エピローグ:二話

「あっ」


桜海先輩が取り出したのは、俺が一度、どこかで失くしたと思っていたハンカチだった。


「先輩これ、どこで?」


「蛍琉の病室」


「え?」


「そこの看護師さんがね、いつもお見舞いに来てくれている男の人が、蛍琉の病室にこれを忘れて行ったって、私に渡してくれたの」


「そうだったんですか。でもなんで、そのお見舞いに来てる人が俺だって、分かったんですか? 俺、先輩にそんなこと、一回も話してないですよね?」


「話してもらってない。ねぇ、夏川くん、蛍琉の夢治療を最初に始めたのは自分だって思ってる?」


「……違うんですか?」


「うん。最初に蛍琉の担当だったのは私なの。だから私も蛍琉の記憶を見てるし、一度そこに入った。その世界で、私は君のことを見つけたの。それでね、そのハンカチを忘れて行った誰かさんは君なんじゃないかって思いついた」


「……」


「そのあと私、一度夏川くんのあとをつけたの。覚えてる? 息抜きになるし、昼休み外食してきたらって私が言った日。そうしたらやっぱり、君は私の予想通り、蛍琉が夢治療を始めるまで入院していた病院に向かった。それを見て、最終的に私の心は決まったの。君に蛍琉のことをお願いしようって」


「病院で俺に声かけなかったのも、さっき言ってた理由、ですよね」


「そう。夏川くんを担当にするにあたって、君に負担になることは増やしたくなかった。だから声はかけずに、気づかれないようにそのまま帰った」


「見られていたんですね」


「人生で初めて尾行なんてしたよ。あれはなかなかスリリングな体験だった」


「……先輩……」


「そんな呆れた目で見ないでよ! て言うか、素人の尾行に気づかない夏川くんもなかなかだと思うけど。今後は背後にもっと気をつけた方がいいんじゃない?」


「余計なお世話です。そもそも、先輩に言われたくありません」


「うわっ。やっぱりかわいくない」


俺と桜海先輩のやり取りに、蛍琉がくすくすと笑い声をあげる。それがうつって、俺と先輩も笑った。少し前まで三人が三者三様、それぞれの思いで、奮闘していたことが嘘のように、穏やかな時間。


「そういえば、なんで木曜日だったの?」


笑いがおさまると、再び桜海先輩が口を開いた。


「はい?」


「看護師さんが言ってたの。その人はいつも木曜日にお見舞いに来ているって」


「あぁ、それは……」


「何? もしかして聞いちゃいけないことだった?」


「いえ。……木曜日だったんです。蛍琉と最後に話したの。その日の夜、蛍琉は眠りについて目覚めなくなった」


俺の言葉に、桜海先輩がハッとした顔で口をつぐんだ。


「お前、そんなこと覚えてたの?」


黙ってしまった桜海先輩の代わりに、今度は蛍琉が話を継ぐ。


「覚えてたよ。それで、木曜日にお前の所に行って、もしそこで目覚めてくれたら、あの日の続きからまた始められるんじゃないかって。心のどこかで多分、そう、思ってた」


改めてその理由を口にすると、なんだかじわじわと恥ずかしさが募ってくる。それに対し、蛍琉は言葉に冗談めいた響きを持たせてこう言った。


「……お前、俺のこと大好きじゃん」


と。しかし、それはあまりに的確に的を射ていたから。その言葉は、そのまま俺にとどめを刺した。


すぐに彼のその冗談めいた口調に乗ってしまえば良かったのだろうし、蛍琉も俺がそうすると思っていただろう。しかし、俺は一瞬、返答に窮して黙ってしまった。


そうなると、もう誤魔化しようもない。


だから結局、開き直ってしまった俺は、真顔で「……だからそう言ってるだろ」と、肯定の意を返した。すると、やはりこの返しは蛍琉も想定外だったのか、彼は一瞬あっけにとられた表情をして固まった。そうして時間差で言葉の意味を理解すると、もう二の句が継げなくなってしまったようだった。


あれは相当恥ずかしがっている。なんで寝起き早々、二人揃ってこうも恥ずかしい思いをしないといけないのだろうか。


長年お互いに自分の思いを言葉にしてこなかった俺たちが、今度は素直に話そうとすると、極端なことになってしまうらしい。言葉って難しい。


そんな俺たちの様子を見た桜海先輩は、先ほど俯きかけた顔を上げ、安心したように笑った。そしてその顔のまま、一度俺にハンカチを渡すために机に置いていた紙の束を、再び持ち上げる。


「うん。じゃあ、そういうことで。はい、これ」


満面の笑みを浮かべた桜海先輩は、手にした大量の紙の束を俺に向かって差し出してきた。嫌な予感がして聞き返す。


「……何ですか?」


「報告書」


「え?」


「アハハ。寝起きに悪いけど、まだまだ仕事はあるからね。被験者が起きたらはい終了じゃないのよ、夏川くん。頑張って」


俺にそう告げた桜海先輩は、固まって一向に動かない俺にしびれを切らし、顔の前にずいとそれを突き出してきた。


俺がとっさに反射でその束を受け取ると、先輩は満足した顔で一度頷いた。そうして「じゃあねー」とヒラヒラ手を振り、研究室から去って行く。


俺は受け取った報告書の束を見下ろし、しばらくの間、動けないでいた。

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