第3話:入国祝い
「それでは、颯太さんの入国を祝って乾杯です」
陽芽の緩い掛け声に慌てて、皆が口を揃えて「乾杯」と声を上げる。
総勢三十人ほどの声に、颯太は思わず身を縮めた。
【王国】の住処にある大広間。長机が五つも横に並べられた畳の部屋に、年齢も性別も様々な少年少女が集まっている。時折髪の色や目の色に特徴のある子どももいるが、後はどこにでもいそうな、非科学的な力など持っていなさそうな者ばかりだ。下は小学生、上は高校生くらいだが、年齢で固まることなく、どこを見ても仲睦まじくやっている。
長机に置かれた食事はポテトサラダ、唐揚げ、エビフライ、ピラフなどがあり、それぞれ自分の小皿にとって食べる仕様らしい。以前近衛が当番制だと言っていたが、これだけの料理を作るとなるとかなり骨が折れそうだ。颯太は自分に当番が回ってくることを考え、やや気が重くなった。
「ねえねえどうしたのお兄さん、そんなに暗い表情しちゃって。もしかして人見知りしちゃうタイプー?」
唐突に声をかけられて颯太が顔を上げると、おかっぱ頭に丈の短い浴衣を着た中学生くらいの少女が颯太にぐっと顔を近づいて声をかけてきていた。
「いや、少し考え事を……」
「何々? どんなこと考えてたの? 【王国】で一番可愛い子トップは誰かとか?」
「おい
てんで的はずれな質問に颯太が困っていると、少女の身体がぐいっと後ろに引かれた。よく見ると浴衣の襟の部分を強引に引っ張られている。
「ちょ、痛いって
「ちょっとは礼儀ってもんを覚えろ。まずは名乗れよ。相手のにーさんも困惑してるだろ」
「あー、そうだよね。えっと、私は
目つきの悪い少年に引っ張られて諭された少女は、やっと自分の名前を名乗る。颯太の周囲にはここまで喋る子というのもなかなかいなかったため、少し虚を食らってしまった。
「うちの馬鹿がすみません。俺は
「あれ? 君の方が年下なの?」
「一応」
颯太はてっきり年齢が逆だと思ってしまった。彼の態度は少女の世話役そのものだ。
「私の方がこの無法地帯においても年齢においても先輩なのだ」
そう主張して胸を反らす割にはどうも後輩に信用されているようには見えない。
それでも彼らも【特異】であり、【王国】の一員としてOODと対立している。彼らだけではない。部屋の一番隅で黙々と唐揚げばかり食べている少年も、幼い子たちと無邪気に談笑する優しそうな少女も。皆普通に見えるのに、それでも颯太の周囲では見ることのなかった、非科学的で時に危険な力を持つ子どもたちなのだ。
「颯太お兄ちゃん!」
また始まった浮音と朱実の言い合いから目を外して辺りを見渡していると、今度は反対側からおさげの少女に話しかけられる。街でOODの特異に狙われかけていた甘野知夏だ。
「えーっと、どうした?」
幼馴染のおかげで年下の相手には慣れているはずだが、やはりここまでハツラツとした少女の相手はどうすればいいか分からない。真っ直ぐに向けられたキラキラとした眼差しが眩しかった。
「この前は、助けてくれてありがとー。あと雪々のこともね、ありがとう。雪々は【王国】最年少だから颯太お兄ちゃんがいてくれて本当によかった」
よく見れば、知夏の後ろに彼女よりさらに小さい子どもがくっついている。今日もまたフリルのあしらわれた白いワンピースを着ているが、颯太から見ればどこからどう見てもこの子は男の子だ。
「なあ、差し支えなければ……えっと、答えたくなければ答えなくていいんだけど、お前たちってどうして楽園……無法地帯に来ることになったんだ?」
颯太は、自分の幼馴染のことを頭に浮かべる。【特異】は、基本的に教育機関の定期検診で判別されると言われてる。だとしたら彼女たちもその定期診断で指摘されたのだろうか。いかんせん颯太の周囲では……幼馴染以外、OOD に摘出された者がいなかったため、あまり実感がない。自分も検診は受けているが、普通の健康診断と全く変わりないことをした記憶がある。
