カルテ1:蛇穴杏

 集団生活をおくる上で大事なことは、空気を読むことだ。

 常に周りに気を配って、相手の望み通りの返答をする。それだけで私の平穏は保たれる。誰にも咎められず、気にもされず、深い仲にもならず、ただただそこに居ることができる。

 だから私は他人の心を読心んで、いつも正解を探っていた。


 半径5メートル以内にいる人間の心が読める。

 それが私、蛇穴杏が持って生まれた能力だった。

 非科学的でどうしようもなくやっかいな特異。そんなものを持って生まれた自分を何度呪ったか分からない。それでも私の世界は変わらなかった。

 変わらないまま普通の一般人を演じる術しか身に着けることができず、それは高校一年生のこの日まで続いている。

 今でこそ平然とやってのけるものの、結構内心は悲惨なもので。常に落ち着かないし、いつかボロを出すのではないかとびくびくとしている。

 真綿でじわじわと締め付けられるような、針がばら撒かれた道を素足で歩くような、足の付かないプールに一人取り残されたような、終わりのない不安。

 いっそOODに自分の特異のことを自己申告しにいこうと考えたこともある。でも、申告したところで、この能力が消える訳でもないのだ。だから私は無難な日常に溶け込むことを選んだ。

 因みに、他人の心というのは、わざわざ読もうとするから読める、というものではない。

 音が耳から入ってくるように、景色が目から入ってくるように、私の体内のどこかに存在するらしい異常な感覚器官が私に人の心を読み取らせている。耳を塞げば音はある程度防げるし、目を瞑れば景色は消える。けれど、この心とかいう謎の因子は塞ぎ方が分からないから、意識を逸らさない限り心の声は流し続けられる。

 些細な嘘や矛盾。怒り、悲しみ。侮蔑、嫌悪。

 この世は嫌な感情ばかりで、そこから意識を逸らすことに必死だった。


「杏ちゃん、お願いがあるんだけど」

 ふと目の前から声をかけられ顔を上げる。すると、今まで考えていた取り留めのないことがぱっと頭から消えてしまった。

 髪を一つに束ねた女子生徒。名前は覚えていないが少し力を入れて脳内に干渉すれば、名前やある程度の情報を知ることはできた。

 畑中萌子さん。バレー部のキャプテンだそうだ。帰宅部の私には非常に無縁なタイプ。

(先生にゴミ捨ての仕事頼まれたんだけど正直面倒くさいんだよな。暇そうな人に押し付けよう。この子断らないだろうし)

 と、笑顔の裏で考えていることが脳内に伝わってくる。断らない暇人……か。そうだよ、だって世の中に従順でいる方法以外にいい生き方が浮かばない。

「あのね、私先生から教室のゴミ捨てを頼まれていて……でも、今部活が忙しくて……だから代わってもらうことできないかな? この埋め合わせは必ずするから!」

 埋め合わせなんてする気がないのは分かっている。でもここで断るともっと厄介なことになりそうなので、笑顔で了承した。この世は本当に生きにくい。

 私はいつだって万人に従順で気弱な便利屋だった。


 そのゴミ捨てというのは、ゴミ箱のゴミを捨てに行くだけという簡単な業務ではなかった。使われなかったプリントなどの紙の束、切れた蛍光灯など今まで出た廃棄物を台車を使ってまとめて持っていく必要があり、面倒くさがるのも納得がいった。そういえばもう直ぐ年末だとぼんやり考え、暗くなってきた校舎裏で白いため息を吐く。とにかく、あとはゴミを捨てるだけだと思いつつふと振り向くと、少し離れたところからこちらを見つめる人を見つけてしまった。

「まったく、滑稽だな」

 制服の上からパーカーを着て、そのフードを深めに被っている男子生徒。

「滑稽だと思うなら手伝ってくださればいいじゃないですか」

 悪口ともとれるそれに口先だけで返す。何故こんな時に会ってしまったのか分からないけれどあまり会いたくない人だ。

「嫌だな。何故俺が頼みを断りきれず仕事を押し付けられた馬鹿な人間の手伝いをしなきゃいけないのか一ミリも理解できない」

「ああ、じゃあいいです」

 とにかく、ゴミ捨て場の前まで言って、分別する場所を確認する。

 可燃ゴミが一番左端、その隣が紙類で、その隣に段ボール類、さらに隣に電球など危険物の廃棄スペースが並んでいる。

 無視をされたのが嫌だったのか私に声をかけた男子生徒……蒼井維吹先輩は、

「相変わらずだな」

 と言って私の側に寄ってくると重たいゴミ袋をひょいと持ち上げた。

 この距離まで来ても……やっぱり何を考えているか分からない。

「素直に手伝うと言ってくださればいいじゃないですか」

「俺の心を読めないお前が悪い」

 ニヤリと笑う顔が気に食わない。

 彼もまた私の平穏な生活を脅かす人だ。


 私は半径5メートル以内にいる人の心を読むことができる。あまりに難しいことを考えている人のことはよく分からないけれど、それでも大人も子どもも関係なく、等しく心の内を知ることができたし、すこし力を入れればその人の名前や所属などの情報も読み取ることができた。しかし目の前にいる維吹先輩の心の中だけはどうしても読むことができなかった。

