賽の河原

犬飼 圭

症例① 「藤野 圭太」

 周囲は霧で覆われていて、空も見えなかった。見える範囲では俺しか人はいなかった。

 足元には大小の石が無数に転がっており、目の前には急流の川が広がっていた。

対岸は霧で見えない。しばらく川沿いに歩いていると子供が一人座りこんでいた。後ろから見ると小学生くらいだろうか。

 俺は子供に近づいた。スポーツ刈りの少年であることがわかった。

少年の前には河原の石が器用に一個ずつ積まれていた。大きい石を土台にして、頂点にむかって少しずつ小さい石になるように積んでいた。

 少年は震える手でゆっくりと積み上げていた。

「上手に積んでるね。」

 俺は少年に後ろから声をかけた。

 少年はびくっして、その振動で石の塔が音を立てて倒れていった。

 申し訳ないことをしてしまった。

「ごめんね。せっかく頑張って積んでたのに。」

 俺は少年の後ろ姿に謝った。

 少年は振り向き、座ったまま俺を見上げた。

「えっ。」

 俺は小さく声をだして固まった。

 そこにいたのは、俺だった。小さい頃の俺。

 少年はひどく怯えた顔をした。

「ごめんなさい。」

 少年は消え入りそうな声でぽつりと言った。


 藤野は朝六時のアラームで起きた。

 週に一回は見る不可解な夢は、習慣の様になっていて特段気にすることもなくなったが、子供の自分が泣きそうになっているのはあまりいい気分にはならない。

 冷たい水道水をグラスにいれて、ソファに腰を下ろしテレビをつけた。朝の情報番組でテレビ局の新入社員がインタビューをうけていた。

「小さい頃からテレビ局で働くことが夢だったので、今日は本当に幸せな日です。」

 可愛らしい女性社員が、まぶしい笑顔を向けてハキハキと答えていた。

「これからの夢はなんですか。」

 取材にでていた熱血で有名な男性アナウンサーが女性社員に訊いた。

「多くの視聴者が笑顔になれる番組を作れるようなディレクターになることです。」

 女性社員から模範解答が返ってきた。

 ハチマキを巻いた男性アナウンサーは、女性社員と熱い握手を交わしてカメラをスタジオに返した。

 毎年のように、ありきたりなやり取りがこの四月一日に報道される。

 藤野はテレビの電源を消し、グラスの中の水道水を一口胃の中に流し込み、一息ついた。

 静岡の水道水は変わることなく美味しい。特別美味しい時もないが、不味い時もない。

 柿田川が、仕事前の憂鬱な藤野に唯一元気をくれる。

 藤野は柿田川に感謝してグラスの水を一気に飲み切り、出勤の準備をした。

 五分程度で準備は終わり、二階にあるアパートの部屋から出た。藤野の職場は、家から歩いて十分程度坂を登った所にある龍明総合病院であった。総病床数八百床の総合病院で、一九四八年に発足してから改築工事を繰り返してつぎはぎ病院になりながらも、同じ場所に二〇一八年現在も健在している。

 病院に着いた藤野はいつものルートを通って、入り組んだ院内を進み男子更衣室に着いた。私服からスクラブと白衣に着がえ、サンダルでロッカーを出た。藤野はこの格好が好きだった。常に清潔なスクラブと白衣が更衣室にはおいてあり、それを何も考えずとって着るだけ。スーツのように首回りが詰まることもなければ、ベルトでお腹が締め付けられることもない。革靴のように足が締まることもない。つまり清潔かつ楽なのだ。

 医局に着くと、個人デスクが横並びに何列もある。藤野の席はウォーターサーバーが最も近い窓側にある。端にあるのはいいが、ウォーターサーバーがあることで、人が自分の席の近くを頻回に通ることを藤野は嫌がった。