「んー、知夏は定期診断じゃなかったな。そもそも知夏、自分が【特異】だって知らなくて……なんか、傷口にはツバつけておけば治る、みたいな言葉あるでしょ? 知夏はそれを信じてて、いつもやってたの。だって、舐めれば本当に傷が治っちゃうんだから。でもそれって普通じゃないらしくて、先生にバレて、OODに伝わって、来ることになったの。検診とかは受けてないよ」
「なるほど……」
思っていたのとは違う流れで、颯太はやや困惑した。
【特異】は必ずしも検診を通して選出されるわけではないということか。
「雪々は……悪い子だったから」
一方の雪々は消え入りそうな声で告げる。その後黙ってしまった雪々の代わりに、知夏が口を開いた。
「えっと雪々はね【念波の特異】っていって見えない力の波で物を壊せちゃう力を持つんだけど、それで間違えて自分の家を壊しちゃったらしくて……」
「雪々悪い子だから、弱くなることにしたの。だから女の子の服、着て……」
なるほど。事故を起こしてOODに見つかったらしい。それで女の子の服を着る発想に至ったのは不思議だが、雪々が自ら決めたことなら颯太は止めない。それに【王国】が皆雪々の格好を受け入れているのが少し微笑ましかった。
それはともかく、また颯太の認識とは違う情報が得られてしまった。
「なんか【特異】の見つけ方ってバラバラなんだな……」
最初から自覚がある場合もあれば、自覚なく育ってきて後から自分が【特異】だと発覚する場合もある。他人に指摘されて初めて気づくこともある。
【王国】全員に話を聞けば、多種多様な経緯が聞けそうだ。
颯太はここで自分の幼馴染のことを思い出した。彼女はどういった経緯でOODに目をつけられたのだろう。
どうやらOODの目的は【特異】を保護することでも隔離することでもなく、研究の材料とするためのようだ。
そして、【特異】はそれ以外の人間と遺伝子などに特別な違いを持つとは判明しておらず、ただ科学で解明できない力を持っているというだけ。
「俺は……勘違いをしていたかもしれない」
「え?」
これまでの騒動を通し、【王国】の者の話を聞き、【特異】についての認識が変わりつつある。颯太は必死に頭を悩ませた。こういう時こそ幼馴染の力が欲しいと思った。
「ところで颯太さん、颯太さんが探している幼馴染の方は、なんというお名前なのですか?」
颯太が悩んでいると、陽芽が不意に声をかけた。結構な時間が経っていたのか、各テーブルに盛られた唐揚げは半分以上なくなっている。
「それを聞いて……どうするんですか?」
たとえ自分の身を投げ出しても敵に屈しない勇敢な女王様。彼女なら信じてもいいような気がするが、それでもまだ迷いがあった。幼馴染についてどこまで話していいのか分からない。
「仲間が困っているならば総力を挙げてでも助けるのが【王国】の役目。颯太さんが幼馴染さんのことで悩んでいるのならば、全力で手助けしましょう」
当然のことです、と最後に付け加える。いつの間にか騒がしかった室内も静かになっており、女王である陽芽の言葉を聞いている。それだけで……この大広間の雰囲気だけで、彼女が仲間に信頼されていることがひしひしと伝わってきた。
助けを借りる、ということは今まで颯太の頭になかった。
ここへ乗り込んで、幼馴染を見つけ出す。それしか考えていなかったためだ。
しかし、ここにはそんな颯太に当然のように手を差し伸べる人がいる。
それは単純に嬉しいと感じた。
「……ありがとうございます。そうですね、伝えられることをお伝えします」
そう言って颯太は用意されていた麦茶を一度飲み、それから背筋を伸ばして机の反対側にいる陽芽を、その隣にいる近衛を、少し離れた場所にいる維吹を、そして他の面々を見つめる。
きっとこれも幼馴染を見つけるための第一歩だ。
「俺の幼馴染の名前は
それが当初の目的であり、それが全てだった。だから、類に会うことだけを考えてひたすらコインの裏表を見抜く練習をし、ここへ乗り込んだ。
「ただ、菰野さんや近衛さんから無法地帯の本当の姿を聞いて、上級特異なんかも目にして、みんなの話を聞いて……よく分からなくなってきたんです」
この先は、口にしていいのか分からない。
おそらく【王国】の中にもこんなこと考えたことがない者もいるだろう。それに、誰かを傷つけてしまうかもしれない。しかし、躊躇う颯太に向けて、陽芽は