 維吹先輩曰く、それは特異が打ち消しあっているから、らしい。

 人の心を読むのは嫌だけど……急に読めない人が現れても困る。そう思う私を他所に維吹先輩は度々私に絡んできた。

 どうも自分の能力が通用しない相手が物珍しいらしい。

「……やっぱりだめか」

「また干渉しようとしてたんですか? 多分無理ですよ」

 因みに維吹先輩は精神に干渉してその人の動きを自在に操ることができるらしい。彼に初めて会った時もまた、誰かに理不尽を強いられている時だった気がする。重たい荷物を運び転びそうになったところを維吹先輩が【操心の特異】で助けようとし、失敗したのだ。あの時は散らばった大量のプリントの束を一緒に拾ってもらった記憶がある。かなり毒を吐きながら。

 それが高校に入学したばかりのことだから随分と時間がたったものだ。

「それにしても懲りずによくやるよな」

「断る術も武器もないんだから仕方がないです。断って嫌悪の感情を向けられる方がよっぽど怖い」

 人の感情が分かるから余計に、慎重に生きざるを得なかった。

 そう思っていると、

「武器がない? そんな特異を持っておいて武器がないなんて笑えるな」

 と、また笑われてしまう。

「え?」

 この厄介な【特異】が武器? 何を言っているんだろうこの人は。

 怪力とか電気を流したりとか、そういう物理攻撃ができる【特異】ならまだしも、こんな強制受動的なもの、力になり得るとは思えない。

「相手のことが先読みできればその後の行動は有利になるとは思わないか?」

 蛍光灯のゴミをまとめて捨てながら維吹先輩はそう尋ねた。

 確かにかくれんぼや鬼ごっこみたいな行動勝負は多少有利になるかもしれない。けれどこんな風に用事を押し付けられることに関してはどうにもならない。

 半径5メートル以内に近づかれた時に逃げたって、あいつは自分を避けたのだと恨まれるだけだ。

「武器はお前の【読心の特異】。そして言葉だ」

「言葉?」

「言葉は武器になる。まあ今のお前はそんなことも分からないだろうな」

 明らかに人を馬鹿にしたような態度に怒ろうとするけれど、そもそも人にまともに怒ったことがないせいでその方法も分からない。

 なんだかんだでゴミ捨てを手伝ってくれた維吹先輩にお礼を言うことも忘れて、私は暫くゴミ捨て場に突っ立っていた。

 武器を使えば……理不尽から解放される?

 そんなの、馬鹿らしいと思った。この苦しみを知らない人が、知ったような口を聞いて欲しくなんてない。

 結局維吹先輩だって他の人と同じだ。

 それが何故だか寂しく感じて……冷たい風が目に滲んで涙が出た。



 私がOODの検査に引っ掛かったのはそれからすぐのことだった。

 何事にも従順で、それでいて要領のいい私はもう教師に目をつけられていたらしい。

 背後から電流の流れる危険物を近づけられて咄嗟に身を捩ったのがいけなかった。そんな単純なことであっさりバレた。結局私みたいな【特異】が平穏に普通の人に紛れるのは難しいようで。

「楽園街に行くんだって?」

 荷物をまとめてOODの本拠地へ向かおうとしたその日、維吹先輩が道中の公園で待ち構えていた。公園の柵に腰掛け、キャリーバッグを引いて歩いていた私を見下ろしていた。本当に性格の悪そうな人だ。

「相変わらず情報を知るのが早いですね」

「学校中で噂になっている。うちの学校で【特異】が出たことや……心を読まれていたなんて気持ち悪い、なんて話も」

「はは……なるほど」 

 うまくやってきたけど、結局こうなってしまった。親だって自分の娘に全てを読まれたことに恐怖していた。私の運命は結局、生まれた時から決まってしまっていたというのか。

「因みにOODの本質って知っていますか?」

「本質? 一応【特異】の保護を謳っているが……まあその口調から察するに裏があるのか」

 そう。OODの目的は【特異】の子どもたちの保護なのだと、世間的にはそうなっている。けれどそんなのは大嘘だ。

「OODは【特異】を捕まえて実験材料にしようとする悪質な組織……みたいです。検査担当の人間からは深く読み取れませんでしたけど既に被検体として殺された人間もいる。私みたいな人間が行ったらどうなることか」