そして今日もその被害を被った。

 同僚の消化器内科の江藤進が藤野に気がついて声をかけてきた。

「おっいたいた。問題児の藤野先生。」

 江藤はニヤニヤしながら藤野に近づいた。

「なんだよ。こんなに真面目に働いている俺のどこが問題児なんだよ。」

「その様子だと。だいぶやらかしてますね。」

「だから、何がだよ。」

「一昨日お前がラパロ(腹腔鏡)でローアンテ(低位前方切除術)した直腸癌のおじいちゃん、リーク(吻合不全)で今緊急手術してるよ。」

江藤はウォーターサーバーからコップに水を入れながら言った。

「えっ!まじかよ!」

 藤野はスマホを白衣から取り出した。

 電源が切れている。藤野は頭を抱えながら、昨日疲労で充電せずそのままベッドに横になったことを思い出した。

 次に藤野が思いついたことは手術をやっているメンバーだった。

 今、龍明総合病院の消化器外科医は三人で藤野と佐々木副部長と奥田部長であった。あとは研修医の男の子が一人ローテーションで来ている。

 簡単な引き算だ。この四人から藤野を抜いた三人で手術をしている。

 まずい。藤野は冷や汗が止まらない。

 今年還暦を迎える部長が朝早くから手術にはいり、一番下っ端で執刀医だった自分が家で寝ていたとなれば何を言われるか分からない。

 藤野は想像しただけで鳥肌がたった。

「お前がいないから、代わりに、、、」

 江藤が言い終わる前に、藤野は医局を飛び出し手術室に向かった。

 手術室のロッカーで急いで手術着に着替えて、手術室モニターを覗いた。定時の手術をやっている時間ではないため、灯りがついて手術している部屋が緊急手術の部屋だ。

 手術室八番。患者は挿管されていたが、幸いまだ患者にサージカルドレープはかかっていなかった。藤野はふうと息を整えた。

 藤野は早足で手術室の廊下を歩き、手術室八番に入った。

「すいません遅くなりました。スマホの充電がきれてて。」

 言い訳とともに入室すると、手術室内のスタッフの視線が藤野に集中した。

 麻酔科医師だけが視線をかえず、患者の口から挿管チューブを丁度抜いた。

「えっ」

 藤野は眉間に皺をよせて抜管を見ていた。

 藤野がその場に立ち尽くし、そしてあることに気がついた。

「手術は終わりましたよ。」

 横から聞き覚えのない声がした。

 そこには見たことのない女医が腕を組んで立っていた。サージカルマスクとキャップのため目元しか分からず、年齢のあてはつけられなかった。ただ美人であることは間違いないと藤野は確信していた。

 彼女の目はひどく非難めいたものだった。

「あっ。えーとどちら様ですかね。」

 藤野は頭を掻きながら周りのスタッフに助けを求めた。

「今日大学から当科に赴任した西條真奈美先生ですよ。」

 後ろから声が聞こえ、入ってきたのは奥田部長であった。

 藤野は手で目を覆った。やはり奥田部長を駆り出してしまっていた。

「奥田先生。すいませんでした。」

 藤野はすかさず奥田部長の前にでて頭を下げた。

 奥田部長は藤野が所属する消化器外科の部長であり、今年で六〇歳と還暦を迎える。

 背は藤野と比べると低く、穏やかな顔つきの人であるが、存在感は他を圧倒するものがある。

 それは外科医としての修羅場をくぐってきた経験によるものだろう。

「いやいや、不幸中の幸いでしたよ。藤野先生に電話がかからないと病棟の看護師から私の方に電話がかかってきてね。話を聞くと術後の患者が冷汗でるほど腹痛を訴えているというじゃないですか。だから見に行ったらすでに彼女が駆けつけていてね。もろもろ検査をすませてリークの診断をつけてくれていましたよ。だから、そのまま手術もやってもらいました。なかなかいい腕前でしたよ。」

