Ⅱ.アルケのドーナツ

 長閑な午後下がり。

 《春の河》沿いの通りに並ぶ住居の中でもひときわ甘い香りを漂わせる家がある。レトロチックな赤と白の軒先テントが出たその家からは老若男女様々な人たちが代わる代わる出入りする。

 彼らの共通点といえば――、甘い香りの元だろうドーナツの入った紙袋だろうか。

 店の名前はアルケ・アルケミイ。繭区でも指折りのドーナツ店であり、青髪と灰色の瞳そして太陽に焼けた肌を設定された一家だ。

 店内ではこの家の夫婦だろうか、揃いのエプロンを着た男女が彼らより年を召した女性客と楽し気に会話している。彼らの話題は目下このアルケの家のひとり息子の話だった。

「ムサは小さいころからのんびりしていたけれど、大きくなったらすこしは自分でちゃんと出来るようになるかと思っていたの。でも全然。寝ぐせはついたままだし、食べこぼしでシャツが汚れていることもいつものことだし……」

「ふふふ、かわいいものじゃない」

「でもいつかは独り立ちしないといけませんからね。贅沢を言うつもりはありませんが、手先は器用だから”問う怪物”にも長所を生かした就職先を勧めてもらえたらな」

「手先となるとやっぱり衛兵職かしら。だとすると”問う怪物”からの精神調査がいくつもあるって聞くけれど」

 女性客が頬に手を当てそう返すと、夫婦は阿吽の呼吸とでも言うように片手を何度も横に振った。「ないない」と。

「衛兵職なんてうちのムサじゃ天変地異でも起きない限りありません」

「そうね、もし就職先に選ばれたら私たちが”問う怪物”に長文を送らないといけないわ。繭区全体の管理職をムサに任せたんじゃきっと半日も経たない内に壊滅させます、って」

「それは困るわねえ」

 はははと大人たちが談笑する中、話の渦中にあるムサ・アルケは顔を真っ赤にして肩をわななかせた。彼の隣には課題を手伝ってくれることになったスフィクスが顔を後ろに向けている。

「父さん母さん、ただいま! フンさんいらっしゃいませ!」

 堪えきれず、ムサは自分の存在を気付かせるために大声を出した。

「あらムサ、おかえりなさい」

「こんにちは、ムサ。今日も元気ね」

 しかし両親も馴染み客も何食わぬ顔で対応する。ムサは破顔したが、「おもしろい顔ね」と母親に言われてもうこれ以上何かを言うのを止めた。代わりに腹を抱えてひいひいと引き攣った笑い声を出している友だちを指して、「上で勉強するから」と伝える。

「スフィクスが先生になってくれるのか、そりゃ勉強代を弾まないとな」

 家族の中でもひときわ濃い灰色の瞳をもつ父親がスフィクスに対してウィンクを投げると、すこしばかり落ち着いた友だちは耳ざとく尋ねる。

「新作はあります?」

「あるある。揚げたてを見繕って持って行ってあげよう」

「やった、ありがとうございますおじさん」

 先に上へあがろうとするムサに母親が耳打ちする。

「ムサ、あなたは何を食べる?」

「いつものでいいよ」

「分かったわ、飲み物は自分たちで持って上がってね」

 こくりと頷いて、遅れて来たスフィクスに二階の自分の部屋へ上がるように言ってムサは一階の居住区のほうへ移動する。細長い黄色のポットに庭で採取した植物で調合したお茶と牛乳を注ぎ、はちみつも加えて混ぜる。軽く味見する。まあまあの味だ。すこし甘味が足りない気もするけど、スフィクスはドーナツを何個も食べるだろうしこのままでいいだろう。カップを二つ重ねてムサは二階の自室へ向かう。

