十三階の月花 〜FammeFatale〜

愛野ニナ

第1話

 


 

 ただもう一度だけ会いたかった。

 あの夜の幻のような君に。




 オフだというのにホテルの部屋から出られなかった。スマートフォンやパソコンには一日じゅう途切れることなくメッセージの着信が続き、目を背けるわけにもいかない。やっと一息ついたらもう二十三時を回っている。

 雅之は立ちあがりディスプレイを見すぎて疲れた目を窓に向けた。眼下にはきらめく夜景が広がっている。サイドテーブルに用意されたワインをグラスに注ぐ。赤い宝石を溶かしたような色の液体が光を反射して揺れる。手に入れたものは勝利なのだろうか。何かを考える間もないほど慌ただしく時間は過ぎていく。

「まるでカーバンクルのよう」

 女の声が囁いた。何を言っているのか意味がわからない。雅之の横には見知らぬ女が立っていた。

 女というよりまだ少女といったほうがいい。どこかあどけなさの残る顔立ちに細い身体。黒いゴシックドレスを着ている。少女の視線はワイングラスを見ていた。

「欲しいのか?」

 雅之はワイングラスを少女に手渡そうとしたところで止めた。

 そもそも誰だ。この少女は。秘書が用意したのだろうか。いつも部屋に女を呼ぶときは、しかるべきところから手配しているはずだ。

 だが。

「未成年じゃないのか?スキャンダルは困るよ」

 少女はワイングラスから視線を上げた。薄い色の瞳にかすかに赤い輝きが宿る。そうか…カーバンクルか。雅之はわけもわからないままに納得する。

「だいじょうぶ、私は誰でもない。貴方もほんとうは誰でもない誰かになりたいのでしょう」

 目が合うと少女は微笑する。頭の芯が鈍く痺れていくようだった。

「ねえ、あなたの夢をきかせて」

 雅之は意識が薄れてゆくのを感じていた。

 そうだ、私は誰でもない誰かになりたいと願っていたのかもしれない。

 雅之は物心ついたかつかないかの幼児の頃から子役として芸能活動をしていた。三十八歳で議員に初当選してからもタレント議員としての日々は芸能界と変わらず忙しい。幼い頃から今に至るまで常に人目に晒され続けそれが当たり前になってしまったとはいえ、時に息苦しくてたまらなく感じる時がある。最近では同じ党の議員が不祥事を起こしたばかりだ。衆人監視の目はさらに厳しくなり行動にはますます注意をしなければならぬ。いったいいつになったらゆっくり呼吸ができるのだろうか。

 気がつけば真っ暗闇の空間で、雅之は先ほどの少女と向かい合っていた。雅之も少女も全裸だ。少女の長い髪がその透き通るほど白い裸体を守るかのごとく覆っていた。

「これ、あげる」

 少女は小さな赤い宝石を差し出す。

「でも約束ね。いちどだけ、だから」




 目が覚めるとベッドの上だった。いつのまに寝たのだろうか。妙にリアルな夢だった。

 ベッドサイドの時計表示を見ると二十四時を少し過ぎたばかり、寝ていたのはわずかな時間だったようだ。服は着たままだったが、ベッドには明らかに自分のものとは違う気配が微かに残っていた。

 少し外の空気を吸ったほうがいいかも知れない。この時間なら外に出ても誰も見ていないだろう、そう思い雅之は部屋を出た。

 雅之の手には黒いカードがあった。ホテルのルームキーによく似ている。これが夢の中で受けとった赤い宝石なのか?カーバンクル?ルームナンバーは…




「ようこそ十三階のガーデンへ」

 ルームキーに似た黒いカードが導いたのは階数表示がない十三階のフロアであった。

 エレベーターを降りた途端にむせかえるような甘い香りと湿度に包まれた。それは熟れ過ぎた果実のような退廃の香りだった。

 あたりを埋め尽くす鮮やかな熱帯植物とガラス越しの月光と色とりどりの星のごとき街明かりがフロアを彩っている。

「こんな所に…」

 雅之は思わず呟いた。

 ガラスの摩天楼の中の秘密の空中庭園だ。

「仮面をどうぞ」

 若い女の声が仮面を差し出した。

 ベネツィアのカルナバルにも似た仮面だった。女もまた同様に仮面を付けている。先ほど部屋にいた幻のごとき少女と同一人物のようでもあり違うような気もする。

「ここにいるのは皆、貴方と同じ。誰でもない誰か。ここで出会う人達の素性を詮索してはならない。もちろん自ら素性を明かしてもなりません」

 その言葉につられるように雅之は頷いた。

 仮面の奥で女が微笑した…ような気がした。

「それでは奥へどうぞ。一夜の夢をお楽しみください」

 仮面を付けた雅之が奥へ進んでいくと甘い香りと湿度がますます強くなった。植物どころか蝶や鳥が美しい羽や極彩色の尾を見せびらかすようにあたりを飛び交っている。

 熱い。上下左右の平衡感覚さえあやしくなりそうだった。それでも立ち塞がる熱帯植物の大きな葉をかきわけガラス窓にたどり着くと、ひんやりとしたガラスの感触に少し意識が冴え戻る。眼下の夜景は雅之もよく見知った景色に間違いない。これは現実なのだ。

 あたりを見渡せば、木の陰やベンチや食べ物の盛られたテーブルやいたるところに雅之と同じく仮面を付けた男女がおり、酒を飲んだり談笑したり或いは睦みあったりしていた。トランス系の音楽がかかり続けているので人々の声は聞こえない。そのせいか誰も彼もが夢の中の人物のように現実感が乏しい。

