症例② 「大森 せつ」
河原で座りこんで石を積む幼少期の自分。それに話しかける今の自分。
今の自分をみて恐れる幼少期の自分。
少年の左目には赤いものが映りこんでいた。
今日も積みあがられていた石が崩れた。
昔の自分は泣きそうな目をして俺の方をみていた。
なんでそんな目で俺をみるんだよ。俺が何したって言うんだよ。
汗がたれる。息が苦しい。
藤野は医局のソファで飛び起きた。窓から朝日が差し込み、藤野が寝ているソファに直撃していた。4月下旬とは思えない暑さであった。
藤野は起き上がり、ウォーターサーバーから水をコップに汲んで喉を鳴らして飲んだ。
歯を磨きながら今朝の夢を藤野は思い返していた。なんだかんだ気にしているんだなと思い、意外と脆い自分を笑った。
口を濯いだ後、そのまま冷水で顔を何度も洗った。
よし、仕事だ。
藤野は自分の顔を叩いた。
昼が近づくと、真夏のように感じる暑い日だった。
藤野と西條は隣通しの部屋で外来をこなしていた。あまりの暑さに二人とも部屋に扇風機を入れて暑さ対策をしていた。
午前の分がやっと終わり、昼食休憩をとろうとデスクを離れた時だった。
隣から怒号が聞こえた。
「俺を見捨てる気か!」
西條の部屋からだった。
藤野達がみている消化器の悪性腫瘍患者は、初診で絶望的な状態の人も珍しくない。
すでに手術ができないくらい悪い状態の人もいる。化学療法を行っても一年ももたない人もいる。
キューブラー=ロスは死の需要のプロセスを五段階に分けている。
否認、怒り、取引、抑うつ、需要である。
否認は根治困難な癌告知という大きな衝動をうけるが、死を受け居られない状態である。ありもしない特効薬の存在を信じたり、ゴッドハンドと呼ばれる名医を探したりするのもこの否認の状態を抜けられないのが原因である。
残酷だが、現代の癌治療はガイドライン化されており、無理なものはどこにいっても無理なのだ。そのことをそのまま患者に伝えると、次の怒りを悪化させることとなる。
藤野はおそらくこれに近しいことが起きたのだろうと思った。
藤野は看護師から西條先生が診察している患者の名前を聞き、電子カルテで検索した。
「あなたには手術ができない。化学療法をしても身体がもたないでしょう。だから、残りの余生は治療に縛られず自由にすごした方が良いと思います。」
「なんでそんなことがあなたにわかるんだ。やってみないとわからないだろ!」
「わかるんです。あなたは手術、化学療法、緩和治療の中で緩和治療が最も充実した余生を過ごせます。」
「そんな、、、そんなこと、はいそうですかと納得できるかよ。」
男の怒声が続く。
患者のカルテを診て、違和感を覚えた。
六十二歳男性。進行胃癌で心筋梗塞と糖尿病の既往があり、現在抗血小板薬と血糖降下薬を内服している。遠隔転移はなく、六番リンパ節(幽門下リンパ節で膵臓と接している)のみ腫大している。手術はできるだろう、いや選択肢としては手術がガイドライン通りだ。
なぜ緩和治療を勧めるのだろう、藤野は不思議に思った。
「ここで手術ができないなら、他の病院に行く。紹介状を書いてくれ。」
男性は机を叩きながら言った。
「それも好ましくはないです。他の病院に行けばあなたは手術台にのるでしょう。そうならばあなたとあなたの家族は後悔しますよ。」
男性の声が聞こえなくなった。もはや診察室ではなく占いの館に思えてきた。
藤野は気になって後ろから診察室を覗いてみると、患者の顔は真っ青になっていた。
「よく考えてみます。」
患者の男性はそれだけ言って、妻と思われる女性と診察室をそそくさと出ていった。
「西條先生?」
藤野は患者がでてから声をかけた。
振り返る西條の顔を見て藤野は鳥肌がたった。その異様さに。
彼女は普段通りの顔だった。冷静で真面目な顔だった。
ただ、西條の左眼からは涙が零れていた。左眼だけ。
通常涙を流す人は喜びや悲しみなどの感情が顔にでるものだ。
しかし西條の顔からは全く感情が読み取れない。
昔SF映画で、アンドロイドが涙を流しているシーンがあったがまさにそれであった。
藤野と西條は昼休憩に屋上に出た。時間が許せば、昼食を屋上で食べるのが藤野の定番であった。
この病院の数少ない良いところの一つは、眺めの素晴らしい屋上に出られることだ。周りに高い建物もなく、見晴らしは最高だ。ここから一望できる湖があり、夏の終わりにはそこから花火が打ち上がる。患者もスタッフもこぞってこの屋上に出てくる。
「驚きましたよね。」
西條はベンチに腰掛け、藤野に笑いかけてきた。
「ええ。まあ。」
西條の横には座らず、藤野は立ちながら缶コーヒーに口をつけた。
「恥ずかしながら、たまにあるんです。診療中に勝手に涙がでてしまって。」
「慣れない所での診察だから、疲れもあるんでしょ。」
「それは違うんです。この症状は無自覚なんです。」
「それはどういう意味?」
「そのままの意味です。自分の感情の起伏に関わらず、涙が勝手にでてしまうんです。」
それはそれで強いストレスを知らぬうちに抱え込んでしまっているサインなんじゃないかと推察してしまうが。
藤野は心配になったが、今の西條は普段と変わらない生気ある顔だった。さっきまで泣いていた人とは思えないほど。
