第三章:二十四話
*** ***
それもまた、多分最後に祖父の家を訪れていたあの夏休み。祖父は相変わらず夜になると、布団の中で俺に色々な話をしてくれた。
家に泊まって、何日目の夜だったか。祖父が、祖母の話をしてくれたことがあった。お盆の頃だったから、祖母のことを思い出していたのかもしれない。
いつもは電気を消して、暗闇の中で俺に話を聞かせてくれる祖父が、その日は珍しく、俺が先に消していた電気をわざわざつけた。そのまま俺の枕元に腰を下ろした祖父の手には、数冊のアルバムがあった。俺は寝転んだまま、祖父の手元を覗き込んだ。
「これは?」
「これはばあちゃんと一緒に撮った写真だよ」
「どんな写真があるの?」
そう尋ねると、祖父は持ってきた中から一冊を手に取り、そのページを開いた。
「これは北欧に行った時の写真だな。オルゴール店で撮ったんだ。ばあちゃん、このお店がいたく気に入ってな」
「この人は誰?」
「ばあちゃんの横にいるのはお店の店主だよ。ばあちゃんがオルゴールを見て、はしゃいでいたら話しかけてきたんだ」
「言葉、分かったの?」
「いや、お互いさっぱりさ。向こうもすぐに、こっちが喋れないのに気がついて。そこからはもう、身振り手振りのジェスチャー合戦だった。お互い必死だったよ。きちんと伝わっていたのかも分からないけど、楽しかった」
「そっか」
「お土産にどれか一個買おうって、店をまわって。その写真に写っているのは、最終的にばあちゃんが選んだオルゴールだよ。ばあちゃんがそれを持って、店主と二人でツーショットを撮ったんだ」
「家にまだあるの?」
「オルゴールか? あるぞ。オルゴールだけじゃない。ばあちゃんと色んな所で買ったお土産は、全部とってある。この家には、ばあちゃんとの思い出の品が沢山あるんだ」
「へぇ。見たい!」
「あぁ、もちろん。でも今日はもう暗いから、また明日だな」
「分かった。じゃあ写真の続き見せて」
「じゃあ次はこのアルバムにしよう。これは四国に行った時の写真かな。電車に乗って、海を渡った」
祖父は、持ってきていたアルバムを、一冊一冊、順番に、ゆっくりとめくっていった。何度か中から写真を取り出し、まるで愛しいものに触れるように、優しい手つきでそれを撫でた。
「これは家で撮った写真だ」
「ほんとだ。ここの机と本棚が写ってる」
「ばあちゃんが作ってくれた、ご飯の写真もある」
「ご飯はいつもばあちゃんが作ってたじゃん。なんで、これは写真を撮ったの?」
「うん? あぁ、これはじいちゃんが一人旅に出たあと、家に帰ってきた日にばあちゃんが作ってくれたご飯なんだ。美味しくってなぁ。つい写真まで撮ってたよ。旅先のご飯も美味しいけど、やっぱりばあちゃんのご飯が、じいちゃんは一番好きだ」
「……俺もばあちゃんのご飯、好きだよ」
「蒼馬が遊びに来る時はばあちゃん、いつもよりうんと張り切って作ってたからな。絶対いつもより品数が多かった気がするんだよ。気のせいか?」
「俺、孫だから」
「ハッハッハ! 言うようになったな! そうだな、孫の特権だなぁ」
「これは?」
「これはじいちゃんが洗濯物を干しているところだ」
「ふぅん」
「この日の朝、ばあちゃん、一人で出かける用事があってな。家を出る前に、ばあちゃん、洗濯物を干していたんだ。だけど天気予報で昼から雨が降るって言っていたから、もしも降ったら取り込んでおいてって頼まれて。なんだけど」
「……忘れてたの?」
「読書に耽って完全に忘れていた。外で雨が降る音にも気がつかなかったんだ。そういう時に限ってザーザー降りの大雨よ」
「うわぁ……」
「帰ってきたばあちゃんに大目玉食らったなぁ。それで、『全部洗い直して干してちょうだい!』って」
「あはは……」
「それで、じいちゃんがもう一回洗濯して外に干し直してたんだけど。いつも任せきりだったから、下手くそで。ばあちゃんがいつもピシッと干してる洗濯物が、へにゃへにゃになってしまって。ああでもないこうでもないって。上手くいかなくて手間取ってたら、そんなじいちゃんを、ばあちゃんが笑いながら写真におさめてたんだ」
「じいちゃんダメダメじゃん」
「本当に。あの頃が懐かしい。ばあちゃんがいないと、だめだなぁ」
そう呟いた祖父は、しばらく黙って静かに写真を見つめていた。俺も何も言わなかった。どれくらいそうしていたか、祖父が今度は俺の頭に手を置いて、再び口を開いた。
「蒼馬。じいちゃん、一つ後悔していることがあるんだ」
「後悔?」
「ばあちゃんが死ぬ前、じいちゃん、ばあちゃんにピアノで聴かせてやりたい曲があった。それを必死に練習したよ」
「うん」
「でもな、とうとう弾けるようになる前に、ばあちゃんが死んでしまった」
そう。祖母が亡くなる少し前、祖父はかなりの時間をその曲の練習に充てていたという。それはひとえに祖母に聴かせてあげたかったからだろう。そして笑ってほしかったのだろう。
しかし無情にも、祖母が完成した祖父の曲を聴くことは叶わなかった。
祖母が亡くなったあとも、祖父はその曲の練習を続けていた。誰も聴く人のいなくなった家で、一人、ピアノに向かっていた祖父は、一体どんな思いで音を紡ぎ続けていたのだろうか。
「うん。知ってる。じいちゃん、完成した曲、俺に聴かせてくれたじゃん」
祖父は、そうして完成させた曲を一度だけ、俺の前で弾いてくれた。その日以来、祖父はピアノを弾いていない。
「ばあちゃんにも、聴かせてやりたかったなぁ」
「間に合わなかったから、後悔してるの?」
「うん? あぁ、それもある。もちろん聴かせてやれるなら聴かせてやりたかったからな。でも、それだけじゃあない」
そう言った祖父は軽く息をつき、何かに思いを馳せるように遠くを見つめた。
「あの時、俺はピアノとばかり向き合っていた。その時間を、もっとばあちゃんと向き合う時間にすればよかったって、後悔しているんだ」
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