 奥田部長は満足気に話した。この部下に対する丁寧語が、行間を多量に含み藤野にプレッシャーを与える。

「ありがとうございます。」

 西條が笑みを浮かべて、軽く頭を下げた。 

 藤野は西條のもとに歩みより、彼女の視線に負けないように笑顔を向けた。

「西條先生。初めまして藤野圭太と言います。今年で医師十二年目になります。赴任初日なのにすいません。助かりました。」

 藤野は握手のつもりで右手を出した。

「西條です。」

 西條は表情を崩さず腕を組んだまま、名前を言った。

 藤野は話が弾まず、重い空気をなんとか和らげたかった。

 藤野はまだ寝ている患者のお腹を見た。下腹部正中切開が綺麗に閉創されていた。

 だが、そのお腹にはあるべきものがなかった。

「この方人工肛門造設しなかったんですね。ステロイドも内服してるし再度リークを起こす可能性もありそうだけど、大学では最近あまり人工肛門置かないんですか。」

藤野は患者に目をむけたまま西條訊いた。

患者は関節リウマチでステロイドを長期内服しており、ステロイドは吻合不全のリスクを高める。さらに一度リークした腸管は炎症で弱っているため吻合は難しい。吻合するにしても人工肛門造設して吻合部分に便が通らなくしておくのは一般的な手法であった。これは事実であり、発言に悪気はなかった。

しかし藤野の選んだ話題は逆効果であった。

「吻合不全にはならない自信があったからやったんです。悪いですか。」

 西條は棘のある言い方をわざとした。

「いやいや悪くないですよ。よほど自信がおありで。」

 藤野は飄々とした態度で受け流した。

「私が執刀したんです。だからリークはない。」

 西條は眉一つ変えず言ってのけた。

「じゃあもしリークしたら、どうします。なにか賭けますか?」

「患者で賭け事なんかするわけないでしょ。あなたそれでも医者ですか。」

「さっきも十二年医者やってるって言いましたよ。これでもいち外科医です。」

「はあ。あなたみたいな人が手術すると、こうやって患者が不利益を被ります。患者に申し訳ないと思わないんですか。」

「思ってるさ。それでも合併症は一定の割合で起きる。どんな名医でも。」

「私は一度もない。」

「はあ?」

「一度も。そう一度もない。あなたとは違うの。」

 そんなことあるわけないだろう。

 藤野はそう言おうとしたところで、麻酔科医師からストップがかかった。

「患者さん、麻酔からもう覚めてるんですけど。」

 麻酔科医師が呆れて二人に言った。

「すいません。」

 藤野と西條は口を揃えていった。

「では私は一旦これで失礼するよ。術後管理は藤野先生と西條先生一緒にお願いします。」

 奥田部長は気まずい二人を残して、手術室から出ていった。いつもの悪い顔をしていた。

 その後ストレッチャーに患者を載せて、藤野と西條はSICU(外科集中治療室)に入った。

「さっきは色々言ったけど、この患者の急変に対応してくれたことは本当に感謝してる。術後管理はあとやっておくから、先生は引き継いだ患者把握とか、病棟挨拶とかしてて大丈夫だから。」