藤野が西條の事を必要以上に心配そうに見たせいか、西條は少しムキになって言った。
「決して過去のことを思い出して泣いたわけでも、新しい環境が辛くて泣いたわけでもないんです。精神疾患をかかえているわけでもありません。」
「別にそんな風には見てないよ。」
藤野は慌てて弁明した。
「まあでも。意図していないとは言え、患者の前で涙がでるのはよくないですよね。重々承知しているんですが。」
西條は手を額にあて項垂れてみせた。
「あまり気にしすぎるのも良くないよ。」
藤野は当たり障りのないアドバイスをした。
「まあそうですね。」
西條は左手で髪をかき上げた。
西條の左腕には、前と同じスマートウォッチをつけていた。
藤野はふと、時計に移しだされていた数字を思い出した。
あれは十中八九タイマーだった。下一桁の数字が一ずつ減っており、体感としてもそれは一秒ずつ減っていた。ということは、『4221:34:24』は『4221時間34分24秒』ということだ。つまり一七五日くらい。一体あれはなんのカウントダウンなんだろう。
藤野は訊きたい衝動に駆られた。しかし、前回あれだけ時計を見られることを拒否したことも同じくらい気になっていた。
藤野がどうしようか悩んでいる間に、西條はおにぎりを食べ終わり、くるんでいたラップをゴミ箱に捨てた。
「いい場所教えてくれてありがとうございます。また使いますね。では。」
西條はそう言い残して、屋上から室内に戻った。
「どういたしまして。」
藤野は嬉しそうに呟いた。
「ではタイムアウトします。田沢史郎さん、胃体中部癌に対して開腹幽門側胃切除術D2郭清、B―I再建を行います。予定時間は三時間で出血量は一五〇ミリです。術者西條です。」
「第一助手の奥田です。」
「第二助手の藤野です。」
「タイムアウト終了します。メスください。」
西條がスタートをきった
「はい。」
オペナースがメスを渡す。
西條がこの病院で執刀する最初の悪性腫瘍手術が始まった。
近年、腹腔鏡手術やロボット手術の普及により、開腹手術は昔と比べると数を減らしていた。そのため開腹手術を苦手とする若手外科医も増えていた。
西條もその類であろうと踏んで、奥田部長はあえて開腹手術を彼女にあてた。
しかし、西條はそれには当てはまらなかった。危なげなく手術をすすめていた。
奥田部長もアドバイスすることもあまりなく、肩透かしを食ったようだ。
「西條先生は若いながらもなかなか良い手術をするじゃないか。藤野先生も負けてられないな。」
奥田部長はこちらをちらっと見てきた。
「精進します。」
術野から目を離さず藤野は言った。
迷いのない洗練された手術だと藤野も感じていた。
通常手慣れた術者でも、進行癌ともなると少しは迷う箇所があるものだ。
しかし西條の手は全く止まらない。血管処理や膵臓周りのリンパ節郭清も八年でこのレベルに達するのは並大抵の努力では難しい。
腫瘍が切除されて残り吻合操作になった時、西條は患者の頭の方に移動して顔を眺め始めた。
藤野と奥田部長はお互いに顔を合わせた。
「西條先生。何してるの?」
藤野は西條に尋ねた。
西條は何も答えず、患者の顔を見続けていた。
「特に麻酔管理で問題は起きてないと思いますが。」
麻酔科医師が不安げな顔で西條をみた。
「B―I再建ではなく、Roux―en―Y再建にしましょう。」
西條は顔を挙げて奥田部長と藤野に言った。
胃切除手術には複数の吻合操作がある。それぞれの患者にあった吻合操作を行うことで機能温存や合併症リスクを下げることができる。
「確かに残胃は大きくないけど、残胃と十二指腸をつなげないほどではないよ。吻合にテンションもそこまでかからない。」
藤野は西條に言った。
「それでもここはRoux―en―Y再建の方がこの人のためになる。少し手術時間が延びますが、奥田先生お願いします。」
「執刀医は西條先生だ。私は構わない。」
「では再建方法を変更します。」
藤野は行動の意図をはかりかねていた。
たしかに術中に手術内容を変更することは珍しいことではない。ただ、決め手となる理由は曖昧だったし、なにより変更を決める前にとった行動の意味が藤野にはわからなかった。
藤野は頭を悩ましている間にも、手術は進行した。結果的には予定よりも早い二時間四〇分で大きな問題なく手術は終わった。
藤野と西條は患者とともに病室に戻った。
「ありがとうございました。寝ているうちに手術終わっちゃいましたよ。」
患者の田沢は酸素マスクをつけたまま西條に言った。
「どういたしまして。それは麻酔科の先生の腕が良かったんですね。」
西條は笑顔を向けた。
術後の状態を確認して、藤野と西條は病室を出た。
昼食を院内のコンビニで買って再び屋上にむかった。
「素晴らしい手術だった。慣れない病院であのレベルの手術ができるのは本当に実力があるんだと思うよ。」
藤野は思ったままを言った。
「ありがとうございます。」
西條は驕ることも卑下することもなく言葉は受け取ることができる人だった。
「奥田先生があんなに口を挟まないのは、本当に珍しいよ。俺は結構つっこまれる方だからわかるんだ。」
