には紙の束を持っていた。

 利朗は顔だけ振り返り、そしてまた前を向きなおした。

「敏郎君、やっぱりいじめられてたんだろ。」

 藤野は敏郎に向かって叫んだ。

「それ。その破いたページには嫌なことが沢山かいてあるんだろ。今回の怪我も、その漫画持ってきたやつらにやられてできたものなんだろ。なんで正直に言ってくれないんだよ。」

 藤野はゆっくりと敏郎に近づいた。

 それに気がついた敏郎は手を柵から外して立った。藤野は歩みをとめた。

「先生少しだけ違うよ。確かに僕はあの日もいじめられていた。理由なんて些細なもんだよ。僕が書いた読書感想文が県の優秀賞になって学校で表彰されたことが気にくわなかったんだ。」

 敏郎はなにもない暗闇の方にむかって話した。

「屋上に呼ばれてわかりやすい暴力を受けた。彼ら少しずるくて顔や手足とかの目に見えるところは殴らないんだ。やるのは基本的に背中やお腹の服に隠れた部分。やったのは先生も病院で会ったあいつら。」

 藤野はぞっとした。

 敏郎を訪れた子達は計画性をもって人をいじめているのだ。藤野に見せていた笑顔も感謝の言葉もすべて見せかけのものだったのだ。

 どのように育ったらそんな悪意を隠せるのだろう。

「でもね、そんなことはどうでもよかった。殴られたり蹴られたりしても、そのうち飽きてやめるだろうって思ってた。でも、どうしても、許せないことがあった。」

 敏郎の声が裏返る。

「僕には宮内って同じクラスの友達がいたんだ。背が女子より低くて、弱弱しいやつだった。それに家が貧乏だったのも相まって、いつもクラスのやつにいじめられてた。それでも僕にとっては唯一気が合う友達だった。この漫画を僕に勧めてくれたのも漫画好きな宮内なんだ。」

 敏郎は左手をあげて破れたページをみせた。

 藤野はそのたびに誤って落ちてしまわないかそわそわした。

「この漫画は僕と宮内がいつも話題にしてた漫画なんだ。歴史からそれないようにしながら、かつ読者の心掴んで離さない筋書きは本当に凄いんだって宮内は嬉しそう熱弁してた。将来漫画家になって“戦国ウェーブ”みたいな漫画描くんだって耳にたこができるくらい聞いた。」

 敏郎は笑っていた。ただ、その笑い声は震えていた。

「みんなは笑うかもしれないけど、あの漫画は宮内にとって聖書だったんだ。それなのにあいつらは宮内を脅して漫画を全部奪い取ったんだ。お金のない宮内が必死に集めた大切な漫画だったのに。」

 敏郎は肩を震わせ、拳に力が入っていた。

 敏郎は藤野の方を振り返った。

「先生もたかが漫画だろって思うでしょ。普通そう思うよね。でもそのたかが漫画で宮内はリストカットしたんだ。」

 敏郎は自分の左手を切るふりをした。涙を零しながら、敏郎は笑っていた。

 藤野は唖然とした。

 人の命を奪うものが、必ずしも拳やナイフではない。大切な人やものを奪われて自殺する人は後を絶たない。事実日本では、年間自殺者数が他殺者数の十倍に到達しようとしている。

「宮内は幸い助かったけど、二度と学校に来なかった。僕にも何も言わず、どこかに転校してしまった。」

 こんなに悲しい思いをしている中学生に、大人の藤野は何もいってやれなかった。

「学校も警察もいじめが自殺の原因とは思わなかったよ。」

「どうして。」

「証拠がないんだ。宮内は暴力をうけたわけじゃないからね。だから大人たちは、貧しい家庭環境が自殺に追い込んだなんて馬鹿げた答えをだして納得してたよ。」

 敏郎は左手に持っていたページを、屋上から投げ捨てた。

 紙は風にのって暗闇に溶けていった。

「だからね。学校や警察が認めざるを得ないエピソードを作って、いじめてた奴に復讐しようと思ったんだ。」

「まさか。」

「そうだよ。わざと階段から落ちたんだ。だからいじめを受けたは真実だけど、階段から落ちたのは僕の仕業。昼休み屋上であいつら挑発して喧嘩したんだ。そして集団暴行をうけた後、あいつらと一緒に教室にもどる途中の階段でわざと落ちた。」