 頭の中で両親と馴染み客の会話がぐるぐると回っている。それに加えて《エキドナ殺し》のこともある。相乗効果とは恐るべきものだったし、ムサは家族たちに卒業がかかったこの時期に《エキドナ殺し》を課題に出された話をした瞬間、その場が凍る自信すらあった。 

 両親がドーナツを揚げられないくらいにショックを受けたらどうしよう。笑い話も出来ないかもしれない。うんうん悩んでいると、あっという間に自室の前だった。

 天井からはとげとげの形をした照明が吊られ、部屋の惨状を明るみに出している。惨状といっても今朝がた寝坊しかけたムサが自分で荒らしたのだが。

 ムサは友だちが棒立ちになっていることを良いことに、ぐちゃぐちゃのままになった毛布やあちこちに鎮座するクッションを拾い集めた。

 ついでに崩れかけている本を積み直して、ようやく彼は友だちに声をかけた。

「スフィクス、飲み物持ってきたよ」

 しかし友だちは何の反応もなく、壁にかけたムサ手作りの標本たちを見ている。手先が器用なムサの唯一の胸を誇って人前に出せるものだ。

 気になる種類がいるのかも。一瞬そう考えたが、スフィクスのことだ。繭区に生存する昆虫の種類なんて網羅しているだろう。なら何がスフィクスの思考を停止させているんだろう。 

 ムサは首沿傾げ、「スフィクス」ともう一度名前を呼ぶ。するとスフィクスの手がぴくりと動き、彼はようやく振り返った。

「悪い、呼んだ?」

「まあ。なにかあった?」

 尋ねると、スフィクスは部屋の壁にかけた標本を指さした。

「ずいぶん増えたなと思ってな」

「整理したほうなんだけどね。さすがに昔のはつたないし奥の収納に片づけたよ」

「学校に提供でもしたら評価が上がると思うけどな」

「専門の人たちがいるよ」

 断って、ムサは課題へ取り掛かるべく机を引っ張り出し、周りにはクッションを何個か置いて腰を落ち着けられる環境を整えた。持ってきたカップに飲み物を注ぐ間もスフィクスの視線は標本へそそがれている。

「そんなに気になるかなあ」

 僕は思わずそう零した。

「今にも動きそうだからな」

「針で刺してるのに?」

「瞬間を止めているみたいじゃないか」

「生きてはいないよ」

「そう思わせるくらいのものはあるよ。おべっかとかじゃなくて」

 ようやくスフィクスは標本の前から離れて、ムサが作ったクッションの海に腰を下ろした。

「そんなに気に入ったならなにか作ろうか? ドーナツとは別に今回のお礼として」

 いらないよ。そう言われればすぐに引き下がるつもりだった。しかし予想を外してスフィクスは眼鏡越しの目を丸くし、「ラッキー」と明るい声でいう。

「なら身に着けられるものがいいな。出来る?」

「…………出来るのは出来るけど小さいよ。それに昆虫はちょっと難しいかも。植物でもいいかな」

「植物にも手を出したのか」

「まだあんまり自信はないんだけどね」

「いいさ、ムサが作ることに変わりはないのなら」

 この友だちにしては、らしくない買い被りだ。

「なら、約束だね。……それで何から始めたらようか?」

 スフィクスは手慣れた様子で、「ヒユドラに情報を集めて貰ってる」と答えた。

 ヒユドラ。別名はたしか、一あるいは百の動く書物庫。繭区の情報はどんな些細なものも一度はここに流れ、分類されて該当の場所におさめられる。

「《エキドナ》殺しが対象だとヒユドラ大変じゃないかな」

「人工知能生命体を心配するのはお前くらいだよムサ。生半可の質問じゃ”問う怪物”もヒユドラもそうそう参ったなんて音を上げたりしないから安心しろ」

「やけに自信があるんだね」

「未遂事件の時にやったからな」

 ムサは目をしばたたかせ、未遂事件とスフィクスの言葉を繰り返す。ここ最近、未遂事件と名前の付く事件があっただろうか。しばし考えてムサの記憶に新しいのは、四年前に起きたラードンが管轄する生命区画への侵入未遂事件だ。