「いえ、自分が手術した患者なので私もみます。」

 藤野はこの上なく面倒に感じた。ただでさえ忙しい病院なのに、自分のペースを乱すやつがいたら終わるはずの仕事も終わらない。

「いや、本当に大丈夫だから。」

 藤野はなるべく心を静めて言った。

「手術しっぱなしは嫌なんです。」

 西條も全く退かない。

「じゃあ俺は他の担当患者を回診してくるから、その間に術後指示とかお願いしてもいいかな。」

 藤野は先に折れて、ベッドサイドから離れようとした。

 西條は藤野の白衣を掴み、引っ張った。

「赴任したばかりでカルテの使い方がまだ分からないので、一人ではできません。藤野先生もいてください。」

 藤野はため息より重い空気を吐き出した。


「なんなんだ、あいつは。確かに俺が悪いよ。俺が悪いけど、初対面であんなズバズバ斬りこんでくるかね。俺先輩だよ。」

 藤野は後ろの席の江藤に毒づいた。

 藤野と江藤の席は窓側で、お互い隣の席はいなかった。

「まあまあ。で、何歳なの、その美人外科医は。」

 江藤は希少な女性消化器外科医に興味津々だった。

「いや、年齢は訊かなかったな。」

 藤野は椅子を逆に座って、背もたれに顎をのっけた。

「じゃあ後輩がどうかなんてわかんないだろ。」

「いや、あの尖った感じ。そして信念を持ってる感じ。絶対三十代前半だよ。」

「でた、藤野予想。意外と当たるからなーこれが。」

 江藤と藤野は帝東大学医学部の同期で、その時からつるんでいた。部活も同じ硬式 テニス部で、さらにダブルスを組んでいた。適度な熱量で部活をしていた藤野とは違 い、江藤は大学生活のすべてをテニスに捧げていたため医学生にも関わらずシングルスインカレ三位と驚異的な成績を残していた。

 大学を卒業して、研修医になって違う病院で働くようになっても良く飲みに行っていた。

 藤野が三年前にこの病院に赴任してから、江藤とまた一緒に働くようになった。ここまで長い付き合いの友人は江藤くらいだ。

「でも、決めつけはよくないぜ。ウェルテスも言っているからな。初対戦の相手は観察が大切だってな。」

 江藤が机からウェルテスの本を取り出して見せてきた。

 また始まったよ。藤野は苦笑した。

 江藤はテニス界のレジェンドプレーヤー、ロンドン・ウェルテスを尊敬していた。          ウェルテスは現在世界ランキング一位のテニスプレーヤーで、ついこの間も全豪オー プンで優勝していた。加えてウェルテスは誰に対しても紳士であった。その実力と人間性から爆発的な人気を誇っており、多くのファンを魅了している。

熱狂的なファンの一人である江藤は事あるごとにウェルテスの言葉を拝借していた。   すべての事象はウェルテスに繋がっているかのように。

「いや、絶対あいつは良家のお嬢さんで今まで叱られたことがなく育ったんだ。多少顔も整ってるからな。だからあんなに自信満々で、人の事を見下せるんだな。典型的な女医だよ。」

 藤野は回転式の椅子をぐるぐる回しながら、愚痴を吐いた。

 回る椅子から中央の廊下の方に、こちらを見ている女性が見えた。回るのを止めて改めて見たところ、西條であった。

西條はこちらに近づいてくる。

「普段からそうやって大して話したことのない人の事を悪く言っているんですか。」

 西條は段ボールを藤野の隣に置いた。

「こんな強烈な人がきたら、話題にもなるよ。てか、なんで隣に荷物置いてるの。」

 藤野は西條に言った。

「残念なことに、ここが私の席なんですよ。」

 西條は藤野の方を見向きもせず、段ボールから医学書を取り出し整頓し始めた。

 青春漫画じゃないんだから、勘弁してくれ。藤野は息苦しさを感じずにはいられなかった。

「初めまして。藤野の同期の江藤と言います。消化器内科医をやっています。もし内視鏡治療が必要な人がいたら、連絡ください。」

 江藤は立ちあがり、普段は猫背なのに背筋をぴんと伸ばして笑顔を作っていた。

「初めまして消化器外科医の西條です。こちらこそ宜しくお願いします。内科外科が協力しあって初めて良い医療ができます。お互い頑張りましょう。」

 西條は、笑顔を作ってはきはきと挨拶をした。

 江藤は明らかにニヤニヤしていた。

 黒いストレートヘア、広い額、高い鼻、猫目、すらっとした高身長。

 江藤のストライクな容姿であるのは間違いない。

「藤野さんとは仲良いんですか?」

 西條は藤野の方をみて、江藤に訊いた。

「いやいや仲いいなんて御冗談を。こんなちゃらんぽらん。ただの大学の同級生ですよ。」

 江藤の手のひら返しは気持ち良いほどだった。

「そうですよね。江藤さんのような丁寧な人が、こんなふざけた人と友達なんてありえないですよね。」

「そうですよ。ささ、こんなところじゃなんですから。院内を案内しますよ。あ、ここの食堂汚いんですけど、ラーメンだけは絶品なんですよ。ところで、西條先生はロンドン・ウェルテス知ってます?知らない?ロンドン・ウェルテスはね…」