 あの時は本当に恐ろしくて、自分がどの程度しどろもどろな受け答えをしたのかも思い出せない。心を読める人間の前なのだからもう少し情報量を少なくして欲しかったし……私がそれをリークする危機感は……ないのだろう。私が言っていることは全てデタラメだとか言って潰してしまえばいい。

「え……まって、それを知ってそこに行こうとしているの?」

 維吹先輩は目を丸くする。彼のこんな顔は初めてみた。

 そりゃそうだよね。普通なら、そんなこと知ったら怖気付く……というかまず逃げる。けれど逃げ道なんて私にはない。学校と親にバレた時点で私を匿ってくれる人間はほぼいない。OODに招かれた人間がそこへ向かうのはもう義務のようなもので、警察だってあてにはならない。

「陰口、妬み、恨み、罵倒……様々な心の声をぶつけられてきた。こっちが逆らわないのをいいことに口には出せないようなことも沢山された。そして【特異】だとバレた今……ここにいたって今まで以上の苦しみに襲われるだけ、です。だから私にはもう流される以外道がない」

 最後だと思ったから、とりあえず言いたいことを吐いてみる。どれだけ選択肢を考えたって結局私は流されるしかないのだ。逆らう力なんて持っていないのだ。

「なんて、わらえますか?」

 いっそ嘲笑ってほしいと思いながら顔を上げると、維吹先輩は私を真っ直ぐ見つめたまま固まっていた。

 何に驚いているのか……それとも呆れているのか……この人からは読み取れないから厄介だ。私も暫く黙ってしまい、やっと

「馬鹿だな」

 と、呟かれる。

「はい、馬鹿で滑稽……ですよね。知っています」

 今更改めて罵られたって変わらない。私はキャリーバッグを握る手に力を込めた。

「また会えますかね?」

「……さあ、生きていればまた会えるんじゃない?」

「だといいですね」

 さて、私は生きていられるのだろうか。不意に強く吹いた風が維吹先輩のフードを取る。彼があまり人に見せない白い髪……柔らかそうで、私は好き。

 なんだかんだでこの心の読めない先輩と話すのも楽しかったと思う。でも、それも今日で終わりだ。

「じゃあ、そろそろ行きます」

「うん」

 踵を返しOODの本部に向かう。それが悪夢の始まりだって知っているのに。



 上が見えないほどに高く伸び、けれどどうにも歪んだ悪魔の塔。清潔感溢れる殺風景なOOD本部の中にあるのは、悪夢は悪夢でもかなり絶望的な悪夢だった。

 まず、すれ違う職員たちは【特異】の子どもを人間とはみなしていない。私たちは彼らにとっての単なる資料にすぎないし、研究者たちにとっては実験材料だった。言葉を話し自力で移動をする実験材料。そんな心を読んだだけで、思わず吐き気がこみ上げた。指定された五階会議室に向かうまで何度トイレに駆け込もうとしたか分からないけど、トイレにだって他の人が入ってきたら同じだ。

 今までだって陰口を叩かれていたことはあったけれど、ここまで差別的ではない。検査にくる人間からはここまで差別的な感情を向けられなかったから、彼らはまだOODの本質を知らないらしい。

 やっと会議室にたどり着いて、職員にOODの「仮の」説明を受けている時もかなり苦痛だった。

「楽園街は子どもたちが自由に学んだり遊んだりできる施設が揃っています。なお金銭はポイント制で、学んだりバイトを行うことによって増やすことができます」

 そしてポイントは人からもらうこともできる。勉強もバイトもできない【特異】は人からポイントを奪おうとし、戦いが起きる。その中で特異の力を測り実験にふさわしいものを見つけ出す、と。

「なお皆さんにはナンバーリングというリングを腕につけていただき危険行為を防ぎ……」

 一度つけたら簡単には取り外せないナンバーリングはOODへの侵入や反乱を防ぐためのもの。常時追跡はできないものの、一定の施設に入った時にセンサーが察知するため不用意なことはできなくなる。

「オーモバイルではアプリケーションを入れることで様々なゲームをしたりチャットを行うことも可能です」

 そして、いざとなればOOD側で端末の内容が確認できる、と。

 上部の言葉と本質に差がありすぎる説明に、頭が痛くなりそうだった。


 次に部屋に入ってきたのは、白衣をきた若い男性。学校の先生なんかをしていても不思議ではない、地味な見た目をしている。それなのに、頭の中で考えていることは残虐だった。本日一番と言っていい。

