67.絶望の始まり
「見て見てチーちゃんっ! お庭にプールも有るよっ。グランピングって凄いんだねー」
「み、耳元ではしゃぐなっ。暑苦しいんだよっ」
こちらの腕にまとわり付いてくる
夏休み、恒例の田舎への帰省。
今年はその期間中に、数日間だけ近場のアウトドアホテルへと、俺とレイの一家は宿泊に来ていた。たまには家族サービスらしい事をしたいという俺の親父と、レイの父親が結託しての経緯である。
「ごめんなさいね千尋くん。レイったら、ずっと千尋くんに会えるのを楽しみにしてたから、少しはしゃいじゃってるみたい」
「あー……いえ。大丈夫っすよ、おばさん。毎年のことなんで、流石に慣れてます」
レイの母親からの言葉に、俺はどうしようもなく浮ついてしまう心を押し隠す。
たとえ恋愛的な意味合いが無いと分かっていても、好いている女子にそんな風に思われているという事実は、思春期の心をかき乱すには十分だった。
「ねえねえ、お母さんっ。荷物置いたら、チーちゃんとお散歩に行ってきてもいい?」
「もう、仕方ないわねぇ……千尋くん、悪いんだけど、お願いしてもいいかしら?」
レ、レイと二人きりで散歩……
願ってもない展開に、小躍りしたい心地を悟られないように、俺は平常心でレイの母親に返事をする。
「ええ、大丈夫っすよ。昼飯前には戻るようにするんで」
「ありがとうね。レイも、千尋くんに迷惑かけちゃ駄目よ?」
「分かってまーす。チーちゃん、早く早くっ」
「待て待て、虫除けとかちゃんと準備しろって」
ぐいぐいとこちらを引っ張るレイに、俺は虫除けスプレーを押し付けて制止する。
それにしても、落ち着きの無い奴だ。これで学校では品行方正な優等生で通っているらしいのだから、よほど猫を被るのが上手いのだろう。
ワンピースの胸元や、露出している腕にスプレーをしているレイを眺めながら、そんなことを考えていると、不意にレイがスプレー缶を俺に押し付けてきた。
「チーちゃん、首の後ろの方お願いしてもいい?」
背中にかかった黒髪をかき上げて、白いうなじを露出させたレイがそんなことを言ってきた。
「し、仕方ねえなー……」
「ふふ、ありがとー」
レイの髪からフワリと漂うシャンプーの香りと、透き通るような白い肌の眩しさに、俺はクラクラしそうになる意識を歯噛みして繋ぎ止める。
……本当に無防備な女である。
男なんて、すぐに勘違いする生き物なのに、こんなんで大丈夫なのだろうか。
無自覚に、そこら中の男子の情緒をグチャグチャにしていそうな従姉弟に、俺は小さく溜息を吐いた。
「あらあら。これじゃあ、レイと千尋くんのどっちが年上なのか分からないわねぇ」
のほほんと、そんな事を言うレイの母親。
俺が言うのも何だが、この人も大概にゆるいんだよなぁ。
いくら従姉弟とはいえ、一つしか歳が違わない男相手に対する娘の無警戒さに、少しは危機感を覚えたりしないのだろうか。まあ、それだけ信用されているとも言えなくはないが……
「それじゃあ、行ってくるね。お母さんっ」
「あんまり遠くまで行かないようにねー」
レイの母親の声を背中に受けながら、俺とレイはホテルの一室みたいなテントを後にした。
***
「夏だし、もっと暑いかと思ったけど、結構涼しいねー」
「ここ標高高めだしな。日陰とかなら、普通にエアコン要らずだな」
そんな他愛のない雑談を交わしながら、山野草が群生するエリアを、レイと二人でテクテクと歩いて行く。
「テントは広いし、大きなお風呂もあるし、何だかキャンプって感じがしないね」
「快適なんだから良いだろ。キャンプらしさなんて、バーベキューぐらいで俺は十分だよ」
「んー、私はもう少し不便でも良いけどな。ユウくんと昔行ったキャンプとか、大変だけど楽しかったし」
「……ふーん」
……また、そいつか。
"ユウくん"
目の前の少女が、特別な感情を向けていると思わしき男である。
幼い頃からの友人らしいが、付き合いの長さならば、俺だって負けていない筈だ。
「ユウくんのお父さんがキャンパーでね。小さい頃はたまに連れて行ってもらってて――」
レイの言葉に曖昧な相槌を打ちながら、俺は自分の胸に黒々とした何かが渦巻くのを感じた。
俺とそいつの違いなんて、たまたま暮らしていた場所がレイの近くか、遠くか程度の筈だ。
俺の方がずっとずっと……俺の方が先に、レイのことを好きになった筈なのに。
***
「ぼく、おおきくなったら、レイねーちゃとけっこんする!」
幼い頃の記憶。
朧げではあっても、決して忘れることは無かった恋の始まり。
優しく、美しい少女に抱いた無邪気で曖昧な好意に、レイは優しく微笑んでくれた。
「あは、嬉しいなぁ。……それじゃあ、チーちゃんが大きくなったら、お姉ちゃんを迎えに来てね?」
「うんっ! おおきくなったら、レイねーちゃにプロポーズしにいくっ!」
「うふふ。ありがとう、チーちゃん。楽しみだなぁ。
待 っ て る か ら ね ? 」
その時の少女の笑顔と、眩く輝く白い歯を、俺は今でも昨日の事のように思い出すことが出来た。
***
「――もうっ、チーちゃん? ちゃんと聞いてる?」
「……ああ、わり。全然聞いてなかった」
「んもーっ! 女子の扱いが雑っ! そんなだと、好きな子にそっぽ向かれちゃうんだからねっ!」
そっぽを向かれる、ねぇ。
「……関係ねぇよ。こっち向かないなら、頭掴んで無理やり向かせてやる」
「ん? チーちゃん、何か言った?」
「別に。そろそろ昼だし、腹減ったから戻ろうぜ」
そう言って、俺はレイの手を掴むと、来た道を戻る。
「わっ。チーちゃんから手を繋いでくれるの、久しぶりだなぁ」
「……嫌なら、離すけど」
「ううん、いいよ。このままで。……ふふ、ちっちゃい頃を思い出すなぁ」
……どうせなら、幼い頃のプロポーズの約束も思い出してくれ。
そうすれば、この鈍感女も少しは俺のことを意識してくれるだろうよ。
そんな益体もない事を考えながら、俺は涼しげな風が吹き抜ける草原を歩くのだった。
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