江藤は西條を連れて席を離れていった。

 一日でこんなに嫌われるのも才能だなと藤野は思った。


 藤野は昼からの予定手術に奥田部長と入った。胃前庭部癌に対する腹腔鏡下幽門側胃切除術であった。藤野が執刀医、奥野部長が助手、研修医の男の子が腹腔鏡のカメラ持ちであった。

 腹腔鏡の手術は基本三人組でやることが多い。消化器外科医がこの病院は少ないことからカメラは研修医に持ってもらい、一人は病棟や他科からのコンサルト対応などをして業務を回りしていた。

「藤野先生やっと後輩が入ってきましたね。良かったじゃないですか。」

 奥田部長は閉腹している藤野にニヤニヤしながら話しかけてきた。手術が順調に終わり、奥田部長は上機嫌であった。

「まだ聞いてませんでしたけど、彼女何年目なんですか。」

藤野は奥田部長に尋ねた。

「たしか八年目だったと思いますよ。となると三十二歳ですか。若いですねぇ。」

「後輩からあんなに罵声を浴びたことはないですよ。」

「なかなか面白い子です。」

奥田部長は完全に面白がっていた。

「まあそれでも人が増えたことは良かったです。本当に忙しすぎて身体がちぎれるかと思いましたよ。」

 藤野はこれまで再三にわたり人を増やしてほしいと奥田部長には切実に訴えてきたが、聞き流されてきた。

「そうでしょう。私は人のギリギリを見極めるのが得意なんです。」

 自慢することじゃないだろう。

藤野にはマスクの上からでもニタニタ笑う奥田部長の顔がイメージできた。

「それにしても、大学病院もなんでこのタイミングでやっと人を送ってきたんでしょうか。送るならもっと早く送ってほしかったですね。」

「なんだ藤野先生聞いてないんですか?西條先生は教授と喧嘩してとばされてきたんですよ。」

 少し戸惑ったが、藤野はテンポよく腹直筋の筋膜を縫っていった。

 奥田部長も止まることなく藤野が縫った糸を慣れた手つきで結紮して閉腹していった。

「初耳ですね。何が原因だったんですか。」

「さあ。詳しくは知りませんが。ただ、教授の研究の方針に関してかなり揉めたのが原因と噂で聞きましたよ。」

「、、、なんと。」

 めまいがする。

 大学病院では教授は絶対的な存在であり、教授の命令は絶対であった。そんな教授の指示に背くような人は、協調性に欠けている尖った人間に違いない。

 せっかく来た助け船が泥船であった気分だったのに、加えてそこに盗賊が乗っていて急に襲われた気持ちに藤野はなった。

 藤野の頭の中で渦がまく。

 教授と揉める女医。ただでさえ気の強い女医は苦手なのに、そんなに我が強いとは。

 忙しい環境は、心の余裕を殺す。余裕がないと人は攻撃性を増す。

 こんな場所に、そんな人を送ってくる大学は何を考えているのだろう。本丸が大丈夫なら外堀はどうなってもいいのか。

 沈んだ気持ちとは裏腹に藤野と奥田部長の閉創のキャッチボールはスムーズに進んでいった。

「ちゃんと指導お願いしますね。藤野先生。」

 奥田部長はそういって最後の一本を結び終え、すぐさまガウンを脱いでオペ室を出ていった。

 この表皮を閉じるところから、患者が退院するところまですべて藤野の担当となる。

 藤野がステープラーで表皮を閉じて、手術終了となった。

 藤野がサージカルドレープを剥がすと、四時間ぶりに患者の顔をみた。

また一人無事に手術が終わった。良かった。

 藤野は目を閉じた。

 石がまた一つ積まれた。


 各々が夕方の回診を終えた後、奥田部長は藤野と西條と副部長の佐々木をカンファレンス室に集め、改めて西條を紹介した。

 佐々木は三〇人くらい入りそうな部屋なのに、ドアに一番近い後ろの席で静かに座っていた。

 天然パーマに丸眼鏡という風貌でありながらも、整った顔とモデル顔負けなスタイルでファンも少なくない。ただファンといっても、誰も仕事以外のことを話したことがない。藤野でさえプライベートのことを訊いたことはない。

