第二章:二十二話

*** ***



 俺は、蛍琉が泣くところを一度だけ見たことがあった。


あれはいつだったか、大学で再会して、季節はまだ完全に夏を迎える前。俺が彼宛に送ったメッセージに、一週間以上返信がなかった時があった。


情報通の明人に聞いたところによると、蛍琉は大学にも来ていないようだった。だから俺は念のため、彼の家を訪ねることにした。


大学生になると同時に、彼は一人暮らしを始めたと言っていて、それこそ何かあったのではないかと心配になったのだ。


本格的な梅雨に入る前だった。それなのに、その日は朝からバケツをひっくり返したような、ひどい雨が降っていた。


「はい」


「蛍琉? 俺、夏川だけど」


玄関のチャイムを鳴らすと、応答があったので声をかけた。


「……夏川? 何か用?」


「いや、お前最近大学に来てなかったみたいだし、どうしたのかなって」


「あー、ちょっと忙しくてさ。落ち着いたらちゃんと行くから心配しないで」


「……なぁ、ここ、開けてくれないか?」


「悪い。部屋汚いし、今日は」


「外、雨がすごいんだ。少し体が冷えた」


「……分かった」


そんなやり取りから数秒後、玄関扉を開けて顔をのぞかせた彼は少しやつれていて。俺を見ると、ちょっと困ったように笑った。


「どうぞ。散らかってるけど」


「お邪魔します」


通された部屋は彼の言う通り散らかっていた。一際目を引いたのは隅に置かれた机の上。そこには、乱雑に置かれた五線譜が散っていた。近づいて見ると、どれも何かしら書き込まれているようではあるが、ほとんどが途中で上からぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。


「部屋、恥ずかしいからあんまり見ないで。とりあえず拭くもの取ってくる。適当にどっか座ってて」


「あぁ、うん」


そう言い残して部屋を出て行った彼は、ほどなくしてタオルと湯気の出ているマグカップを手に戻って来た。


「体はこれで拭いて。あと飲み物も。冷えただろ?」


「ありがとう」


俺は蛍琉からタオルとマグカップを受け取る。床に無造作に置いてあった座布団を引っ張ってきて腰を下ろした。蛍琉も俺の向かいまでやってくると、同じように床に座した。


「心配して来てくれたのか?」


「まぁな。スマホに送ったメッセージにも返事がないし、大学にも来てないみたいだったから」


「そっか。ごめんな」


「どうしたんだよ?」


「ちょっと個人で作曲の依頼受けててさ。それがどうにも書けなくて。スランプかな。それでこんな有り様だよ。情けないよなぁ」


「お前が部屋片づけられないのは、今に始まったことじゃないだろ」


「……えぇ。落ち込んでる俺にひどくない?」


「優しくしてほしいなぁ」なんて戯けた調子の彼を無視して、俺は言葉を続けた。


「なぁ、俺今すごく眠いんだ」


「は? 唐突になんだよ。え、ここで寝たいの?」


彼が、その弱さを見せてくれたから。俺はこの時もう少しだけ、彼の心に触れてもいいと、許された気がしたのだ。だから。


俺は手にしたマグカップを机に置いて立ち上がると、静かに蛍琉の背後にまわった。そうして今度は、彼と背中合わせになるようにして、同じく床に座り込む。座布団がないから、少しお尻が痛かった。


「だから俺は多分、これからお前が何を言っても、次に目を開けた時には覚えていないよ」


それだけ言って、俺は本当に目をつむった。部屋はしんと静まり返り、雨の音と、二人の呼吸音だけが聞こえた。そうしてどれくらいの時間、そのままでいただろう。ふいに蛍琉の声が小さく、俺の耳朶を打った。


「……今回依頼された曲、悲劇を題材にしたオペラの楽曲なんだ。大金持ちの家族が、遺産争いで離散してくの。その家の三兄弟にスポットライトがあてられた物語。昔はみんなで笑いあってた子どもたちが大人になって、いがみ合って、互いを憎んで憎んで、その果てにバラバラになっていく。求められる曲も暗くて、悲愴で、陰惨な感じでさ」