「続けてください」
と、やんわりと促した。
「【特異】とは何なのか、あいつは本当に【特異】じゃないのか……そもそも実験のために子どもを使いたいOODの職員にとっては、【特異】であろうとなかろうと関係ないのではないか……実験において都合のいい存在が欲しいだけではないか……そう、思えてきました」
颯太が話し終えた後、広間は一度シーンと静まり返った。幼馴染が【特異】ではないから連れ戻しに来た……その考えは間違っていたのかもしれない。そのことに、焦りを感じていた。
ただ、流石にOODが実験目的などと【特異】たちの前で言ってはいけないだろうと颯太が焦ると、
「はいはい! 質問です!」
と、馬見塚浮音が元気よく立ち上がる。
「え……何?」
「【特異】は何なのかとか、その人は【特異】かどうかとか、そういう難しい話は正直私には全く分からない」
隣で「少しは分かれよ」と朱実からツッコミが入るが、浮音はそれには答えなかった。
「だけど要するに、私たちは軽沢類っていう颯太お兄さんの幼馴染を探し出せばいい……それだけのことなんだよね?」
「まあ、そうなんだけど」
浮音が無邪気に言い張ることで、幼い子たちも理解できたようだ。
とても類より年上とは思えないと考えつつ、彼女のような緩和剤がいてよかった、とも思う。知夏も雪々も特に様子に変わりはない。普通の子どもに見えて、彼らはやはりタフなのかもしれない。
「ねえねえ【天才の特異】って何? どんなことができるの?」
ここで、頭の弱いもう一人の人物、九重近衛が尋ねる。【怪力の特異】として恐れられる面影はない能天気な声だ。
「別に……特別な能力じゃないと思います。10桁の計算を暗算で解いたり、あらゆる数学の定理や方式を暗記しているらしいですけど、それはあいつの努力であって」
「努力にも限界はある。それだけの処理能力を弱い十四歳の頭脳でできてしまう……まあそれは世間一般からすれば『天才』だろうね。颯太がそう思っていなくても周囲からそう思われるのは無理がない」
颯太の言葉に対し、トゲが立たない程度に維吹が言葉を挟む。
それは、颯太も分かっていたことだった。自分がいくら否定をしたところであの幼馴染が「天才」と呼ばれてしまうのは仕方がない。
「じゃあその幼馴染を探そうか。これだけ人数がいれば上級特異でなければ目撃証言を得られるはず」
「上級特異……って、どうしたらなれるんですか?」
維吹の発言に少し嫌な予感がして尋ねてみる。
「上級特異はOODの協力者だ。どれだけ奴らの力として使用できるかで選ばれる」
「じゃあ……もしかしたら類は、上級特異として奴らの元にいる可能性も……」
上級特異でなければ人海戦術で見つけられるかもしれない。しかし、もし仮に類が上級の方にいたとしたら、どうすればいいのか。
「まあ、そのことは別として考えよう。とりあえずその子の特徴を教えてほしい」
維吹にいわれて、颯太は類の容姿を思い出す。
「髪は短くて……背も百五十センチくらいです。最後に会った時は中学のセーラー服を着ていたんですけど今はどうだか……私服はシンプルなものばかりです」
「あれ? 颯太お兄さんが探しているのって女の子なの!?」
「うん……言ってなかったっけ」
初耳、と浮音が呟く。確かに類という名前だけでは男女の判別が付きにくい。颯太は「女子です」と付け加えておいた。
夕食の片付けが終わって暫く経ち、八時を回れば大広間からもほとんど人がいなくなる。颯太はそれを見計らい、部屋の片隅でオーモバイルをいじっている維吹に近づいた。彼はよく端末をいじっている。外にいた時もスマホの画面ばかり見ていた人間かもしれない。何をしているのかはさっぱり分からないが。
見ようと思っても、人が近づいた瞬間にうまいこと画面を隠されてしまうから。
「ん? どうしたの?」
急に顔を上げた維吹に、颯太は一瞬びくりとして、それから皆の前では尋ねられなかったことを口に出す。
「あの……勘なんですけど、類は……おそらくOOD本部の方にいると思うんです。だとしたらきっと上級特異の方が詳しい。それで維吹さん、あなたは」
「