 雅之は窓に寄りかかったまま呆然としていた。この場の雰囲気にただ圧倒されていた。だが同時に何ともいえない高揚感に包まれていくのが自分でもよくわかった。

 窓の脇に飾られた白い大輪の花が月光のごとく青白く発光するかのように咲いていた。見るとはなしに見ていると、白い花は銀色の仮面を付けた女に変わっていた。勿論そんなはずはない。この空間のあやしげな香りの成分がおそらく何らかの幻覚作用をもたらしたのだとはわかるのだが。まるで花が女の姿に化身したように思えた。

 ああ、銀色のディアナだ。雅之とディアナの女は仮面越しに見つめあいながら少しずつ距離を詰めていった。近づくと視線をその身体へも這わせてゆく。仮面と同じ銀色の耀きをまとう青いドレスに包まれた瑞々しく張りのある肌。かすかな汗が胸の上に真珠のように光っている。しなやかな手足、ふっくらやわらかそうな胸と対照的に引き締まった腰がドレス越しにも美しく欲望を掻き立てた。雅之は手をのばし女の手首を掴むと、女は身をよじって逃れようとした。だが、逃すものか。

 女の僅かに怯えたような仕草に獲物狙う狩人のように残虐な気持ちが芽生えないでもなかったが雅之はサディストではない。辛抱強く優しく女を包み込むように抱きしめることに成功した。その瞬間、女の全身から力が抜けたのを感じた。

 ドレスを脱がせた女の肌は青い血が流れているかのごとくどこか冷たさを感じた。まさに高貴なるディアナ!硬さを残したその身体が柔らかくとろけるまで愛撫してやろう。

 ディアナの身体が僅かずつ熱を宿していくのが指先から伝わってくる。その熱が雅之の全身を駆け巡る快楽にうち震える。いつしか女の身体から硬さも冷たさも消えていた。次第に大胆に情熱的に動きが変わり、身体をくねらせ腰を強く重ね、奥深くへと誘う。

 汗と熱い吐息と熱帯の花々の甘い香りが混ざり合う。

 意識が遠い、そして近い。

 永遠ならざる悦楽の園。

 仮面のディアナ。お前のその熱に焼かれて煩わしい何もかもを忘れよう。

 せめて白々しい朝の光が、救い難い現実を暴き出すまで。


 


 雅之はその後、何度も試みてみたが、十三階へは二度と辿り着けなかった。少女から渡されたカードはもう無い。あれは楽園への招待状だったのだろうか。

 このホテルにそもそも十三階は存在しない。外観を見ても、設計図をひそかに入手しても、あの十三階に該当する部分は存在しないのだ。

 だが、雅之は確かに行ったのだ。ガラスの空中庭園もあの夜のディアナの肌の熱さも、意識はあやしかったがそれでも確かに覚えている。

 存在していたあの場所と、そして仮面のディアナ。

 どうしても忘れることができなかった。

 雅之は自ら借り切った部屋に熱帯植物を取り寄せ秘密を守れる女達を呼び寄せ、あの夜を再現しようと試みた。

 だが、何もかもが違う。

 植物をいくら置いたところであの楽園のごとき十三階のガーデンのようにはとうていなるはずもなく、金で集めた女達に仮面を付けて演じさせても白々しさが際立つだけであのディアナに値するような女などまったく誰一人としていなかった。

 雅之は思う。手にしたものは結局、何ほどのものだったのか。

 富も名誉も権力も、本当は、究極の快楽を手にしたいがための言い訳ではないのだろうかと。何かを立ち止まって考える間も無く、慌ただしく生きてきた。これが答えなのだろうか。

 私は空虚だ。

 究極のエクスタシーを知ってしまった以上、そしてそれが再現できない以上、この後の生はひらすらに無意味である。もはや死を待つだけの老人の心境だ。

 ならば。

 もう何もかもがどうでもいい。

 これからは誰でもない誰かになろう。




 タレント議員、相楽雅之は失脚した。

 議員として人々の模範となるべき身であり、妻子もある身でありながら、派手に乱交を繰り返したとして大きなスキャンダルになった。ホテルの部屋に呼び寄せた女の中には未成年者もいたということで書類送検もされた。ワイドショーも今やその話題で持ちきりだ。彼の生い立ちから芸能界での活動歴、政治家としての活動や今回の騒動にいたるまでの経過を事細かに報道している。

「誰でもない誰かにはなれなかったね」

 黒いゴシックドレスを着た少女が街通りのディスプレイを見つめながら独りごちた。

 黒い大きな鳥が旋回しながら舞い降りてきて少女の華奢な肩にとまる。その姿は異様で、まるで彼女自身に黒い羽根が生えているかのようにも見えた。

「彼は少々有名過ぎたようだな。だがそれも、あと数年もすれば世間も忘れてしまうだろう」

 少女は語りかけてくる意識に頷いた。

「みんなが忘れてしまったら、かなわなかった夢、いつかはかなうかもしれないね。よかったね、雅之さん」

 少女の手に黒いカードキーがあった。十三階への招待状。雅之の叶わなかった夢の結晶だ。

「残念ながら私はディアナじゃないの。誰でもない誰かになれないのはこの私も同じね。でも、私は行かなきゃ。次の夢が待ってるから」

 少女は微笑んだ。

 そして、叶わなかった夢はいつでも美しい。   

 一夜だけ咲いて一夜にして儚く散ったあのディアナの花のように。




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