第一章:二話
俺も数回訪れたことのある病院に、件の生徒は入院していた。ただ、訪れたことがあるとは言っても、それは外来の受診歴のことである。この日の目的地である入院病棟には、俺も初めて足を踏み入れる。そのためだろうか、気持ちが落ち着かない。
病院の受付で、その生徒の病室は九階にあると教えてもらっていたのだが、八階以上に上がるためには別のエレベーターへの乗り換えが必要だなんて知らなくて、一度道に迷った。
なんとかたどり着いた病室の扉の前。無駄にそわそわして、俺はなかなか扉を開けることができなかった。しかしそうは言ってももう今更だから、さっさとプリントだけ渡して帰ろうと決意を固め、目の前の扉を勢いで開けた。
「すみません」
自分の中では勢いをつけたつもりが、どうやらその意思は俺の手にきちんと伝達されていなかったらしい。実際はそろりそろりと扉が開いて、中を伺う形となった。
全体的にクリーム色で統一された部屋は個室で、これといって広くも狭くもない。ベッドが一つとチェストが一つ。収納用に置かれた棚の最下段には小型冷蔵庫と、二つ上の段には同じく小型のテレビ。窓際には見舞客用の椅子が一脚、無造作に置かれていた。
部屋の主はというと、俺の声には気がついていない様子で、ベッドの上に起き上がって何やら一心不乱に手を動かしている。この様子だと、近づかなければ認識してもらえなさそうだ。
「あの、入りますね」
声はかけたのでとりあえず中に入る。近くまで来ると、その人が何をしているのかようやく見えてきた。ヘッドホンを片耳にあて、もう片方の手でベッドに取り付けられた机の上、そこに無造作に置かれた白紙の紙に何やら書き込みをしている。
集中しているところ悪いが、こちらも用を済ませないと帰ることができない。だから横からもう一度、わりと大きな声で話しかけた。
「あの、すみません」
と、いきなりの雑音に驚いたのか、”彼”はびくりと肩を震わせ、はじかれたようにこちらを見上げた。その動きに合わせて淡い茶色の、ふわふわと柔らかそうな髪が揺れ、耳にあてられていたヘッドホンが手から落ちた。そうすると、それらによって隠されていた顔が顕わになる。
その段になってようやく俺は、その彼が入学式の日、あの駅で出会った”彼”であることに気がついた。驚いてとっさに「あっ」と声が出そうになったが、すんでのところで飲み込んで。誤魔化すために咳払いを一つ。それから、なんでもないように切り出した。
「えっ、と。はじめまして。俺、あなたのクラスメイトの夏川っていいます」
ポカンとした表情を見せた彼は、未だ状況が理解できていないようだった。こちらを見上げたまま固まっている。それはあの日、ピアノに向かっていた涼しげな表情とはまるで違い、なんだかとても幼く見えた。
「俺、あなたの隣の席で、その……担任の先生からプリント預かったので。これ」
俺以外に喋る人がいない部屋に、沈黙が積もっていく。部屋のどこかに置いてあるのだろう、時計の秒針が時を刻むカチ、コチ、という音が、嫌に耳についた。
それが数秒、段々と耐えられなくなって、俺は視線を彼から自分の鞄に移した。気まずさを誤魔化すように、わざとガサゴソと音をたてながら、担任から預かったプリントを鞄に突っ込んだ手で探る。そうしてやっと掴んだそれを、無造作に彼に差し出した。
「はい。じゃあこれで」
言いたいことは他にもあった気がしたが、どれもこれも言葉になってはくれなかった。俺はこの如何とも言い難い空気から一刻も早く解放されたくて、部屋から出るべくさっさと彼に背を向けた。
差し出されたプリントを反射で受け取った彼は、しばらくそれをただぼんやりと見つめていた。しかし、俺の動きに気づいてようやく我に返ったらしい。
「あ、いや、ちょっと待って」
背中に声がかかる。後ろから制服が引っ張られ、つんのめるように体が傾いだ。
「うわっ」
そのまま俺の体は半回転してバランスを崩し、支えを求めた腕は宙を彷徨った。ダンッという音とバサバサッという音がほとんど同時に耳に届く。それは、俺が机で腕をしたたかに打ち、その衝撃で机上の紙が床に散った音だった。
「あ、ごめんなさい」
その声に改めて彼の顔を見ると、困惑の表情がありありと浮かんでいる。とっさに机についた腕で体を支え、少しかがむような体勢になっていた俺は、その彼を見上げる形となった。そこからだと彼の表情がよく見えた。
「いえ、大丈夫です。それより、紙」
俺の言葉で、床に散らばった紙の惨状に気づいた彼が、「あっ」と小さく声をあげた。
「拾いますね」
俺はそう言ってしゃがみ込み、散らばった紙に手を伸ばす。拾おうとしたそれらの、一枚が目に留まった。
「……楽譜?」
白い紙だと思っていたのは五線譜で、そこに書き込まれていたのは音符の羅列だった。わりと雑に配置されたそれらと、無造作な消し跡。
「作曲途中のやつなんだ、それ」
五線譜の束を拾って手渡すと、彼はそう言って照れ臭そうに笑った。
「ここまでは上手くいったんだけど、続きを思いつかなくて煮詰まってた」
すらりと伸びた白い指が、順番のバラバラになったそれを手早く捲る。そうしてもとの並び順に戻したあと、最後のページらしき一枚を俺に指し示した。
「どんな曲?」
「え?」
「あ、いや、その」
自然と湧いた興味に、自分でも驚く。聞くつもりなんてなかったのに。自分の言葉に困惑する俺をよそに、数回目をしばたたかせた彼は、少し考える素振りを見せた。そのあと何を思いついたのか、期待するような目をこちらに向けた彼は一言、こう言った。
「なぁ、ピアノ、弾ける?」
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