「君が【読心の特異】、蛇穴杏さんですね。脳科学を研究しております、真木といいます」

 この人は……人の心を読める私の脳の仕組みを解明すれば人類がテレパシーを使える機器の研究が進む……そのために脳をいくつかに分解してそれぞれを培養する必要がある……なんて考えているけれど、そんなことをした時点で私は死んでいる。

 冗談……だったらどれほどいいか。

 そしてその準備ができるまで楽園街というおままごとの街に送り込む……と? なんて悪魔なのだろう。

 気付いたら背後に立っていた人たちも変わらない。白衣を着た研究員たちは総じて悪魔だ。いや……まあ普通の人だけど私のことを人間だと思っていないだけ、とも言える。

 実験材料になるくらいなら耐えられると思ったけれど初っ端から殺されてはたまらない。

 けれどここから逃げる術も武器もない。

 だから、いつも通り従順になるしかない……? 命の危険があっても?

 そう思って気がついた……武器ならあると……あの時彼が言っていたじゃないか。

「……はは」 

 でも、人に従順で何でも受け入れてしまう私ではうまいこと振る舞えない。だから。

「丁寧に説明しておいて裏では取って食おうなんて随分滑稽だね」

 私の中に新しい『蛇穴杏』を作り上げる。

 六畳ほどの狭い部屋に研究者が五人。全員の心が読めるんだから素材としては十分なんだ。

「そう、僕はあなたたちの心の内が全部読めるよ? 今まで【特異】を集めてどんなことをしてきたのか……それから今から僕の脳をどうやって切り刻もうとしているかも全部。でもそんなことしちゃっていいのかな? 僕の【特異】があれば反逆しようとする【特異】を全て見抜いて対処することができる。僕は貴方たちにとって有益な存在だ」

 殺されるのは嫌だ。だったら言葉で戦うしかない。

 立ち上がって大きく手を広げる。

「貴方たちが僕を殺さず温かい寝床をくれるのであれば僕は喜んで貴方たちの犬になろう。【特異】を狩る手助けをして貴方たちに有益な情報をもたらすよう善処しよう。ああ、上級特異なんて存在があるんだね。じゃあそれがいい。ねえ、素晴らしい契約だと思わないかい?」

 ぐるりと周囲を眺めるものの、これだけでは足りないことは分かっている。皆が不気味がっていたってこれだけじゃ勿論助からない。

 だから一人一人脅していこう。まずはこの中にいる責任者から。

「ねえ、犬飼さん」

 背後にいる年配の女性は犬飼尚美。多くの実験の指導者として名高いらしい。

「貴女はその地位に至るまで随分と汚いことをしてきたようだね。ここで貴女の秘密を喋ってもいいのだけれど、協力関係になるのなら免除してあげる。ねえ、どう?」

 彼のような意地の悪そうな笑みを浮かべると、犬飼尚美は後退りをしようとし、壁にぶつかる。

「秘密って……ちょ、ちょっと待って……上に連絡するから」

「そうだね、上に貴女の秘密を伝えるのもまた一興か」

「ひっ」

 さらに笑ってみれば青ざめた顔で悲鳴を上げられた。

 何やっているんだろう、私。

「僕に偉そうに実験計画を説明してくれた真木将也……え? 説明していないって? あはは、僕の【特異】を忘れたの? 貴方が頭の中で考えていたことなんて全部僕の頭に流れ込んできているんだよ。人間を刻むのが好きな貴方の特殊性癖と一緒にね?」

「お、おい、やめろ……」

「東條幸雄、西井未来、濱口直生……あなたたちの性癖も全部口に出していいかなあ? それともちゃんと研究者らしく頭のいい対応をしてくれる?」

 大袈裟な身振りをつけてペラペラと喋ればどんどん研究員たちの顔が青くなっていく。大丈夫、このまま……死ぬ以外の選択肢を取らないと……そうして、OODの抜け道を探さないと……生きれない。


 こうして私は怪物の仮面を被った。一人称を変えたのは、あくまで自分は自分として保つため。喋り方は多分どこかの先輩を真似たんだろうけど咄嗟のことで自分でもよく分かっていない。

 殺されないために選んだ束の間の猶予は白いナンバーリングを付けられたその時から綱渡りのように始まった。

 その後私が維吹先輩に再開するのはもう少し後の話で、それまでは順調に『怪物』の異名を広めることになる。

 演技をする自分があまりに滑稽だと、笑いながら。

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