「初めまして西條真奈美です。今年で医者八年目になります。この病院はとても忙しいと聞いていますので、早く慣れて戦力になりたいと思います。」

 西條はとても丁寧な口調ではあるが、芯のある話し方だ。ただ、藤野には猫を被っているようにしか見えなかった。

「西條先生のようなやる気に満ち溢れた先生が当科にきてくれて非常に嬉しいよ。大学ではいろいろあったかもしれないけど、ここでは思う存分腕を揮ってください。」

 奥田部長は本当に余計なことを言う。少しジャブをうって相手の反応を窺うのは奥田部長の常套手段であった。

 藤野はそろりと彼女の方をみると、両手で顔を覆っていた。肩が震えている。

 男性陣はぎょっとした。

まさか泣いているのか。パワハラで訴えるとかいいだしても、こいつならおかしくない。

 カンファレンス室が静まった。藤野は嵐が来るのに備えた。

 西條は左手を外し、右手で口を覆った。彼女は笑っていた。

「やっぱり先生方のところにも、あの話届いていましたか。すいませんご心配をおかけして。教授とやりあう女医なんで扱いづらいですよね。」

「いやいやそんなことないよ。自分の意見を持つことはすごく大切なことです。意見をぶつけ合うことも必要でしょう。」

 奥田部長は一気に守りに入った。

「そうですね。でもさすがにビンタしたのはやりすぎだったと反省しています。医者たるもの暴力はだめですよね。ふふっ。」

 西條の笑いは止まらなかった。

 西條が笑っている中、男性陣は固まっていた。

「藤野先生が病棟業務や手術室のこと全部知ってるから、よく教わっておいてください。」

 奥田部長は話を切り替え、藤野に話をふった。

 西條は藤野に敵意むき出しの視線を送っていた。 

「藤野先生、ご指導宜しくお願いします。」

 人にものを頼む時、こんなに怖い顔をする人が他にいるだろうか。

 藤野は天を仰いだ。部屋の天井が思っていたより低いことに気がついた。

 

 今日は手術も無事に終わり病棟も落ち着いていたため、急遽西條の歓迎会を近くの居酒屋で開くこととなった。

 佐々木は病棟番に立候補したため、病院に残った。佐々木は飲み会が苦手でこの手の会は全部断っていた。

 藤野が龍明総合病院にきて三年間佐々木と一緒に働いているが、佐々木のプライベートはベールに包まれている。

 前に病棟のお調子者看護師が、佐々木の身に着けている結婚指輪に気付き奥様のことを面白がって訊いた時があった。

 佐々木はその質問を全部無視し、その場を去ったそうだ。

 そんな話があってから病棟では、佐々木にプライベートの話をすることはタブーとなっていた。

 結果的に奥田部長、西條、藤野、飲み会好きな数名の病棟のおばちゃん看護師で歓迎会をすることとなった。

 場所はいつもお決まりの“夜更かし”という居酒屋であった。

 ここの店主は部長が十年以上前に胃癌手術してからの付き合いで、いつも奥田コースというお得な裏コースメニューを出してくれる。

 味はそこそこだが財布に優しく、特に病院に近いことから、結局“夜更かし”を使ってしまう。

 藤野と道の分からない西條は時間を合わせて病院を出ることとした。

 予定時間になっても西條は待ち合わせた職員出口に顔を見せなかった。藤野はスマホを取り出し西條に連絡を取ろうとしたが、諦めてポケットにしまった。藤野と西條は連絡先を交換していないため、スマホで連絡を取り合うこともできなかった。