「藤野先生は期待されてるんですよ。」
西條は階段をのぼりながら、後ろにいる藤野に言った。
「そうだといいんだけどね。たまにストレス発散にも思えるよ。」
藤野は最近この階段をのぼるのも一苦労で、息が切れる。
「そうですよ。羨ましいです。」
西條は息切れなく階段を登り切った。
二人が屋上にでると、風の気持ち良い晴天であった。
最近は雨の日が続いたからか、屋上にでている人も多かった。
「それでも西條先生も最初は怒られたでしょ。」
藤野はそう言って、給水がてら家でペットボトルに汲んできた水道水を一気に口に含んだ。
「怒られましたね。メスが曲がってるとか、結紮が緩いとか。今でも手術してると、昔の指導医の怒声が聞こえるんです。」
彼女は迷惑そうな顔をしていたが、どこか嬉しそうだった。
「今でもその指導医とも会ったりするの。俺だったら違う病院にいったら、奥田部長には会いに行かないけど。」
藤野は冗談めいて言った。
「そうですね。しばらくは会わないつもりです。前はその人に随分頼りっぱなしだったので、自分の力でどこまでできるか試してみようと思って。」
西條は風に長い黒髪をなびかせながら言った。
「素敵な指導医なんだね。」
「ずっと仏頂面で、普段何を考えてるのかよくわからないですけどね。でも話すと医療に熱い心を持った人で、患者に対して優しい気持ちでいつも接しているんです。自己表現が下手なんですねきっと。」
西條は買ってきたサンドウィッチを食べることを忘れて話した。
藤野は西條が話しているのを、黙って眺めていた。
「なんか私ばっかり話してますね。藤野先生も何か話してください。」
西條はやっとサンドウィッチを食べ始めた。
藤野は鮭おにぎりの再度の一口を放り込み、水で流し込んだ。
「さっきの手術、患者の顔見てたけど。あれなんだったの。あれしてから術式変更を言い始めたけど。」
藤野は自然な形で西條に尋ねることができた。
「ああ、あれですか。おまじないみたいなものです。」
「おまじない?」
「そう。手術中悩んだ時は患者さんの顔をみるようにしているんです。そうしたら患者にとってどうすることがベストかを決めることができるんです。ジンクスみたいなものですかね。あとは長い手術になった時とかもみますね。そうすると集中力がもどるんです。」
西條はプラスチックカップに入った氷の入りのアイスコーヒーを飲みながらあっけらかんと返答をした。
藤野にとっては意外であった。優秀な医師であればあるほど、根拠に則って医療に当たっているが、今の西條の発言は非科学的なものであった。
「そうなんだ。いやなんか珍しいなと思って。」
藤野は完全に信じてはいないものの、これ以上掘り下げても仕方ないと思い話をやめ、残りの昆布おにぎりを食べ始めた。
「話変わるんですけど、今ローテーションしている研修医君のことで。なんか私の事を避けてる気がするんですよね。何か質問があっても近くの私じゃなくて、わざわざ藤野先生に訊きにいっているような。」
西條は不満そうに言った。
「そうですかね。でも女医さんが苦手な男性医師はいると思うよ。特に女性外科医を苦手とする男性医師は少なくないんじゃないか。」
藤野は笑いながら言った。
「なんでですか。」
西條はぐいぐいと顔を近づけてきた。
「そういう問い詰めてくる所だよ。」
藤野は体を後ろにそらせて、両手を前に出してブロックした。
西條は姿勢を戻し、残りのサンドウィッチを一気に頬張った。
「俺が研修医の時の指導医だった女医さんが滅茶苦茶おっかなくて。その怖ろしさは今もトラウマで。」
藤野は笑いながら西條に説明した。
事実本当に恐ろしい鬼のような女医であった。後輩や同期にはもちろん上司にも、怒鳴ったりするタイプで、まわりからはクイーンと陰で呼ばれていた。
医師になりたての藤野にも、当然のように厳しかった。
中心静脈カテーテル挿入を初めてやった時は、説教されながらもなんとか留置できたが、その後一時間程度の説教が待っていた。
クイーンの指導をうけて医者をやめた研修医のいたようだ。
説明を聞いた西條は笑うというよりは、寂しい顔をしていた。
「でも俺はクイーン好きだったよ。色々熱心に指導してくれて。大変な日の後は飲みに連れてってくれてね。お酒強い人だったから二人して朝まで飲んだりしたよ。さすがに次の日は二人ともボロボロで使い物にならなかったけど。」
藤野には人並みな懐かしい思い出が愛おしく思えた。
西條の顔がほぐれて笑顔になった。
「熱心に物事をやっていると、周りから敬遠されることもある。それで自分のやっていることが正しいことなのかって悩むこともある。でも、ちゃんと見てくれている人は理解してくれるよ。」
藤野は西條の目をまっすぐ見て言った。
「ありがとう。」
西條も目を逸らさず答えた。
西條のアイスコーヒーの氷はほとんど溶けてなくなっていた。
晴れが続いた五月の連休が終わり、そのつけを払うかのように雨が続いていた。
世間は雨でげんなりしているかもしれないが、藤野ら外科医はさして変わらない。朝早くから夜遅くまで病院に缶詰だから天気を感じることもない。院内は常に同じ室温であり、季節感も感じない。
