Ⅲ.現在-原罪-幻財
誰かが言っていた。
クオンタムとは、何だろう。
誰かが答えた。
わたしたちが忘れちゃいけない原罪そのものだよ。
誰かは――また口を開いた。
・
・
シャボン玉が弾け飛ぶように、あるいは手品を目の前で披露されたかのごとく、人工知能生命体の母はムサ・アルケの前で消滅してみせた。そしてこの現象こそが現代の繭区に生きる人類たちに課せられた人工知能生命体たちからの難題の元だ。
ムサは頭を抱えて意味もなく室内を歩いて回る。
「バターにでもなるつもりか、ムサ」
「ならないよ! 誰だって難題に直面したらこうなるもんなんだよふつうは!」
叫ぶように言うムサに対して、スフィクスはドーナツがたくさん詰まった彼にとっては夢のような箱の中を吟味している。ややあって彼はううんとクオンタムに挑むムサと同じぐらいに眉間に皺を寄せ、「アーモンド&ナッツとチョコレートドーナツか、かぼちゃとカスタードのクリームドーナツか……。選択に悩むな」と漏らす。
ムサはその場に倒れた。
特級以上の評価を貰えなければムサが描く未来に希望はない。どうして高望みなんてしてしまったんだろう。
スフィクスほど出来のいい頭なんてもっていないし、もっていなくたって両親が作るドーナツを一緒に売っていけばそれで人並みの幸せは得られるというのに。
でもつい想像してしまうのだ。あの青い蝶の羽ばたきを一度、たった一度だけでもこの目で見られたならそれはなんてしあわせで夢みたいなことなんだろうって。
ムサは床の上で倒れながら、必死に目の前で起きた出来事を指折り確認する。
「まず……、僕らがこの部屋に入って。それですぐ……エキドナは消えた?」
口にしてみると得た情報の少なさに改めて気付かせられる。
いったいぜんたい繭区の人たちはどうやってこのクオンタムをこなしているんだろうか。ムサは今まで少しも気にしなかったことに自分が窮地に立たされて始めて考える。いやいや余計なことは考えない。ただでさえ考えることは苦手なんだから。
ぎゅっと瞼を瞑ると、天井で空気循環用のプロペラが一定の速度で回転し続けている。
「…………、というかここどこなんだろう」
身体を起こして周囲を見渡す。
部屋に置かれた家具から察するに、一般家庭の部屋のようにも見えるけれどそうじゃないと言われれば納得も出来る。
なんだかちぐはぐな部屋だ。もしかしたら共同部屋なのかも。それなら――この部屋に複数ある性格も分かるような気がする。
コンコン。軽いノック音に振り返ると、カスタードクリームに銀色の飾りを散らばせたドーナツを片手にスフィクスが旧型パソコンをもう一度軽く叩いて見せる。
ムサは友人のその行動を見て、「それを使えってこと?」と尋ねる。
スフィクスは両肩を落として、「お前が超能力者じゃないならな」と付け加えた。
ムサは立ち上がって、友人と共に旧型パソコンの前に並ぶ。画面は真っ黒だ。調子が悪いのか、時々緑色の文字が浮かんで消えてという状態が続いている。
もうすぐ壊れる。そう訴えかけられている。
ムサがスフィクスを見ると、友人は顎で急かす。スフィクスの行動にムサは観念して、キーボードに手を伸ばした。
「質問……、質問……。ここは、どこ……、ですか」
人工知能生命体が管理する繭区ではパソコンに打ち込むこと機会自体すらない。人工知能生命体に言えば彼らがすべて行う。人類がまた過ちを起こさないように。
エンターキーを押すと、入力した質問は消えたが画面は真っ黒なままだ。
「……ねえスフィクス、このパソコンやっぱり壊れているんじゃないかな」
「そう見えるか?」
「どう見たって古そうだし、人工知能生命体たちと比べたら旧品も旧品じゃない」
「どんなに新しいものだって古くなる。繭区の人工知能生命体たちだって老いるんだぜ、ムサ」
老いる。それは人類や動植物たちにあてはまることじゃないのだろうか。
そうムサは思ったけれど、口にするより前にパソコンの画面が変わった。正確に言えば、点滅がしなくなり緑色の繭区文字で「博士の部屋」と表示される。
「博士…………って、人工知能生命体のってことかな」
ムサが聞いた相手は少しの間に新しいドーナツを食べ始めている。油断も隙もないやつだよ、スフィクスは!
