第三章:二十五話

そこから、気がつけば祖父の一人称が”俺”になっていた。


「ばあちゃんと? でもずっと一緒に暮らしてたじゃん」


「あぁ。そうやって近くにいたから余計に気がつかなかった。いなくなってやっと気づいたよ。俺はばあちゃんに大切なこと、まだ全然伝えられていなかったっていうことに」


「……」


「毎日ご飯を作ってくれる人がいることが、どんなに幸せだったか。一緒にテレビを見て、買い物に行って、三時にはおやつを食べて。そういう毎日を、俺と過ごすことをばあちゃんが選んでくれて、どんなに俺は、幸せ者だったか」


そこまで言って、祖父は一度言葉に詰まった。しかし、まだ言い足りないというように、すぐに言葉を続けた。


「働いている時は夜遅くなったりしてな。それでもばあちゃん、俺が帰ったら『おかえり』って言ってくれたんだ。イライラして、俺が八つ当たりをした日もあった。逆にばあちゃんの機嫌が悪くて、あたり散らされたこともあった。二人とも悪くて、でもどっちもそれを認めずに、冷戦状態になったことだってあった」


「二人とも頑固だもんね」


「あぁ。そうだな。それでも最後には二人でごめんなさいって謝って、またいつもの日々に戻ることができた。退職してからも、沢山迷惑をかけた。それでも、何があってもばあちゃんは俺の傍にいて、隣で笑っていてくれた。ばあちゃんが大好きだったよ。今も、それは変わらない。幸せだった。ありがとうって言いたいことが、山程あったんだ」


「……じいちゃんの思い、ばあちゃんにちゃんと届いてたと思うよ。じいちゃんがばあちゃんのためにピアノ頑張ってたこと、ちゃんと伝わってた」


俺は、ピアノを弾く祖父を見つめる、嬉しそうな祖母の顔を覚えていた。


「そうかもしれない。俺もそう信じて、ピアノを練習してた。音楽の力はすごいからな。なぁ蒼馬、俺が音楽を、魔法の言葉って言ったこと、覚えているか?」


「覚えてる」


「その考えは、今も変わらない。でもな、それだけじゃあだめだったんだ。魔法は人が幸せになるための手段じゃない。あくまでも、その手助けをしてくれる存在に過ぎない。その力を借りてもいい、でも一番重要なところでは、それだけに頼ってはいけないんだ」


「どういうこと?」


「音楽はどんな人にも通じる魔法の言葉だ。誰かの思いや、願いを届ける素晴らしい言葉だ。だけど、音楽は、あくまでコミュニケーションの入り口に過ぎない。誰かの心を音楽がノックして、『開けて』って言うんだ。でもそこから先は、自分の言葉で伝える努力をしないといけない。俺はそこに、気がついていなかった」


「うーん」


「蒼馬、大事なことは言葉にしないとだめだ。伝えたいことがある人には、ちゃんと言葉にして伝えなさい。先延ばしにせず、面倒くさがらず。いつでも傍にいると思っていた人は、ある時突然いなくなる。その時、俺みたいに後悔しないように」


そう言うと、祖父は俺の頭に置いていた手を引っ込めて立ち上がった。そして床に散らばっていたアルバムを拾い集めたあと、「おやすみ」と言い残し、静かに部屋を出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る