 ”問う怪物”が繭区内の人たちへ一斉に事件の解明とこんなことが起きることへの反省を何度も促していた。そして”問う怪物”が半日もしない内に沈黙した。反省を促す”問う怪物”の声に恐怖を感じたムサが両親にどうしたらいいのか聞きに行く頃には、繭区内の誰かが”問う怪物”へ事件の概要、そして解決方法の提案まで終わらせていた。

「まさかきみなの!?」

「何が?」

 スフィクスがカップのお茶に口をつけながら聞き返す。

「ラードンの未遂事件の解決だよ!」

「解決っていうほどか、あれ。ラードンは最後まで認めなかったけど、あの未遂事件が起きた理由は区画内の監視センサーとモニターが古くて誤作動が起きていたからなんだ」

「……ってことは、ラードンの勘違い?」

「人類的に言えば。だから衛生兵の強化と区画の設備の入れ替えを提案したんだよ」

「でも原因をどうやって調べたの? ラードンって”問う怪物”と同じかちょっと下くらいに厳しいし頑固だったでしょ。そんなに簡単にミスが見つかると思わないんだけど」

 スフィクスはカップを机に置いて、「ためになる話をしよう」と前置く。

「人工知能生命体はうっかりしやすい」

「…………、うっそだぁ」

「ほんとう。というか疑ってないんだな」

「何を?」

「間違いや失敗の原因が自分にあるかもしれない、ってこと」

「それは……だって人工知能生命体だし。それに彼らみんな完璧だからこそ、人工知能生命体の統治下で僕らは繭区でこうして生活出来ているじゃないか」

「……、まあ覚えておいて損はない。結局、未遂事件の時の原因の調べ方もラードンが衛生兵に操作させたがらない部分、設備にあるんだろうなとは思っていたんだ。だから区画内の出入りを調べ上げてみたけど、あの区画ほんとうに人がいないんだな。驚いたさ、よくあれでああも騒げるもんだって」

「しょうがないよ、生命区画なんだから」

 ムサが返すとスフィクスは鼻で笑った。まるで人工知能生命体を恐れない友だちにムサは苦い表情を浮かべる。だってほんとうに”問う怪物”が怖かったのだ。

 ただこのことに人類が文句をいう権利がないこともムサはもう理解している。

 人類は繭区に閉ざされ”問う怪物”が監視する社会の中で生きている。そしてその少し前に人類は過ちを犯した。その過ちこそ、《エキドナ殺し》だ。

 ”問う怪物”をはじめとした繭区の人工知能生命体から人類に対する管理は手厚く冷ややかだ。未熟たる人類に反省を促そう。そんな標語が彼らの間で流行っていたらしい痕跡があるという。