 待ち合わせ時間から一〇分すぎた頃、西條が姿をみせた。

「お待たせしました。」

 西條の声が、廊下の方から聞こえた。彼女は息が上がっていた。

「職員出口分かりづらかったでしょ。この病院複雑だから。」

「余裕をもって出たんですけどね。」

「最初は俺もそうだったから。じゃ、行こうか。」

「怒らないんですか。」

 西條は息を整えて言った。

「なんで怒らないといけないの。」

「だって遅刻したし。」

「さっきも言っただろ。この病院は改築を繰り返してすごく複雑な構造になっているんだよ。だから、初見の人が道に迷うなんて珍しくないし、仕方がないことなんだよ。」

 西條は納得できない顔をしていた。

「それに、それだけ息を上がってるってことは急いできたんでしょ。ならそれで充分でしょ。」

 藤野は病院の玄関に向かって歩き始めた。

「甘いんですね。」

 西條は後ろからついて歩いた。

「心が広いんだよ。」

 藤野は胸を手で叩いた。

 藤野と西條は店に向かって歩き始めた。

 藤野は改めて彼女の私服を見た。白のブラウスに黒のパンツ、ベージュのヒールととてもシンプルなものだった。しかしシンプルな服装が彼女のスマートな雰囲気を強調していて良く似合っていた。

 左腕には今ビジネスマンの間で人気なスマートウォッチをしていた。

「それ今流行ってるスマートウォッチだよね。俺も欲しいと思ってたんだよね。」

 藤野は興奮して、西條の左腕をとってスマートウォッチを眺めた。

「ちょっと。」

「これスライドすると、いろんなアプリ出てくるんだよね。」

 藤野は画面をスライドした。

『4221:34:26』『4221:34:25』『4221:34:24』

 白い数字の列が、黒い背景に映し出されており、一つずつ減っていた。

「触らないで!」

 西條は藤野と手で押し飛ばした。

 西條は時計を隠すように右手で押さえていた。

「ごめん。ちょうどほしかった奴だから興奮しちゃって。ごめん」

 藤野はひどく動揺した西條をみて驚き、謝った。

「いや取り乱してすいません。」

 西條は乱れた髪を直して言った。

「大切なものなんだね。」

「はい。」

 西條は小さくつぶやいた。

 藤野はそれ以上時計の事を訊けなかった。

 二人とも無言のまま“夜更かし”に到着した。

 すでに藤野と西條以外は席に着いて乾杯の準備をしていた。二人もビールを追加注文して、全員で乾杯をした。

 歓迎会も中盤になり、おばちゃん看護師達も酔ってきた盛り上がりを見せていた。

「西條先生。西條先生は結婚してるの?」

おばちゃんの一人が西條に質問をした。

「結婚してませんよ。」

「そしたら彼氏さんは?」

「今はいません。」

「あら。こんな綺麗で素敵な女性なのに。やっぱりお仕事が忙しいから。」

「いえいえ。」

「じゃあ藤野先生なんてどう。この人、外見はぱっとしないし頼りなくみえるけど、意外とちゃんとしてるのよ。」

「今野さん。いいんですよ。俺の話は。西條先生の話してるんだから。」

「へえ。そうなんですねー。どうしっかりしてるんですか。」

 西條は挑戦的な目で藤野を見ていった。 

「一昨年、この町の繁華街で無差別殺傷事件が起きたの。知ってる?二十三歳の男が、夜の賑わう繁華街で包丁をもって暴れたの。十四人が重軽傷を負った惨劇だった。」

「ニュースで見たことがあります。帝東大学附属病院の関連病院のここ龍明総合病院に全員搬送されたとか。」

 西條は思い出しながら言った。

 テレビでも全国放送されていて、西條は朝のニュース番組で見たのを覚えていた。

「そう。周りに病院があれば複数の病院に分散して搬送されるんだけど、見ての通りここは周りに病院が全くないの。その時外科当直していたのが、藤野先生。」

「藤野先生が全員分のトリアージをして、必要な科の先生を全員電話で招集したの。十年目医師なのに、各科の熟練医師達に指示をだしてさ。普通はそんな若手から深夜起こされてあれこれ命令されたら反発を買うものよ。でも、彼はそうじゃなかった。普段から愛されるキャラクターと適格な指示が見事なチーム医療を築きあげたの。そのおかげで大事件だったにも関わらず、死者は出なかったわ。」

