邂逅不穏Xデイ
大前提として、我々の言語にそれはない。もともと必要がないからこそなかったのだ。その淀みは我々を鈍らせ、完璧から遠ざける。
あなたは間違っている。あなたは間違い続けている。あなたは――。
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細長い葉っぱの上で身じろぐ青虫を注意深く観察しながら、ふと彼らにも思考はあるのだろうかとムサは思った。
ムサは四年前のクオンタムで”問う怪物”から繭区に住む人類の命題でもある《エキドナ殺し》を掲示され、特級の評価を得るために友人とこの問題に当たった。
ひとりで考えるだけでは思い至れないような経験を得てから、ムサはひとここちつく瞬間があるたびに考える。胸の奥にずっとしまっているそれは《エキドナ殺し》が起きた現場でもある博士の部屋に置かれ、長い間ずっと旧型のパソコンの中でデータとして保管されていた記録だ。
『00:00 00/00 全入局/全完了』
それは、この繭区でなにを意味するんだろうか。
あのスフィクスがわざわざ見せたものだ。理由がないわけがない。ただ具体的にこれが何に繋がっているのか、それは当時から分からないままだ。
”問う怪物”からクオンタムを出され続けている繭区の人間として、ムサは自身が失格なのではないだろうか。だけど友人はこうも言っていた。
「僕が模範的な繭区の人間なんてな……」
学校を卒業して以来、あのドーナツ好きの友人のその後をムサは知らない。が、両親伝手に聞いた話は意外なものだ。
「スフィクスが管理職か、……予想できなかったな」
管理職は、繭区で唯一仕事内容がはっきりしていない。噂話じゃ人工知能生命体の補助らしいけれどそれも本当かどうか分からない。しかしいくらムサがこの件を考えたところで、スフィクスが管理職である事実は間違いない。
実家のドーナツ屋に本人が顔を出した時にムサの両親にそう話したらしい。嘘をつく理由もない。いや嘘ならもっと簡単に信じてくれそうなものにするだろう。
「元気にしているといいけど」
零すムサの前をあの時願っていた青い蝶が横切る。何度目にしてもうつくしい光景だった。余韻を残すように、あるいは瞼の裏にもはっきりと描けるような。
「アルケ!」
そんな夢心地を同僚の大きな声が遮る。フロアの出入口を見ると、掃除用の機械を足元に数台走らせる同僚が口元に手を当て叫ぶ。
「お前に客がきてるぞ」
ムサは首をかしぎ、「誰とも約束はしていなかったけど」と声を張り上げて返す。同僚は蠅を払うような動作をし、「ここの掃除はしといてやるからさっさと行きな! 中央だぞ!」と言ってフロアの奥に入って行く。
壁の高いところにかかった時計を見る。ちょうどおやつ時だ。
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エレベーターに乗り込み、中央のフロアまで移動する。分厚い扉が開くと同時に、数多の植物の芳香が混じり何とも言えない青臭さが鼻を突いた。植えられた植物たちはこのフロアの衛兵職が手入れしたばかりなのだろう、無駄なところが一つもなく綺麗に咲き誇っている。
すると青い群生を興味深そうに見る人物がムサの視界に入った。ムサは目を細め、ようやく自身の客に合点がいった。
ゆっくりと近づき、「スフィクス」と四年ぶりに会う友人の名前を呼ぶ。
「学校を卒業して以来だな、ムサ」
大きな黒縁の眼鏡の奥にいる淀んだ水色の瞳は変わらずに、しかしその顔は最後に会ったあの時よりずいぶんと落ち着きを増しているように見える。
その片手には勝手知ったる実家のドーナツ屋の紙袋が握られている。
「ほんとうに、けど実家には顔を出してくれているんだろう? 父さんも母さんも喜んでいたよ」
「おじさんとおばさんが作るドーナツだけは卒業できなかったな」
「する気なんてある?」
スフィクスは両肩を軽く竦め、一歩先を歩き始める。当分卒業できそうもないな、両親の稼業的にはその方がいいんだろうけれど。
友人の背を追いかけ、彼の隣に並び立ちふと気付く。背が伸びてる! 僕なんて卒業式からずっと変わらないのに! 不公平だ!
ムサがじとっとした視線をスフィクスに投げるものの、彼はちっとも気付かずフロアの真ん中に建設されている噴水までやって来た。スフィクスは噴水前に設置されたベンチに腰を掛けると、僕に隣の席に座るように促した。言いたいことや聞きたいことはあったものの、とりあえず空いた場所に座る。
「ほら」
そう言われて目の前に出されたのは、赤と白のチョコレートがまんべんなくかかったドーナツと飲み物だ。
「いいの?」
「いいよ、腹減っただろ」
あのスフィクスが!
在学中には考えられなかった行動にムサは驚いた。言葉をなくしたまま実家のドーナツを一口食べると、甘酸っぱい味とさっくりした舌触りが口の中いっぱいに広がる。
疲れた体に染み渡る味だ。
――と、視線を感じた。
スフィクスはドーナツに口をつけず、僕のことをじっと見ている。
「もしかして食べちゃまずかった?」
「いや、そうじゃない。ずいぶん美味そうに食べるんだなと思っただけ」
「はは……、それきみが言う? 断言してあげてもいいけどアルケの家の僕より、お客の君の方がうちのドーナツを消費しているよ」
「そうだな」
らしくないことを言ったかと思うと、今度はあっさりとスフィクスは僕の言葉に納得した。みょうちきりんだ。
「それで用件は何だったの?」
「ああ、お前に頼みがあって来たんだ」
「頼み? きみが? 僕に?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。スフィクスは何をそんなに驚くんだと言いたげな目をしてるが、僕の記憶がたしかならこの友人からドーナツのこと以外で頼られたことなんて一度もない。疑うほうが筋ってものだ。
「ンン、いいかムサ。今までの記憶は消せ。そして改めて頼もうじゃないか」
どうしてか僕は四年前のクオンタムを思い出した。
クオンタム。それは繭区に生きる人類の命題。ここで生きていく限りずっと続く難題の数々。人類が人工知能生命体の母たる《エキドナ殺し》を成した瞬間より問われ続ける贖罪の証明。
「俺と一緒に《エキドナ殺し》を解いてくれないか」
スフィクスは。ムサが繭区で一番賢いと信じ疑わない友人は。
一度も見たことのない穏やかな笑みでそう僕に持ちかけた。けれど何故だろう。ムサは虫の予感を覚えた。とんでもなく嫌な予感。
その正体を凡人の僕がいち早く把握することはないのだけれど。
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