天気も季節も感じない箱の中で藤野達は働いている。
外から見ればただの白い箱だが、その箱とあの世では常に命の綱引きをしている。なんとかあの世に持っていかれないように必死に医師は綱を引いている。
残念ながら一人の女性があちらの世界に引っ張られてしまった。
患者は七十二歳女性。大森せつ。一昨年大腸癌の手術を行ったが、昨年末にCT画像評価で多発肝転移、肺転移が見つかった。大変な手術を乗り越えた後すぐに再発が見つかり、本人の心は完全に折れてしまった。化学療法も提案したがせつは拒否した。
そのため疼痛コントロールなどの症状緩和がメインとなった。
先月から急激に状態が悪くなり、当院の緩和病棟に入院していた。
「おはようございます。一時に比べるとだいぶ顔色いいですね。」
藤野は西條と朝回診でせつの個室の病室を訪れた。
せつは食事中だった。
「そうでしょう。ご飯は相変わらずまずいけどね。」
せつは毒を吐きながら、七割近く残ったご飯のトレイを遠ざけた。
「食べないと元気もでないですよ。」
藤野は食事の食べた量をチェックしていった。
せつは小柄で腰も大きく曲がっているが、昔スナックのママをやっていたためか今でも口だけは達者であった。
「こんなまずいもの全部食べたら、もっと元気なくなるわ。」
せつは小さく笑いながら手で払った。するとせつは藤野の後ろにいる西條に気がついた。
「あら後ろにいる可愛らしい子は藤野先生のガールフレンドかしら。」
「違いますよ。」
藤野は少し照れながら否定した。
「初めまして、藤野の同僚の西條です。宜しくお願いします。」
西條は“同僚の”を強調して言った。藤野は苦い顔をしていた。
遠ざけたトレイとは別に、小皿に食べ終わった一切れのメロンが置いてあることに西條は気がついた。
「メロンはお好きなんですか。」
西條がせつに尋ねた。
「ああ、息子がまたメロン送ってきたの。今年はとてもいいものができたみたいで。これだけは美味しく食べられるの。まだあるから先生もいかが。」
そういってせつは、冷蔵庫を開けようとした。
西條は不思議そうな顔でせつを見た。
「せつさん。そのメロンは、、、」
西條が話しかけるのを遮って、藤野は話し始めた。
「美味しそうですね。でもせっかくなのでせつさん、また今度もらいにきますよ。だから今は取り出さなくていいよ。」
「そうかしら。そしたらまだたくさんあるし、帰りでも持って行って。」
せつは冷蔵庫から手を引いて、藤野達の方に身体を戻した。
「ありがとうございます。」
藤野は感謝を伝えながら、西條に目で後ろに下がるよう指示した。
「また復活してきましたし、お迎えは次の入院の時かななんて思ってるの。」
「そんなこと言わないでくださいよ。今回も退院できそうですし。左足の様子はどうですか。」
「あんまり変わらないかな。痛みはそこまでないんだけどね。」
せつは腫れた左大腿をみせた。
「薬がきいてくれればいいんだけどね。」
藤野は腰を落として、せつの大腿をさすりながら言った。
「そこまで困ってないから大丈夫よ。」
「あんまり家に帰って無理しないようにね。」
藤野は立ち上がり病室をでた。西條も一緒について外にでた。
二人はナースステーションに向かって歩いた。
「さっきのメロン、病院食ですよね。」
西條は藤野に訊いた。
「そうだよ。」
「息子さんが送ってきたって言ってましたけど。」
藤野は返事をせずナースステーションの椅子に西條を座らせ、看護師達が使う冷蔵庫をあさり始めた。
「どういうことなんですか。」
西條は返事がないことに少し苛立ちながら、再度藤野に尋ねた。
藤野はそれにも答えず、代わりに冷蔵庫から一球のメロンを取り出し西條に渡した。
「またメロン?」
「そろそろナースコールなるから、それを持っていって渡してきて。」
「いや全然意味がわから、、、」
西條が言いかけたところで、ナースコールが鳴った。
せつの病室だった。部屋から叫び声が聞こえてきた。
西條は藤野の顔を見た。藤野は真面目な顔をして頷いた。
西條はせつの病室に走ってむかい、扉を開けた。
小柄なせつから出ているとは思えないほど、ひどく大きな叫び声が響いていた。
せつはベッド下の床に座りこんで、冷蔵庫の中を覗いていた。
「わたしのメロンがないの。冷蔵庫に入れていたのに。どこにいったの。」
「あの。」
せつは声のする西條の方を見た。せつの目は血走っていた。
せつの目は西條の持っているメロンに集中していた。
「なんであなたが私のメロンもってるの!」
せつは左足を引きずりながら西條に向かって早足で突撃してきた。
西條はどうしていいかわからず、その場から動けなかった。
「なんて卑しい人なの。人のもの盗るなんて。早く出ていきなさいよ。」
せつは強い力で西條を押し倒し、メロンを奪い取った。そしてベッドで戻りメロンを抱えたまま横になった。
「ごめんなさい。」
西條は立ち上がり、謝りながら逃げるように部屋をでた。
部屋を出ると、藤野が部屋の前に立っていた。
「どうだった。」
藤野は嬉しそうに笑っていた。
「認知症なんですね。」
西條は乱れた髪を直しながら言った。
「そう。」
二人はまたナースステーションに戻り椅子に座った。
