第三章:十五話

「ごめん。雪加くん。ごめんなさい。それから、橋田くんも、ごめん」


ついに堪えきれなくなった涙が、吉村の頬を伝う。


もう、無理に笑うこともできなくなっていた。でも、それでいいと思った。心が泣いているのに、どうして笑う必要があるというのか。


吉村の心はずっと、傷ついて、傷ついて、そして泣いていたのだろう。声をあげず、ずっと。


誰にも気づかれなかった痛みはいつしか瘡蓋かさぶたになって、けれどそれはまた剥がれ、再び瘡蓋になることを繰り返して。


そうして、何層もの瘡蓋によって固く閉ざされた彼の心は、彼自身を間違った方向へ向かわせたのだろう。


「ごめんな。俺も、気づいてやれなくて、ごめん」


蛍琉の瞳からも、一筋、涙が溢れた。




*** ***




 二人の涙が乾く頃、蛍琉は吉村と橋田に向かっておずおずと口を開いてこう言った。


「あの、さ。一つだけ、俺も話したいことがある」


と。


「俺は、二人が言ってくれたみたいな大層な人間じゃないし、ずっと綺麗な心で音楽を続けてきた訳じゃない」


蛍琉の唐突なその言葉に、呆気に取られた表情を浮かべた二人は、ただ黙して言葉の続きを待っていた。


「俺、もともとは沢山の人を笑顔にしたくて音楽を始めたんだ。でも、色々あって、自分の音が分からなくなったことが何度かあって」


そこで一度、蛍琉が言い淀む。


そのあと、


一言一言、噛み締めるようにこう続けた。


「自分の音楽を、


それは、蛍琉に本心を語った二人への、蛍琉なりの誠意ある告白だった。


「俺も、俺の音も、全部消してしまいたかった。でもある時、何も消す必要はないんだって気づかせてくれた奴がいた。ぐちゃぐちゃな音も含めて、全部が未来に繋がる音楽なんだって」


蛍琉は、どこか遠くに思いを馳せているようだった。その目は一度過去を見て、一つ瞬きの後、今度は今、現在を確と映し出す。


「そいつのお陰で、何も捨てずに、大事に抱えて前に進もうって思えたから。だから、今の俺がいるんだ。全部を俺の音楽だって、迷わずそう言って歩いてこれた。だから、二人も」


そう言って言葉を切った蛍琉は、清々しい顔をしていた。


蛍琉だけではない、そこにいた全員が、気づけばどこか憑き物が落ちたように、すっきりとした表情を浮かべていた。



 吉村も橋田も、きっと自分の音を探して、彷徨っていた。分からなくて、不安になって、それでも前に進みたくて。


けれど、気づいているだろうか。そうやってもがいてきた音は、他の誰でもない、彼らが希求してやまない音。彼らだけの、彼らの音だ。


蛍琉も、もちろん俺もそう。


時に生まれる苦しみや悲しみ、痛みが詰まったとんでもない不協和音は、涙と共に流れ出た音は、しかし同時に、そこから抜け出したいと願い、もがく、彼らだけの確かな音楽。未来へ向かおうとする、彼らの命が紡ぐ音。


どうか、どうか、幸せな明日を。


そんな願いが込められた、俺たち人間の、祈りにも似た、それは。


ただ一つ、人生という名の音楽だ。

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