そこまで一息に言って、蛍琉は一度口をつぐんだ。それからしばらくして、再び彼の声が聞こえる。


「設定としてはありがちだよ。でもさ、本当にどんどん壊れてくの。俺が作った曲に合わせて、兄弟たちが、一人、一人」


「……」


「子どもの頃さ、俺がピアノを弾いたら母さんが笑ってくれた。曲を作ったら父さんが褒めてくれた。姉さんとはよく連弾した。ピアノをやってたら嬉しいことがいっぱいあったし、なにより楽しかったよ。でもいつからかさ、俺が音楽にのめり込んでいくことで、父さんと母さんが、時々喧嘩するようになったんだ。うち、離婚してるだろ? もしかしたら俺のせいで、家族は壊れていったんじゃないかって。そうじゃなくても、俺の音楽が、きっかけくらいにはなったかもしれないって。当時、思ったことがあって」


これまで、蛍琉が両親の離婚について、心中を俺に語ったことは一度もなかった。この日は多分、その一端を俺に語ってしまうくらい、弱っていたのだろう。


「その時の嫌な感じを、じわじわ思い出して。また、俺の音楽のせいで何かが壊れるんじゃないかって。そう思ったらこわくなって、何も書けなくなった」


「蛍琉」


「俺、みんなに笑っててほしいんだ。音楽で、みんなを笑顔にしたかった。それなのに俺のせいで。結局、俺の音楽は……」


「蛍琉。だめだ」


俺はとっさに振り返って、蛍琉の肩を掴んでいた。


「それは違う」


「……」


「人を呪ったり、貶めたり、そういう悪意を持って作った曲じゃないなら、奏でた音楽じゃないなら、それは誰も不幸にしたりしない。……俺たちはいつでも笑っていられる訳じゃない。良い時も悪い時も、そこに見合う曲があったっていいだろ。その曲がいつか、ハッピーエンドに繋がる曲なら、多分、きっと、それでいい。いいはずなんだ」


「……」


俺はまくしたてるように、ただ、言葉を繋げた。こんなに饒舌なのは、普段の俺では考えられない。それだけ必死だったのだ。


あれ以上、彼が言おうとしていた言葉を言わせてはいけないと思って、必死だった。


「オペラはその兄弟の、人生の一部を切り取ったものに過ぎない。幕が降りた先に待つ未来は誰にも分からない。だから今は、彼らのどろどろした心に寄り添う曲を作ってやったらいいんだと、俺は思う。綺麗じゃない所だって、彼らの人としての姿なんだから。否定せず、寄り添うこと。それが彼らにとって、きっと何よりの救いになる」


そして、その先で、彼らがいつか幸せな未来を迎えられるように祈ればいい。その祈りを織り込んで、蛍琉は曲を作ればいい。


悲劇として描かれる”今”は、いつか必ず”過去”に変わる。その時、三人がそれぞれその過去を拾って、抱えて、そうしていつか、自分の足で、明るい未来に進むことができますように。


彼らはきっと、今をもがいて、生きている。憎しみも、恨みも、後悔も、悲しみも、一抹の寂しさも、そんな悲劇に似合う感情全部を抱えて。三人の兄弟が、その人生の舞台で生きている。そんな彼らの今に寄り添う曲が、無理に明るく楽しいものである必要はない。むしろ、蛍琉の言う”暗くて、悲愴で、陰惨な曲”が、彼らを救うこともあるだろう。


それに


俺はどんな曲でも、お前が作ったお前の曲ならきっと好きになるよ。


そう、思った。でも気恥ずかしさが勝って、それは言えなかった。


「……夏川、まだこっち向いてる?」


俯いたままの彼はそう聞いてきた。だから俺は、再び彼に背中を向けた。


「いや、もう向いてない。俺は反対を向いて寝てる。しばらくは起きないよ」


そのあと、彼は静かに声をおし殺して泣いていた。嗚咽は聞こえなかったけれど、かすかに背中越しに彼の震えが伝わってきた。


そうして再び静まりかえった部屋で、俺の耳には雨の音と、俺たちの呼吸音と、それから時々、彼が鼻をすする音が聞こえてきた。


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