藤野は西條にせつの経緯を話した。
せつは旦那が早くに他界してから、一人息子と二人三脚で生きてきた。息子が成人し、その後からせつは一人暮らしを続けていた。息子はもともと都内の食品メーカーに勤めていたが、五年前に北海道にメロンの開発のために出向していた。
それから息子は毎年手紙を添えてメロンをせつに送っていた。
一昨年の大腸癌の手術後から認知症を発症した。大腸癌の手術で体力は落ちているし認知症もあってこれ以上の独居は難しい状態だった。だから、藤野は出向先の北海道から都内に戻ってきていた息子に一緒に住むよう勧めた。
しかし息子は仕事と自分の家庭を理由に断った。そしてこう付け加えた。
「母は特別養護老人ホームに入れて一切を任せます。亡くなった時は来ますが、それ以外ではもう呼ばないでください。」
藤野は特に驚かなかった。
親が必死に育てて子でも、無機質な大人になることもある。大切な親でも、自分の家庭の方が大切と思う人も多い。悲しい話だが、珍しい話でもなかった。
それ以来息子は施設に一切を任せてせつに会わないようになった。再発を発見した時も息子は病院に来なかった。せつの調子が悪くなり時々入院することもあったが、やはり来なかった。メロンを送ることも、手紙を書くこともなくなった。
認知症の病勢は進行していき、医療者のことはすぐに忘れてしまうようになった。手術をした藤野の顔もすぐに忘れてしまう。
さらには頑固さも強くなり、病院食の好き嫌いが激しくなり食事量も減ってしまった。
藤野は看護師達と頭を悩ませていたが、ある日病院食にメロンがでた。せつはメロンだけでなく、他のメニューも半分以上食べた。次の日のいつも通りの病院食はまた食べなくなったが、メロンがでればせつは食べた。
藤野達はメロンが組み込まれたメニューなら食べることを理解し、入院中は中二日でメロンを出すようにした。食事量も安定したため藤野は安心していた。
しかししばらくすると藤野はせつの異変に気がついた。
せつはメロンが食事にでると、息子が送ってきたというようになった。藤野も最初は気にとめることもなかった。数日してメロンが再び出ると、今度はせつが暴れるようになった。今回の西條の時のように、息子が送ったメロンがないと騒ぐようになった。
認知症の患者の大抵に当てはまることだが、真実を説明することが解決につながるわけではない。せつも同じで、メロンが病院食として出ているものだと説明しても、全く信じなかった。メロンを返せと看護師や周りの患者に怒鳴り散らしては、薬で気分を落ち着かせる日が続いた。
メロンが出なければ食事を食べず衰弱してしまうし、メロンが出れば大暴れしてしまう。
そんな八方塞がりの時、藤野は行動にでた。
藤野はメロンが出る前日の夜に、せつが寝た後せつの部屋の冷蔵庫に自分で買ってきたメロンをひそませた。
次の日、せつはいつも通りメロンを食べた後、冷蔵庫を探すとメロンがそこにあった。
「そうだそうだ、冷やしておこうと思って冷蔵庫にいれたんだった。最近はぼけがすすんで嫌だねえ。」
そういってせつは安心して一日を終えた。藤野達はハイタッチをして喜んだ。
だが喜びもつかの間、次の日にはまた違う問題が起きた。
せつは藤野が買ってきたメロンを看護師に投げつけてきた。
「人の冷蔵庫に勝手にものを入れるんじゃないよバカタレ。」
藤野は入院中メロンをそのまませつの冷蔵庫に入れておこう思っていた。しかし甘かった。次の日にはせつはメロンのことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
結果的に、せつの入院中は週二回メロンを冷蔵庫に忍ばせる習慣となった。
藤野の説明を聞いた西條はやや不服そうであった。
「じゃあなんで今日は私がせつさんにあんなに怒られないといけないんですか。」
「昨日夜忙しくてメロンを仕込むの忘れてたんだよ。朝気がついたんだけど時すでに遅し。だから西條先生にあの恐怖を一回は味わってほしくてね。ごめんごめん。」
藤野は笑いをこらえながら謝った。
「最低です。本当に心臓止まるかと思いましたよ。」
西條は両手で顔を隠して、机に突っ伏した。
藤野は西條の肩を叩きながら、苦労を労った。
そして藤野は嬉しそうに西條に言った。
「よしこれで今日から西條先生がメロン当番だ。」
藤野は西條を指差し、西條を指名した。
「え、私ですか。」
西條は顔を上げ、自分を指差した。
「そうだよ。君はこの病棟で一番新人なんだから。ねえみんな。」
藤野は周りにいた看護師に声をかけてナースステーションを去っていった。
周りにいたおばちゃん看護師達も急に西條の元に集まってきた。
「いやあ、西條先生ありがとね。私達も手伝いたいんだけど、メロンって高いじゃない。私達の安月給じゃあしんどくて。だから先生宜しくね。」
彼女達はきゃっきゃと騒いで、西條から離れていった。
西條はぽつんと一人残り項垂れていた。
それから二日後、メロンの日の前日がやってきた。
西條は近くのスーパーでメロンを一球あらかじめ買っていた。自分が食べるわけでもなく、ましてせつが食べるわけでもないメロン。それなのに西條はできるだけ良いメロンを選ぼうとして、背伸びした少し高めのメロンを買った。産地にもこだわって北海道産のメロンに決めた。
