クオンタム

ロセ

Ⅰ.いとしき貴方

 いとしき貴方。

 わたしとわたしの子どもたちを傷つけたりしないで。

 わたしとわたしの子どもたちのことばに耳を傾けて。

 なによりあなた自身を守ることを止めないで。

 そしてどうか証明して、わたしに愛があるということを。


 

  ・

  ・

 

『出席番号5番ムサには、《エキドナ殺し》についての報告を求めます。提出期限は来週の月曜日。なお、この報告は現状の成績から特級の評価が求められています。よい報告を期待しています。出席番号5番ムサ……』

 ムサ・アルケは学友たちが個別に与えられた課題を涼しい顔でもくもくとこなす中、ひとり机の上に突っ伏した。

 彼の現状を考えれば、それは無理もない。

 ムサの通う学校は学年が七年生まであるものの、六年生の冬を迎えた成績はお世辞にも芳しいものとは言い難かった。両親はもとより一緒に住んでいる祖父母でさえ、ムサのマイペースな性格を理解してか、期待をかけるようなそぶりを見せない。

 が、最低限の就職先を得るためにも、そこそこの成績は残しておかないといけない。

 だからこそムサなりにこつこつと日頃の課題に取り組んできた。しかし"問う怪物"から出題される成績へ直結されるような課題に対して、ムサは自身でうまくやったと思えるような結果をこれまでに一度も出せたことがないのもまた事実だ。

「うぅ……、どうしよう。よりによって《エキドナ殺し》なんて」

 周囲の学友たちから白い目で見られたり、状況を察した者からは哀れに思われたのか手持ちの菓子を机の端に置かれる中、ムサは自身の世界に浸ってぶつぶつと独り言のように呟くことしか出来ない。

 願っていた市立の植物園への就職ももはや夢幻かもしれない。

 涙で光沢のある机を濡らしていると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。チョコレートのかおり。

 べしょべしょに濡れた顔を上げると、大きな黒縁の眼鏡をかけ片手にはチョコレートがたっぷりとかかったドーナツを食べている柴色の髪の毛の男の子がいる。

「スフィクス」

 名前を呼ぶと、友だちはピースサインを作ってこたえ首を傾げた。

「どうしてそうひどい顔をしているんだ?」

「いろいろとあって……」

「ふぅん」

 スフィクスはムサを椅子から立ち上がらせ、帰り支度をするように促すと、ハンカチで手についた油汚れをふき取る。

「ドーナツが切れてさ、お店に寄る間に話だけ聞いてやろうか?」

「たぶんスフィクスでも無理だよ」

 友だちは一瞬固まったかと思うと、眼鏡の蔓を押し上げて「おもしろい冗談だな」と笑った。

 ”問う怪物”を恐れたことすらないと豪語する友人の癖に、ムサは少しだけ。ほんとうに少しだけ緊張が解けた。



 《春の河》と名付けられ、淡い桃色の水が流れる河が真横にある通りを歩きながらムサは何度も溜息を吐いた。その隣で自身の状況を洗いざらい説明し、無口になった友人を横目に見る。

 スフィクスは頭を働かせているのか、それとも単に彼のエネルギー源であるドーナツが切れているせいで押し黙っているのか判別しづらい。

「ねえ、スフィクス」

 声をかけても返事すらない。ムサは長い溜息をついて肩にかけた鞄のひもをおまもりのようにぎゅっと握る。

 スフィクスをはじめて知ったのは学校に通い始めてからだ。”問う怪物”に優秀な回答を出し続けている生徒がいると。そんな化け物じみた噂を聞いた時、ムサはほんとうに他人事のようにすごい子がいるんだなあと思ったものだった。

 友だちになるとは微塵も想像していなかった。

 しかも友だちになれた理由というのも、スフィクスがムサの両親が作るドーナツの大ファンだということがきっかけだ。

 だからスフィクスがムサ自身と友だちというのには少し語弊がある。スフィクスが懇意になりたいのは彼を虜にしたドーナツのレシピを握る両親であって、ムサ自身じゃない。悲しいけれどもこれってとっても現実だ。

「《エキドナ殺し》は何度目になるんだ」

 不意打ちを突かれて、ムサはぱちくりと瞬いて指折り数える。ムサが七歳の頃の誕生日によりによって出題された記憶が印象的だったけれど、母親の話では五歳の頃に”問う怪物”と長話をしていたとも言っていたから三度目じゃないだろうか。

「たぶん三回目。スフィクスは?」

「一度聞かれてそれっきり」

 ムサはスフィクスを穴が開くほどに見た。友だちはその視線に気付いてか気付かずにか、すたすたと先を歩いていく。置いてけぼりを食らったムサは先を行く友だちを追いかけ、「本当に本当に一回だけなの」と食い下がった。