 本当かどうか分からない。しかしありえないともいえない。

 それがまかり通るのがこの繭区なのだから。

「ムサ、ドーナツを持って来たわ」

 ムサの母親のはずんだ声に意識が浮き上がる。

「ありがとう」

 立ち上がって母親からドーナツが並ぶ箱を受け取る。定番の商品から見たことがないものもちらほらとある。スフィクス相手だとしてもちょっと大盤振る舞いだ。

 顔を上げて母親を見ると、ムサの目に相手はなんだかとても上機嫌に映った。

「なにかいいことあった?」

「ええ、だってスフィクスが課題を見てくれるんでしょう。大助かりよ」

 母親はふふと笑って、そわそわしてるスフィクスに「たくさん食べてね」と告げてまた階下に戻って行く。

 ムサは部屋の中へ戻り、机に箱を置くとスフィクスがドーナツを真剣な表情で見る。

「どれから食べよう」

「どれでもいいんじゃない」

「順番は必要だ」

 そう言ってあれこれとドーナツを吟味するスフィクスを横目にムサは友だちが言った言葉を思い出していた。

――人工知能生命体はうっかりしやすい。

 本当だったら、《エキドナ殺し》もなにかの間違いだったりするんだろうか。……いや、そんなことはないか。

 それにしてもだ。この繭区で《エキドナ殺し》は人類に課せられた人生を通しての課題であることが一般的なはずなのに、スフィクスはどうして一度こっきりなんだろう。

 スフィクスが”問う怪物”にどう回答したのか、卒業したら聞いてもいいかな。

「ラードンよりスフィクスへ贈り物です。ラードンよりスフィクスへ贈り物です」

 岩のようにかたそうな電子音声にスフィクスは一瞬嫌そうな顔をして、「ムサ・アルケへ同じ贈り物を」と指示する。

 すぐにラードンからムサへ音声が入る。ムサは早速ラードンが送付した情報をひらいた。

「――繭区創成時に時間を合わせますか」

「へ?」

「あわひぇへいいっひょ」

「え、え」

 慌てるムサの後ろでスフィクスが勝手に話を進めていく。

「歓迎します、ムサ。歓迎します、スフィクス。繭区へようこそ」

 どの人工知能生命体のものでもない声が頭に響く。視界が白い。思考すらも潰されそうなほどのその色に目をつむり、ふたたび開けた時――――。

 そこは知らない空間だった。ただそばにドーナツがたくさん入った箱を手放さない友だちがいた。その図々しいまでの食い意地に安堵したのも刹那。

 女性がこちらを見ていた。

 真珠色の髪。鮮烈な赤き瞳。石膏のように白い肌。長い手足と幾層にも重ねられた柔らかな洋服を纏った女性が。

 瞳を丸くして、こちらを見ている。

――標本みたい。

 そうムサは思った。

「ごきげんようエキドナ」

 友だちの言葉にムサは驚きで女性から視線を外した。

「これが?」

「そう、人工知能生命体の母であり繭区の元総合人工知能生命体エキドナだ」

 まるで知人を紹介するような軽さでスフィクスはムサに話す。

「この人が」

「あ、ムサ。危ないぞ」

「え?」

 スフィクスに手を引っ張られ、ムサの体が後ろへよろめく。

 一瞬、気を取られたその瞬間にエキドナはその空間から消えていた。

「あれ……?」

 辺りを見渡すも彼女の姿はない。たまらずムサは経験者たるスフィクスに駆け寄った。

「ねえスフィクス、エキドナは?」

「いないよ」

「いないって、どこかに移動したってこと?」

「そうじゃない」

 スフィクスは早くも二個目のドーナツへ手を伸ばし、赤いベリーソースのかかったチョコレートドーナツの穴からムサを覗き見た。

「これが《エキドナ殺し》。人工知能生命体の母親殺しはたった今、完ぺきに遂行されたんだ」

 言ってスフィクスはドーナツに齧りつき、「さ、”問う怪物”を黙らせてくれ」と当時の人工知能生命体よろしく難題を投げた。

 ムサは誰もいなくなった空間を見る。

 回転する空気循環用のプロペラ。青い壁紙。どこにでもあるようなソファ。几帳面に筆者順に並べられているらしい本棚にはいくつか穴がある。壁にかかった見知らぬ風景の絵。ぱんぱんに膨らんだファイルケースが山積みになり崩れそうな机とその上で低い唸り声をあげる旧式のコンピュータ。それからムサが特級以上を取ることを決意したあの青い蝶の標本がなぜか床に転がっている。

 エキドナは殺された。たった今。いやもう三分くらい経っているかもしれない。誰に殺された。人類にだ。どうして殺された。どうやって殺された。

 助け船を求め見た友だちはアルケのドーナツに舌鼓している。ムサは頭をかきむしった。

 ……こんなの、……こんなのっ!

「解けっこない!」

 人類の一人は白旗を上げた。

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