深夜、西條はせつの部屋をこっそり訪れた。
ゆっくりと病室の扉を開け、中を覗いた。せつは窓のほうを向いてベッドで横になっていた。
西條はチャンスに思い、身をかがめながら忍び足でベッドの手前側にある冷蔵庫に近づいた。音を立てず、ゆっくりと。外は大雨で、部屋の中の音も多少かき消されていると西條は信じていた。
西條が冷蔵庫に手を伸ばした時、突然せつが寝がえりをうって西條の方向を向いた
先日の鬼の形相のせつが頭によぎった。
西條はとっさに腕を後ろに回し、メロンを背中に方に隠した。血圧が急上昇したのを感じた。心臓の鼓動を感じる。
こちらを向いたせつは何も言葉を発しなかった。
西條はじっと動かず、せつの出方を窺った。
最初は暗くて顔が見えなかったが、暗闇に目が慣れてせつの顔が見えた。
せつは目をあけて泣いていた。静かに涙を零していた。
「せつさん?」
西條は思い切ってせつに声をかけてみた。
「ああ、先生。どうしたのこんな夜中に。」
せつは落ち着いた声で返事をした。自分を認識していることから、今は比較的落ち着いているのだろうと西條は判断した。
「夜の回診というか。せつさんのことが心配で、大丈夫かなって思って覗いたんです。」
「私は大丈夫よ。ここの病院の人が優しくしてくれるからね。」
「でも今泣いてましたよね。」
「そうね。でも身体は今そんなにつらくないの。本当よ。だけどね、やっぱり人間孤独には勝てないものね。死ぬときは誰だって一人なんだからと思っていたけど。」
せつは消え入りそうな声で西條に言った。
せつの右手に、写真が握られていることに西條は気がついた。
せつは西條の視線に気がつき、小さく笑いながら話し始めた。
「この写真は息子の中学生の頃の写真。」
せつは西條に写真をみせた。リーゼントに学ランという昔の不良そのもののような青年とドレスアップした水商売風のお姉さんが立っていた。よく見ると青年の顔は青黒く腫れあがっていた。
「息子は中学生の頃いわゆる不良だったの。息子が小学生の頃旦那を亡くして、私もなんとかお金を稼がないといけなかったから昼はスーパーでパートして、夜はスナックで働いてたの。こんなの言い訳だけど、時間がなくて息子にかまってあげられなかった。多分それが原因で息子は、ぐれちゃったんだと思う。」
せつの説明でそこの写真に写っているのが、せつとせつの息子であることに気がついた。
写真の二人はよく見ると服装もボロボロだったが、はじけるような笑顔を見せていた。
「その写真を撮った日、息子が隣の中学の子と喧嘩して、警察沙汰になったの。私は夜スナックの仕事を抜け出して警察署まで迎えに行った。息子は全身痣だらけで。私は担当していた警察官の人にひたすら謝った。
『親がしっかりしつけしてないからこういうことになるんですよ。あなた、こんな夜中にそんな派手な格好して。』
警察官は私の姿をじろじろみて冷笑しながら言ったわ。私はスナックで働いて、途中抜け出してきた旨を伝えた。そしたら、
『ああ、だからですか。親が水商売していれば、子供がこんな不良になるのも頷ける。あなた達の家庭内の問題を外に持ち出すのはやめてくださいね。』
警察官は書類を書きながら、私達に吐き捨てるように言った。私は悔しかったけど、それでも謝った。その時ね、息子が立ち上がって警察官に言ったんです。
『母さんを悪く言うんじゃねえよ。こんな俺を頑張って育てるために必死に朝から夜まで働いているんだよ。そんなことも大人なのにわからねえのか。』
その後は警察官と息子の取っ組み合いでね。収拾するのに本当に大変だった。でも嬉しかった。
『俺不良やめた。真面目に生きて母さんをはやく楽にする。』
そう言ってくれてね。それはその後私が働いているスナックに連れて行って撮ったの記念写真。」
せつは嬉しそうに説明してくれた。
「いい写真ですね。」
西條はせつに写真を返して言った。
「だから私は息子がどこにいても真面目に仕事をしてくれているだけで私は幸せなの。」
せつは思い出すように噛みしめながら話した。
「いい息子さんなんですね。」
「そうね。私には勿体ないくらい。」
せつは涙を拭いて、優しく笑った。
こんなに優しく笑える人なんだ。西條もつられて笑みを浮かべた。
「うっ。」
せつは急に胸を押さえながら、苦しみ始めた。
「大丈夫ですか。」
西條は床にメロンを置いて、せつに急いで近づいた。
「大丈夫よ。たまに呼吸が苦しくなるの。でもこうやってさすって入ればそのうち良くなるから。」
せつは自分で胸をさすりながら、浅い呼吸を繰り返した。
西條はせつの目をみて、思いついたようにエコーを病室に持ってきた。せつの胸にエコーをあてて、西條はため息をついた。
西條はメロンを冷蔵庫に置いて、部屋をでた。
翌日も雨は相変わらず降り続き、このまま梅雨に突入してしまうのではないかと思われた。
藤野は回診のためナースステーションに訪れた。藤野は固定電話のある机に突っ伏して寝ている西條を見つけた。
藤野はゆっくり西條の背後に近づき、思いっきり背中を叩いた。
「きゃあ!」