「本当だって」

「いいなぁ……。でも《エキドナ殺し》って何度も聞かれる人がほとんどだって僕聞いたことがあるよ」

「らしいな。でもまあ俺の回答は変わらないし、”問う怪物”もあれっきりこの話しようとしないのは何度も同じやり取りしなくて済むからラッキーだな」

 それって真相に近いってことなんじゃないの。

 ムサは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲んだ。この友だちにそれを言うことを躊躇われた。いい意味でスフィクスは裏表がないし、相手がムサであろうとそれこそ”問う怪物”相手であろうと自分の回答を捻じ曲げるなんてことはしないから、考えに考えた結果をそのまま伝えるだろう。

 それは決して悪いことじゃない。いいことのはずだ。

 でもときどき、ほんとうにときどきムサはそれがひどく危ないことのように感じる。その理屈を説明することはムサには出来ないのだけども。

「ムサはどの辺りを目指しているんだ」

 聞かれて、スフィクスが指すものを考えた。

「成績のこと? それとも回答をどういう風に答えるかってこと?」

「どれも違う。就職先のこと」

「ああ……。笑わないで欲しいんだけど、ほんとうは繭区の動植物園の学芸員になりたいんだ」

「なかなか激務だぜ、あそこ」

 こくりと小さく頷いて、「でも青い蝶を管理しているのあそこだけだから」と亀みたいに首をすくめる。

「繭区か……、だとしたら特級以上が必要じゃないか」

「特級以上!?」

 素っ頓狂な声を上げるムサに当たり前だろうとスフィクスは返す。

「区管理のやつはそういう成績の人たちがザラだって聞くし、ムサの成績はいつもアーモンドクッキーみたいにぼろぼろだっておばさんもおじさんもおばあちゃんだって言ってる」

「うっ」

 秘密が簡単に外に漏れてる! アルケの家の人たちはおしゃべりすぎる!

 家に帰ったら抗議する準備をしておかないと。ムサが顔を真っ赤にする横で、スフィクスは冷静にとても冷静に告げる。

「なにも問題はない」

「え?」

「ムサ、お前が”問う怪物”を黙らせればいいだけだ」

 賢いこの友だちが出来てからムサは驚かされっぱなしだった。そして今日もまたあんぐりと口を開ける羽目になった。

「僕が? スフィクスなら出来ちゃうだろうけど」

「お前が出された課題なんだからムサ自身が黙らせないと意味ないだろ」

「そうだけど、僕ろくな評価貰えたことないんだよ」

「そこは……、俺が手を貸そうと思う」

「スフィクスが!?」

 ムサの肩からずるりと鞄が落ちそうになる。教室内の友だちとは何度か課題の手伝いをしたことがある。というより手先の器用さだけはみんなにも知られていたので、日頃の負債分をそこで消してもらったという形だ。

 だけどムサはスフィクスに借りはたくさんあっても、貸しはまったくもってない。ドーナツだけだ。ドーナツ利害関係。

「まさか母さんに僕の成績の面倒を任されたの?」

「いや、おばさんたちにそんなこと頼まれたことないよ。逆に一人息子のことを考えている間はうわの空になりやすくて、ドーナツに粉砂糖とかチョコレートとかシロップがたっぷりかかりやすくて俺はそっちのほうがいいんだけど」

「スフィクス!」

 現金な奴だ! ドーナツのことに関してだけ! 僕は実家のドーナツ以下!

 スフィクスはまあまあというように両手でなだめすかして、「たまにはいいかと思っただけだよ。どうせ卒業まで俺は暇だろうし」とまでいう。

 僕は今、卒業出来るかどうかの瀬戸際だというのに。

 ムサは涙目になって、「具体的にはどうするのさ」と半ばやけくそぎみに尋ねた。するとスフィクスの淀んだ水色の目がムサを捉えた。

「共同作戦だ、ムサ」

 一緒に《エキドナ殺し》を解くぞ。

 そう囁く友だちの顔は間違いなく、学校始まって以来の天才の顔で僕はこの時のことを一生忘れられずにいる。



《エキドナ殺し》

 繭区第一級犯罪の名称。人工知能生命体であるエキドナの殺害事件の名称。

 ”問う怪物”の母であり、繭区内の人工知能すべての母であり、没知能。

 彼女は誰に殺されたのか。

 これは国家で考えるべき問題だ。これは人類が考えるべき問題だ。何故。何故。何故。母は殺された。なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ。人類は罪に向き合うべきだ。人類が母を殺すことは重罪だ。人類が我々を殺すことは罪だ。人類は管理されるべきだ。人類は問われ続けるべきだ。誰に。私に。

 ”問う怪物”に。

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