 おばちゃんたちは口々に藤野の功績を褒め称えた。

「やめてくださいよ、恥ずかしいな。」

 藤野は恥ずかしさでむず痒い気持ちになった。

「いいじゃないの。実際に大活躍だったんだから。ねえ。」

「あの時テレビとか沢山きて大変だったよね。私なんか取材受けちゃって。」

 おばちゃん達の会話がいつの間にか、テレビのカメラ映りの良し悪しの話になっていた。

 藤野は転々とする話の流れについていけず、トイレに行った。用を足して、トイレから出ると、トイレの前の廊下に西條が待っていた。

「女子トイレは空いてますけど。」

藤野は警戒しながら西條に言った。

「知ってます。」

西條はトーンを変えずに言った。

「ああ、そうですか。」

 藤野は西條の横を通り大部屋に戻ろうとした。

「今日はごめんなさい。あなたに色々言ってしまって。」

 西條は頭を下げた。

「急にどうしたの。気味悪いよ。」

藤野は驚いて少しひいた。

「さっきの事件の話、無責任な人にはできない行動よ。それに院内のスタッフから信頼されている証拠。朝の電話がつながらない件も部長に聞きました。ここ最近患者が増えて、本当に寝る間も惜しんで働いていたようですね。だから奥田部長は私が来ていることを知って、あなたを寝かせたままにしたそうですよ。」

 藤野はここ最近馬車馬のように働いた。

三十六歳という年齢でも、この三人しかいない消化器外科では一番下っ端であり、書類などの雑務から病棟管理は全部自分がこなしている状態であった。

 そもそもこの仕事には定時がない。二四時間三六五日患者に何かあれば、藤野が呼ばれるシステムなのだから、ずっと働いているようなものだ。

体が三つあっても足りない。このままでは患者より先に自分が朽ちてしまう。

藤野はそう感じながらも、四月一日から新しく一人赴任してくると聞いてなんとか三月を乗り越えた。そしてその乗り越えた反動で、四月一日今日スマホ充電ミスが起きてしまった。

 しかし、藤野はたしかに不思議に思っていた。本当に藤野が必要なら、奥田部長なら家まできて叩き起こしにきたはずだった。だがそうはならなかった。奥田部長の配慮だったようだ。

 本当にギリギリまで働かせるのがうまい人だ。藤野はそう思った。

「あなたのこと少し勘違いしてた。だから謝ったの。」

 西條は再び頭を下げた。

「いいですよ、そんなに謝らないで。俺も失礼なこと言ったし。トイレに用がないなら席に戻って乾杯し直そう。」

 藤野はそう言った。

「はい。」

 西條の頬はアルコールのためか赤くなり、目は今までになく優しい目になっていた。

 藤野は胸の高鳴りを感じたが、できるだけ表情には出さず西條と席に戻った。

 席に戻ると再びおばちゃん達が絡んできた。

「そういえば藤野先生。あの大活躍の後、違う病棟から怒鳴り込んできた若い看護師いたじゃない。あれ大丈夫だったの?『あの嘘つき藤野はどこ!』ってカンカンだったけど。あれは驚いたわねぇ」

「なにかしたんですか。」

 西條の目つきが変わった。

「いや何もしてないよ。その事件の時のことで話を聞いてみたいって言われたからちょっとご飯いっただけで。」

 藤野は頭の中で必死に話を組み立てた。

「『あのキスはなんだったの!』って病棟大騒ぎ。慣れない火遊びは禁物よ藤野先生。西條先生も言ってあげて。」

 おばちゃんたちは年甲斐もなくはしゃぎながら暴露していった。藤野は頭を抱えた。

「本当にそうですね、藤野先生。さっきの謝罪は撤回します。やっぱりあなたはちゃらんぽらんの無責任な人です。」

 西條は藤野の隣を離れて、おばちゃん看護師の集まりの中に入っていった。

「違うって。」

 藤野の声は誰も聞いていなかった。

 後ろから奥田部長がやってきて、ニヤニヤしながらおちょこに冷酒をついできた。

 藤野は注がれた冷酒を一気に喉に流し込んだ。

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