西條は飛びおき、椅子から落ちて尻餅をついた。藤野はお腹をかかえて笑った。
「なにするんですか。」
お尻をさすりながら、藤野を見上げた。
「お前がなにしてんだよ。どうしてこんなとこで寝てるんだ?」
「あっ。せつさん。」
西條は勢いよく立ち上がった。
「せつさんの息子さんに今日来院してもらうように電話してたんです。どうしても会ってほしくて。」
「電話してたって、いつから。」
「昨日の夜からです。」
「昨日の夜からって、えっ、朝までぶっ通しで電話してたのか。」
「はい。」
「西條先生。それはさすがに息子さんに失礼だよ。普通のサラリーマンがそんなことされたら、怒鳴り込んできてもおかしくないよ。」
「それならそれでいいです。病院に来てもらえるなら。」
西條が真剣に破天荒な発言をするから、藤野は呆れかえるしかなかった。
「なんでそんな今日にこだわるんだ。相手にも都合があるし、予定を合わせてきてもらえばいいじゃないか。それとも、今日来ないとまずい理由でも。」
藤野は頭を掻きながら、西條に尋ねた。
西條は少し間をおいてはっきりした声で答えた。
「せつさんはPE(急性肺塞栓症)で亡くなります。それはおそらく今日です。」
西條は予言のように藤野に伝えた。
藤野は落ちついた声で返した。
「もちろんその可能性はある。左大腿静脈に転移した腫瘍によるDVT(深部静脈血栓症)があることは前から知ってるし、だからこそ抗凝固薬も処方している。それ以上の治療はせつさんが望んでないからできない。息子さんにも説明はしている。せつさんも息子さんも、もう死ぬ覚悟はできているんだ。そのうえで息子さんは死んだら呼んでくれと言っているんだ。」
「それは私達医療者が納得しているだけ。もう話したから大丈夫だと。でも、どんな覚悟があっても孤独に死にゆくことは怖いものですよ。だからせつさんには亡くなる前に息子さんに会ってほしいの。」
西條は必死に藤野に訴えた。
「朝あったけど、せつさんはいつも通りだったよ。仕事を休んで急いできてもらう根拠には乏しいと思うけど。まあそれでも、そろそろ一度あってもらうのは賛成だから、手術終わったら俺からまた電話しておくよ。」
藤野は妥協案を提案し、西條に丁寧に説明した。
「それじゃ遅いんです。」
西條は珍しく、大きな声を出して机を叩いた。そしてもどかしそうにして下を向いた。
藤野が西條に近づき肩に手をおいた。西條はその手を払いのけ、固定電話の前に再び座り電話をかけ始めた。
手術の時間が近づき、藤野はもうなにも言わずに手術室に向かった。
二件目の直腸癌の腹腔鏡手術も吻合が終わり、藤野は今日も何事もなく手術が終了できたことに安堵していた。
順調にいった後には悪いことがおきる。これは世の心理であり藤野の信じていることだった。
PHSが鳴った。藤野ら術者は清潔区域にいるので、外回りのオペナースにでてもらった。
「藤野先生にお電話です。大森せつさんという患者さんが、急変しているそうです。今は西條先生が対応しているので手術が終わり次第きてくださいとのことです。」
「えっ。」
藤野は驚きを隠せなかった。せつが急変していることにではなく、西條の朝の行動に驚いたのだ。
西條はまるでせつの急変を予期していたかのように、必死に息子に電話をかけていた。偶然にしては、あまりにも出来すぎているように藤野には思えた。
腹腔鏡操作が終わり、藤野はあとの閉創作業を佐々木と研修医にお願いしてせつの元に急いで向かった。
病室の前に着くと、西條が扉の前で立っていた。
「どんな感じ。」
藤野は息を切らせながら訊いた。
「PE(急性肺塞栓症)による急性呼吸不全でした。CTでも以前からある左鼠径部のリンパ節転移が左大腿静脈を圧迫していてそこに血栓ができていました。それが肺動脈に飛んだんだと思います。挿管しないと救命は難しいけど、本人も家族も救命行為はもともと望んでない方だから。であれば、このまま看取る形になると思います。」
西條は必要な検査を一通り済ませ、藤野に説明した。
「ありがとう。残念だけど、西條先生の言う通りこのまま看取りになるな。」
「はい。」
西條は悔しそうな顔をした。
「朝かけていた息子さんは、電話つながったの?」
藤野は西條に尋ねた。
西條は力なく首を横に振った。
「朝から何回も電話したんですが、電話にでてくれなくて。留守電も残しましたが、来院されるかはわかりません。老健の施設の方はきてくださっているんですが。」
「そうか。頑張ってくれたんだね。ありがとう。」
藤野はそう言って、病室に入った。
せつは酸素マスクとモニターを付けられ、目を閉じたまま浅くて苦しそうな呼吸を続けていた。
隣では施設のスタッフの中年女性がせつの手を心配そうに握っていた。
「せつさん。わかります。」
藤野がせつに声をかけるが、反応はなかった。
「せつさん、ずっと苦しそうなんです。なんとかしてあげれないですか。」
「さすがに苦しそうだ。モルヒネを使ってあげた方が呼吸は楽になるだろうな。」
緩和治療として呼吸苦にモルヒネを使うことはよくあることだ。しかし状態が悪い人に使えば呼吸抑制で死期を早めることにもなる。そうなれば生きて息子と会える可能性も下がってしまう。