言い終わらないうちに、維吹は颯太が思っていたことを口にした。
まさにその通りだ。上級特異の中でも力がありそうな蛇穴杏と連絡が取れるのであれば……何かしらの情報をもらいたかった。
また、蛇穴杏のことが気になるのには、別の理由もある。
「あの子は、申告の時に俺の脳内を読んでいる。もしかしたら……俺が類に会いたいと思っている気持ちを読んで、俺を通したのかもしれない。だとしたら何かを知っている可能性が高い」
「悪いけど」
推理を踏まえ、一縷の望みをかけて維吹に懇願する。しかし、向けられたのは凍りつくような冷ややかな視線だった。それも、誰もが思わず半歩退いてしまいそうなほどの。
「俺はあいつのことが大嫌いだ。俺の【操心の特異】が効かないというだけでも腹立たしいのに、【特異】のくせしてOODの犬に成り下がり、いいように【特異】たちを気持ちを踏みにじって、嘲笑って、ペラペラと喚いて邪魔をしてくる。本当に人の心の分からない外道な怪物だ。知夏の時だってあいつの所為で上級特異たちから話が聞けなかった。そんな嫌いな相手から情報を引き出す……か。ま、やってみない価値はないけど」
ため息を吐きつつ心底嫌そうに嫌な点を羅列する維吹の様子を見て颯太は後悔する。あれだけ息を合わせて罵倒し合っていたのだから、多少は何か通じるものがあると思ったのだが、本当に仲が悪いらしい。
「すみません……おとなしく他を……」
「あ、そうだ。あの怪物については何も望めないけど、一ついい情報を教えよう」
「え?」
困惑する颯太のオーモバイルに、一つの住所が送られてくる。連絡先を交換した覚えはないのだが、いつの間に登録されたというのだろう。
「なんですか、これ」
「明日の昼間、そこへ行ってみな。何か情報をもらえるかもしれない」
「……分かりました」
まだ、何を頼ればいいのか分からない。当初の目的は半ば揺らいでしまった。
しかし、いつの間にかそれを打破できそうな仲間もできてきた。
彼らの力も借りて、なんとしてでも軽沢類を見つけ出そう。
颯太は、そう心に誓った。
◆ ◆ ◆
「遅い」
「……これでも時間通りにきたつもりですけど」
午後九時。都内の繁華街ならまだまだ明かりが煌めくこの時間でも、子どもばかりの無法地帯はそうもいかない。特に、オーパークや住宅地から離れた街の東の端、廃工場が隣接した寒々しい場所ならなおさらだ。
維吹は崩れかけた壁にもたれかかりながらオーモバイルの画面を見つめていたが、微かな足音を感じて顔を上げる。
そこには、グレーの薄いセーターに、黒いキュロットを履いた茶髪の少女が立っている。昼間とは全く格好が違うが、新緑の瞳だけは変えられない。維吹は、闇の中でも全く色の変わらないその瞳が好きだった。
「うそだよ。追っ手はない?」
壁から背を離し、少女の顔を覗くように少し屈んで尋ねる維吹に対し、少女は……蛇穴杏は得意げに微笑む。
「もちろん」
昼間の彼女しか見たことがない者では、彼女が『怪物』と恐れられる少女だとはすぐに気づくことはないだろう。服装のこともあるだろうが、あの大げさな身振りや他人を嘲笑するような表情がないのでなおさらだ。
今の杏は、いたって普通の少女そのものだった。
「昼間はちゃんとご奉仕してあげていますから。今は然程……探られてはないかな」
「さすが杏」
維吹は、近くの石材に腰を下ろし、普段ツインテールにしている髪を下ろした杏を見つめる。得意げに笑ってはいるものの、どうも疲労が隠し生きれていない。他に人がいないため気を抜いているのもあるだろうが、言葉の端々に覇気がなかった。
「座ったら? 疲れたでしょ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
OODの駒として使役されることは並大抵の努力でできることではない。それになにより彼女は人の心を読むことができる。何もしなくても脳内に入ってくる悪意や殺意からひたすら目を背けるのは精神的苦痛になるだろう。
それをやってのける杏のことを、維吹は心から尊敬していた。本当はもうやめて欲しいと言いたいが、今それを声に出したところで現状を変えることはできない。