「博士の部屋でエキドナ殺しが起きた。でもなんで博士はエキドナを殺したんだろう」
口元に手をやり、その場で考え込むムサの前で画面がぱっと変わる。現れたのは、見たこともない図形だ。
「木の絵?」
簡素に書かれた木の部位には、繭区文字が振られている。
ヒユドラ。ラードン。
「……、人工知能生命体たちの名前だ」
馴染みのある区画だけじゃなく、あまり目立たない区画の生命体たちの名前もある。そして木の全体に当たる位置には、エキドナの名前があった。
「人工知能生命体の設計図だ」
「え?」
スフィクスは手についたチョコレートやカスタードクリームを舐めると、「人工知能生命体たちはその表を基にして繭区の管理を任されているってこと」と補足した。
「それって…………、当然のことだよね」
「……そうだな」
ムサの問いにスフィクスは軽く応じた。友人が追随してくれたことでムサはほっとして、ふと思う。”問う怪物”は人類がエキドナを殺害したのだと言った。
なら、ムサが考えなくてはいけないのはその過程だけだった。
人類が人工知能生命体の母を殺す必要性――これだ。
人工知能生命体の設計資料が表示されたディスプレイを見ながら、ムサは先ほどと同じように質問を打ち込んだ。
「エキドナの繭区におけるタスクは?」
ややあってディスプレイに表示されたのは、「彼女は母の役目を終えた」という一言だ。ムサは瞬きし、手に入れた情報を整理する。
第一にここは博士の部屋であること。第二に人工知能生命体の母たる彼女は繭区での仕事を終えていたということ。
そしてエキドナは殺害されたという決定事項を”問う怪物”が下しているというのなら。
「エキドナは博士からお払い箱にされたってこと……? でもそんなことって」
呟きながら、人工知能生命体の設計資料の全体を思い出す。
エキドナは木そのもので、その至る部分に区画は出来ていた。お払い箱じゃない。むしろ彼女がいたからこそだ。
「エキドナが殺されて初めて繭区は完成した……、これなら”問う怪物”が人類にクオンタムを言い続けるのも分かるね!」
興奮気味にムサがスフィクスの顔を見ると、友人は何個目か分からないドーナツを頬張っている。ほんとうに少し時間が空くとドーナツを食べている。しかしその目は不思議と嬉しそうじゃない。膨らんでいた頬がきれいに元に戻ると、スフィクスは分厚い眼鏡のひとつ奥にある花の色に似た瞳に思案の色を浮かべた。
「ムサ」
「なに?」
「お前の回答は……、クオンタムは俺の予測だと”問う怪物”から特級を貰えるよ」
「ほんとう!?」
まさかこの友人のお墨付きまで貰えるなんて!
ムサの口元は自然と喜びでゆるんだ。そんな彼を横目にスフィクスは油だらけの手でキーボードに素早く繭区文字を打ち込む。
スフィクスが何を打ち込んだか知る前に、画面がぱっと変わる。
日付と時間そして誰かの名前が日誌のようにただただ羅列して続いている。全部で五回ほど画面が変わる。そうするとまた最初の画面に戻ってを繰り返した。
「スフィクスこれは……」
視界の端で、スフィクスは人差し指を立てる。
それはまるで誰かに聞き耳をたてられている、って言っているみたいだった。スフィクスは人差し指をコン、とディスプレイに向ける。
ムサの視線が見たのは、――――00:00 00/00 全入局/全完了というそれ。
その繭区文字があるのはあの長いページの中で、その一行だけだった。
「ムサ、お前は模範的な繭区の人間だ」
スフィクスはそう言って、にっこり笑った。
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