「先生、もうせつさんを楽にしてあげてください。」
施設の女性は今にも泣きそうな顔をしていた。
「西條先生。モルヒネを準備してください。」
藤野は決意した。
苦しいまま最期を迎えるのはあまりに酷だった。せつが息子と会えないのは残念ではあるが、誰しもが望む最期を迎えられるわけではない。
それは藤野が良く分かっていた。
西條は頷き、病室をでた。しかし、西條は扉を開けたまま病室の外で廊下を見ていた。
「藤野先生!息子さん来ました!」
西條は大声で病室にいる藤野に言った。
すると引っ越しの作業着を着た大柄な男が病室に飛び込んできた。男は走ってきたからか、両手を膝につき唾をのんだ。
男は息を整えてから藤野と西條に頭を下げた。
「大森せつの息子の大森幸太郎です。遅くなってすいませんでした。」
「幸太郎さん。せつさんはもう長くはもちません。最期に声をかけてあげてください。」
藤野は優しい声で幸太郎に促した。
幸太郎はゆっくりせつのもとに近づき、しゃがみこんだ。
「母さん、俺だよ。幸太郎だよ。わかるか。」
幸太郎は一言一言丁寧に話しかけた。
せつは意味をなさない声を出していた。
「俺ずっと母さんに嘘をついてたんだ。それ謝らないといけないと思って、今日来たんだ。少し聞いてくれるか。」
幸太郎はせつの手を握り、自信の身の上をせつに話し始めた。
「俺は一昨年まで北海道にいてメロンの開発をしてたんだ。慣れない土地で、しかも農作業なんてやったことなかったからすごい大変だった。それでもやりがいがあったから何とか続けられた。五年前に開発を始めてから三年経った時、初めて品質にも自信が持てたし、コストも無理を言う会社の設定を何とかクリアしたんだ。あの時は嬉しかったな。」
「でも、その後北海道で震災があったんだ。震度7の地震で、大きな被害を道内でだした。俺らスタッフはなんとか無事だったけど、海沿いにあった俺らのメロンのビニールハウスは全滅。メロン栽培に必要な設備も使えなくなった。だから俺らは東京になんの手柄もなく帰るしかなかった。」
「本社の皆は暖かく迎えてくれたよ。命があって良かったって。でも、傾きかけた会社が必死の思いでだしたメロン開発が失敗に終わり、会社が完全に潰れたんだ。」
「今俺、フリーターなんだよ。この年で再就職先も見つからなくて、バイトして食いつないでる。こんな状態で母さんにあうのが恥ずかしかった。女手一つで育ててくれた結果が、こんなみすぼらしい姿の男になんだって言えなかった。ごめん。ごめんよ。」
幸太郎は涙を流しながらせつに謝った。
その時、せつの口から途切れ途切れに言葉が放たれた。
「幸太郎、、、が作ったメロン、、、美味しいよ。こんな、、、美味しいメロン、、、食べたことない。」
せつは必死に息を整えながら話した。幸太郎も必死にその言葉を聞いていた。
「やっぱり幸太郎は自慢の息子だね。」
せつは消え入りそうな声で呟いた。その顔はとても安心した顔をしていた。
モニター上の脈拍を示す波形がフラットになった。アラームの音だけが静かな病室に響いた。。
「母さん。」
幸太郎は、動かなくなったせつの顔に両手をあて、声を上げて泣いた。
せつは母としての最期の役目を果たして亡くなった。
霊柩車にせつを乗せて、藤野と西條と看護師長は幸太郎とせつを見送りに出た。
外は朝の大雨が嘘のように晴天となっていた。
「本当にお世話になりました。」
幸太郎の顔はどこかすっきりしていた。
「急なお呼び出しだった上に、大変失礼なことを言ってしまいました。申し訳ありませんでした。」
西條は深くお辞儀した。
「いえいえ、気にしないでください。西條先生の大量の留守電のお陰で、最後母に会いにくることができました。本当に感謝しかないです。ありがとうございました。」
幸太郎は西條以上に深く頭を下げた。
「これからどうするんですか。」
藤野は幸太郎に尋ねた。
「実は、前の会社の仲間ともう一回メロンの開発をしようと思ってるんです。みんなやっぱり悔しかったみたいで。」
「それはいいですね。あんなに食事にうるさかったせつさんが、メロンだけは唯一美味しそうに食べていました。せつさんも喜びます。」
藤野は冗談を交えて幸太郎に言った。
「藤野先生、せつさんに失礼ですよ。」
西條が釘をさすように言った。
幸太郎は嬉しそうに笑った。
「ははっ。いいですよ。もしメロンできたら、こちらに送らせてもらってもいいですか。母がお世話になった方に、是非食べてほしいんです。」
幸太郎の目は強く輝いていた。西條は写真でみた中学生の幸太郎の笑顔を思い出した。
「お待ちしています。」
西條は笑顔で幸太郎に言った。
「それでは失礼します。」
幸太郎は霊柩車の助手席に乗り、病院を出ていった。
藤野と西條は、霊柩車が見えなくなるまで深くお辞儀をした。
二人が顔を上げた時には、大きな虹が空に向かってかかっていた。
最後の役目を終えたせつは、天に引っ張られていったのではない。
自分で虹を歩いて天国に行ったのだろうと、藤野は確信していた。
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