だから、ひとまず本題に入ることにする。
「今回聞きたいのは樋川颯太のこと。何故彼を通した? 幼馴染が原因?」
「そうですね。彼が幼馴染の軽沢類を探していると
「止める?」
維吹は、俯きがちに語る杏をじっと見つめる。そうして言葉の意味を考えた。
「……奴らの言葉では【天才の特異】を持つ軽沢類という少女。彼女は今、奴らの手先となっていて……その動きを封じる必要がある、とか?」
「正解です。軽沢類は、現在組織の即戦力。カルテを見てどの特異がどのように有効活用できるかをひたすら割り出す役目をこなしています」
杏の言葉は、今までやりとりしてきた中で最も予想を超える情報だった。維吹は、夜風になびく杏の髪をじっと見つめ、それから再び新緑の瞳を見つめた。
「今回甘野知夏が強引に連れて行かれそうになったのも、軽沢類の采配か」
「はい。OODの頭脳である彼女が『【治癒の特異】は薬学で役に立つ』と割り出した。それだけでOODは動く」
「杏は今日、それを止めに来てくれたわけだな」
「結構焦ったんですよ。まあ維吹先輩が先にいてくれたので場を濁すだけで済みましたけどね」
「そういえば、颯太が言ってたよ。俺たちの息が合ってるから、てっきり繋がっていると思った……ってね」
「えー……もっとうまく罵倒しないといけませんね」
杏はそう言って切なげに笑う。
颯太の読みは間違ってはいなかった。しかし、明かすことでどう頑張っても不利になるこの協力関係は、他の誰にも告げることはできない。だから彼らは日常的に、心底相手を嫌っているフリをする。
これは、二人がこの無法地帯で再会した時から変わらなかった。
「まあ、とにかく……軽沢類を採用したおかげで、暫くは緩慢になっていた【特異】の『実験』が再び頻繁に行われようとしています」
「ふうん……それで、樋川颯太を抑止力として使う、と」
「彼女は【特異】に大した思い入れがない。だからこそ機械的にカルテを処理しています。そこに樋川颯太の気持ちを届けて……最終的に彼女の力を逆手にとって内部崩壊まで持っていきたい」
そこまで言って、杏は膝を抱えて俯向く。自分で断言したが、まだ自信は持てていないようだ。
彼女はここまで一年間かけてOODの穴を探ってきた。それが見つからないどころか彼らの活動が活発化し出している。それは焦るのも無理ない。
「……まずは、颯太を入れてくれてありがとう。その選択はかなりよかった」
維吹は、杏の頭にそっと手を乗せる。ぽん、ぽん、とあやすように撫でても、杏は抵抗する素振りを見せなかった。
「それと、こちらも戦力は十分に揃えた。少しでも風穴があけば、いつでも飛び込めるから」
「……そう、ですね」
杏の声が掠れる。維吹はそれ以上かける言葉が見つからない。
「必ず……倒しましょうね、維吹先輩」
「うん」
「それじゃあ私、もう行くので」
杏は目元を服の袖で強く擦って立ち上がり、すぐに維吹に背を向ける。もう三十分も経った。これ以上杏がOODから離れていれば探りを入れられる可能性がある。だから帰らなければならない。それは、分かっている。
維吹は、離れていく背中をじっと見つめることしかできない。
彼女は組織に従順なフリをした。維吹はそれに対立するフリをした。もう一年ほど、この関係は続いている。
会える時間も会える場所も不定期で、時折地面や壁に記す暗号が目印だ。約束した時間にどちらかが来られなかったら会合はなし。そう決めている。
普段目立つ格好をして人前に出るのを逆手に取り、地味な格好で街に出るのが杏のお忍び方法だ。普段の西洋人形のような格好も似合わなくはないが、やはりシンプルな服装の方が似合う、と維吹は思う。
「好きだな。やっぱ」
姿が見えなくなってたった一人の空間をぼんやりと見つめて一言漏らす。
いくら彼がそう思ったところで、彼女がOOD側である以上敵対し続けなければいけない。
本当はOODなどどうでもよくて、ただ杏が助かればそれでいい……そんな気持ちは、彼女にすら伝えることのできない、維吹だけの秘密だった。
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