第一章:三話

*** ***



 あれよあれよという間に彼のペースにのせられ、気づけば俺たちは今、一台のピアノの前に長椅子を分け合う形で座っていた。

 

「この病院、子どもも沢山入院してるみたいでさ。院内学級があるんだって。知ってる? 病気で学校いけないやつらの、学校代わりの場所」


「あぁ。規模のでかい病院だったら、最近は設置されてますよね」


「つまりその部屋にピアノがある」


「うん?」


「だから、そこでこの曲弾いてやるって」


「いや、そもそもあなた、脚骨折してるし、手にも包帯巻いているじゃないですか」


「だからお前に聞いたんだよ。ピアノ弾ける? って。俺、ご覧の通り今左手は包帯でぐるぐるに巻かれてて使いものにならないし、右脚骨折してるからペダル踏めないの。でも連弾ならいけるだろ」


「……は?」


「あと、同級生……なんだよな? タメでいいよ。畏まられると、なんだかむずむずして落ち着かない」



 これが楽譜をぶちまけた後、病室で交わされた会話のハイライトであり、俺たちが今こうしてピアノの前に座っている理由だ。


そして、俺がピアノの前にいることから既に察しているかもしれないが、俺自身、ピアノの経験者だ。小学生の頃に始めて、ほんの数ヶ月前までは趣味程度には弾いていた。しかし、高校に進学する少し前、がきっかけで、俺はピアノをやめていた。


「じゃあ俺は右手担当。お前は左手で和音と、あとペダルも頼んだ。えっと……」


「なんですか?」


敬語で返すと、明らかに不服ですといった表情で彼がこちらを見る。そんな顔をすると、小柄で少々華奢な見た目も相まって、幼い少年のようだ。


「いや、名前」


その言葉に、今度はこちらが不服ですという表情で返してもいいだろうかと思ったが、多分、いや、結局表情には出さずに堪えた。それでも一応


「さっき名乗ったと思うんだけど」


と前置きをしておく。


「……そうだっけ?」


すると彼は驚いたような顔をしたあと、うんうんと唸り始めた。本気で覚えていないらしい。聞いていなかったのだろう。


「夏川。夏川蒼馬っていいます。蒼馬は草冠の”あお”に動物の”うま”って字」


「なつかわ、夏川か。へぇ。いい名前だな。夏の澄んだ空気みたい。俺は雪加蛍琉。よろしく」


名前を知って満足したのか、今度は一転、明るい声が返ってくる。無邪気に笑う彼の姿に、その時、なぜだか目が離せなかった。


「じゃあ、自己紹介も終わったし、さっさと始めようか」


そんなこちらのことなど露知らず、蛍琉と名乗った彼は、さっさと視線を俺からピアノに戻してしまった。彼が鍵盤に指を置く。その途端、空気が変わった。


これから、音楽が始まる。


それだけではない、俺の中でも何かが始まる、そんな予感がした。

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