 藤野は想像を超える現実にめまいがしてきた。

 友人の自殺未遂の復讐をするために、危険を顧みず階段から落ちる子供。

 藤野にはこの世が救いのない世界のように思えた。

「意識が朦朧とする中、僕の担任が近付いてきたんだ。好都合だと思ったよ。僕が階段から落ちたその場に普段からいじめをしているグループがいた。そしてその僕の学ランには足跡がついている。いじめの証拠としては十分だと思った。けどあいつは想像をこえる最低野郎だったよ。いじめがおきたと早くから認識したあいつは、僕の学ランを脱がして隠したんだ。そしていじめたグループと口裏を合わせ始めた。ただ僕が完全に気を失っていると思ってたのはあいつの誤算だったけどね。」

 敏郎の涙はすっかり乾いていた。そしてその目には怒りに満ちていた。

「じゃあなんで敏郎君は最初僕に会った時、階段から落ちたなんて嘘をついたの。」

 藤野は尋ねた。

「もうどうでもよくなったんだ。何をやってもいじめの存在は認められない。それに思ったより痛かったし。」

敏郎はお腹をさすった。

 そして手術が終わって麻酔から覚めた時、やはり事故として扱われていたことを知った。

 そこからは藤野が考えた通りであった。

 敏郎の行動を不快に思ったいじめ集団は、敏郎の親友の宮内から奪った”戦国ウェーブ”にありとあらゆる誹謗中傷を書き込み入院中の敏郎の部屋に置いていった。

 復讐を諦めた敏郎はそれをみて、再び怒りが込み上げてきた。

「あいつらに現実を突きつけるためにも、僕は死ぬんだ。僕の親友のために僕は死ぬ。馬鹿な大人たちもこれで気付く。」

 敏郎は外をむいてその場に座り、両足を宙に浮かせた。

「死んだってなにも変わらないよ!敏郎君が憎んでいる生徒や教師は何も変わらない。一時は、いじめの事を悔いるかもしれない。でも時間が経てばそんなこと忘れてしまう。生徒は大人になって君のことを忘れ、たまに旧友とあって思い出してもあいつには悪いことしたな、くらいにか思わないよ。教師だって、次から次へとやってくる生徒と向き合っている間に君の事なんて忘れてしまうよ。悔しくないのか。」

 藤野は敏郎にむかって叫んだ。胸の中できしむ音がする。

「もういいよ!もう疲れたよ!」

 敏郎は頭を抱えて言った。

 藤野が閉じ込めていた感情の箱がわずかに開き、こぼれでた。

「なんでだよ。なんでそんな皆死んでいくんだよ。」

 藤野はぽつりと呟いた。

 敏郎は振り返った。

「父さんも母さんも死んだ。二人とも辛いこと自分だけで抱え込んで、しょいこんで。潰れていった。なんでだよ。家族で背負えば頑張れたのに。」

 藤野は閉じ込めていた想いを初めて言葉にした。

二十年前に感じたことだった。 

「頼ってほしかった。俺は父さんにも母さんにも頼ってほしかったよ。」

 藤野は叫んだ。そして、泣き崩れた。想いが涙と一緒に溢れた。

 言葉にすれば単純なこと。

 それでも苦しんでいる人にはとても難しいことだ。その人が優しい人であればあるほど。

「敏郎君にも同じように思う家族がいる。俺もいるよ。だから頼むよ。生きてくれよ。」

 藤野は祈るように言った。

 強い風が吹き、その後静寂が訪れた。

 藤野の鳴き声だけが、屋上に残った。

「なんだよ。先生泣いちゃってさ。僕がいじめてるみたいじゃないか。」

 敏郎の声が近く感じた。

 藤野が顔を上げると、敏郎が目の前に立っていた。

「やっぱりいじめって楽しくないね。」

彼は笑いながら言った。その目には涙が伝っていた。

 時計は深夜〇時三〇分を指していた。


 その後、敏郎は両親にいじめのことを話した。両親は憤慨し、学校と加害者生徒を糾弾した。

 しかしいじめに対して法的に罰を与えることはなかなか難しいとのことだった。

「僕もずるい方法で彼らに仕返ししようと思ったから仕方ないよ。」

 退院日、敏郎は病院の玄関で藤野に言った。

「僕、転校することにしたよ。別に逃げたわけじゃない。やりたいことができたから。僕弁護士になるんだ。」

 敏郎はバッグから取り出した弁護士の漫画を藤野にみせながら言った。

「いじめ問題の専門家になって、被害者が自殺なんて考えなくてよいような世界にするんだ。」

「そうか。頑張れよ。」

 藤野は敏郎の肩を叩いて言った。

敏郎の目はまっすぐ先を見据えていた。

 強い子だな。

藤野は心からそう思った。

「先生。助けてくれてありがとうございました。」

 敏郎と両親は深くお辞儀をして病院を去った。

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