懐玉・玉折

94.懐玉―壱―


 ――その夏は忙しかった。


 毎年のように記録更新される猛暑の影響も有ったのだろう。

 生まれつき身体が弱く、入退院を繰り返していた三つ下の妹の再入院が決まり、両親はその準備で忙しそうに動き回っていた。


『ごめんね、春香はるかがまた体調崩しちゃって……冷蔵庫に夕飯作ってあるから、温めて食べてくれる?』


 小学4年生になったばかりの息子に、一人を強いることに罪悪感を感じている様子の母親の声。

 病院からの電話越しに届く母親の疲れた声に、聞き分けの良い方だった自分は明るい声を作って頷く。


「うん、俺は大丈夫だから。母さんは春香はるかの側に居てあげて」


 クラスメイトの皆は知らない。独りで食べる温め直した夕食の味。

 栄養補給の為だけに、味のしない雑巾を丸呑みしているような。


フユキ・・・、いつもお留守番させてごめんね』

「ううん、春香はるかも頑張ってるんだから。俺も頑張らないと」


 今日も独りで夕食。

 食べる。飲み込む。

 食べる。飲み込む。

 自分の境遇なんて、別に何も珍しくない。

 両親からの愛情だってちゃんと感じているし、むしろ恵まれている方だ。

 両親から愛され、運動も勉強も人並み以上に出来る自分は、その分だけ他者を思いやらなければいけないのだ。

 あの日から自分に言い聞かせている。


 あの日から――



 ***



 出会いの切っ掛けは、そんな夏のある日のことだった。


「ちょっと男子~! ちゃんと掃除しなさいよー!」

「あはは、わりーわりー」


 掃除の時間。

 真面目に掃除をしない男子と、それに憤る女子。

 そんなテンプレートめいた光景に苦笑いしつつ、俺――来島くるしま 冬木ふゆきは、男子と女子の間を取りなそうとする。


「まあまあ。お前ら男子もそろそろ掃除しないと、先生にHRで吊し上げくらうぞー」

「そうよ! あんた達も来島くんを見習いなさいってば!」


 俺が女子側に付いたことに、注意された男子たちが憤った様子でこちらに食って掛かる。


「なんだよー! 来島は女子の味方かよー!」

「来島エロなのかー!」

「……とばっちりでサッカーの時間減らされたくないだけだっての。女子の言うことなんて適当に流し――」


 ――不味い。口が滑った。

 俺の失言に、女子の一人が目を吊り上げて詰め寄ってくる


「ちょっと来島くん! それってどういう意味!」

「ああ、いや。今のは言葉の綾っていうか……」

「いいぞー来島! もっと言ってやれー!」

「女子は引っ込めー!」

「なんですってぇ!」


 そこから先は男子と女子の間で売り言葉に買い言葉。

 この年頃の男女にありがちな事とはいえ、お互いに敵意を抱きがちだった両者を取りなすのは、ちょっとやそっとの事では叶いそうになかった。

 既に事の中心から外されていた俺は、教室の隅で頭痛を堪えるように頭を抱えた。


「あー、くそっ……どうしてあんな事を……」


 ……いや、分かっている。

 ここ数日、両親は妹に付きっきりで、自分は放置されていた事に対する不満感からか、攻撃的な言葉が口をついて出てしまっていたのだ。


「……病弱な妹を言い訳に使ってるんじゃねえぞ。クソやろー」


 自己嫌悪に、悪態が不快感と共に零れ落ちる。

 妹は――春香はるかは何も悪くない。

 父さんも母さんも大変なんだ。一番余裕のある俺が我慢しないでどうする。


 そうだ。俺はもっと相手を思いやってあげなければ――



「――来島くん、今のは良くなかったよ~」

「ん?」


 火付け役になってしまった自らの失言を悔いている俺の隣に、一人の女子がやって来てそっと声を掛けてきた。


「――音虎? いや、すまん。こんなつもりじゃ無かったんだが……」

「分かってるよ。来島くん、いつもは男子と女子の調停役みたいな感じだもんね」

「……やりたくてやってる訳じゃねーけどな」


 綺麗な黒髪を揺らしながら、クスクスと笑う女子――音虎ねとら 玲子れいこの姿に、俺はバツが悪そうに頭を掻いた。


「つーか、お前も笑ってないで何とかしてくれよ。音虎は女子達のリーダーだろ?」

「いやあ、ここまで場が荒れちゃうと私でも無理だよぉ」


 俺がクラスの男子達のリーダー役であるのと同じように、音虎は女子達のリーダーのようなポジションの人間であった。

 同じような立ち位置という関係から、たまに雑談を交わしたりはするが、そもそもクラス内の男女が割と険悪な関係のために、そこまで親しい間柄では無かった。


「でも、正直いい機会だと思うよ?」

「何がだよ?」

「裏でチクチク突つき合うより、ちゃんと正面からお互いにぶつかった方が、少しは男子と女子の関係性も改善されるんじゃないかな~って」

「そーいうもんかねぇ」

「そうだよ。それに、折角同じクラスになれたのに、クラスメイト同士が仲悪いのは嫌だよ。私だって、男子の皆ともっと仲良くしたいもん」

「ほーん……」


 まあ、もっとも音虎はこの見た目だ。本人が誰とでも別け隔てなく接する品行方正な善人で美少女ということもあり、このクラス内では数少ない男子と友好的な関係を築いている女子でもある。たとえ男子から悪態をつかれることは有っても、言うほど嫌われてはいないというのが実情だろう。


「そこまで言うなら勝負しろ勝負!」

「いーわよ! やってやろうじゃない!」


 そうこうしている間に、男子と女子の口論は益々ヒートアップしていた。

 どう収めたものかと頭を悩ませている俺と音虎に向かって、クラス中の視線が集中する。えっ? なになに? 


「来島! 女子に目にもの見せてやってくれっ!」

「玲子ちゃん! 男子に身の程を分からせてやってちょうだいっ!」


「「……はぁ?」」


 俺と音虎は顔を見合わせると、異口同音に声を上げた。

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