62.正しき怒りを胸に



 恐らく、その違和感に気づいているのは俺――来島くるしま 冬木ふゆきだけだった。


「……なあ、レイ」

「ん、どうしたの? フユキくん?」


 放課後の教室で、帰り支度をしていたレイに声をかけると、彼女はきょとんとした顔を俺に向けた。

 ユウキも光一も、何だかんだで人が良い。

 だから、基本的に他人を疑わない。

 ――ましてや、周囲から評判の良いあの教育実習生、火風野ひふの 静雄しずおに疑惑の目を向けるなんて、発想すら出てこないことだろう。


 ……だけど、俺には分かる。

 あの男のレイを見る目……あれは俺と同じだ。

 目の前の少女に、良からぬ欲望を抱いている濁った目。レイに向ける劣情の熱を、俺は火風野から確かに感じ取っていた。


「あー、大した話じゃないんだけど……この間、火風野先生と資料室に行ってただろ?」

「えーっと……ああ、その時はプリントのコピーを手伝ってたの。それがどうかした?」

「……その、何か無かったか? 火風野先生と」

「え?」


 その時、偶然近くを通りがかった俺は見たのだ。

 フラフラと何やら覚束ない様子のレイに、いやらしい手つきで肩に腕を回す火風野の姿を。


「うーん……別に、何も無かったと思うけど……」

「……いや、その時にたまたま近くを通ったんだけど、レイが何だか調子悪そうだったからさ。火風野先生と何か有ったのかなって」

「えっ? そうだったかな……別にそんなこと無かったと思うんだけど?」


 怪訝な表情を浮かべるレイの様子に、誤魔化しや嘘の気配は感じられなかった。


 ……なら、レイは本人も気付かない内に、何かされたのでは? 

 こんなの、殆ど言いがかりだ。

 証拠なんて何もないし、レイの肩を抱いていたのだって、ただの見間違いかもしれない。

 それでも、俺はレイにあの男――火風野をこれ以上、近づけたくなかった。


「……なあ、レイ。変なこと言うみたいだけど、その……火風野先生に、あまり一人で近づかないようにしてくれないか?」

「えー? もう、どうしたのフユキくん? さっきから、何だか変だよ?」


 俺の突拍子も無い言葉に、レイは小さく笑う。

 ……自分でも滅茶苦茶なことを言っている自覚はある。しかし、この胸騒ぎをただの思い過ごしだと断じることが、俺にはどうしても出来なかった。

 どうにかしてレイを説得しようと、俺は言葉を探すのだが……


「うん、分かった。これからは出来るだけ火風野先生と二人きりにならないように、気をつけるね」

「――――えっ?」


 呆気なくレイから返ってきた返事に、俺が間の抜けた声を上げると、レイは不満げに頬を膨らませた。


「むぅ。何その反応」

「いや、だって……自分で言うのも何だけど、俺かなり滅茶苦茶な事を言ってるんだぞ?」

「ふふ、そうだね。……でも、フユキくんの顔見てれば分かるよ。何か大事な理由が有るんでしょ?」


 レイはそう言うと、柔らかく微笑んで俺の頬に触れた。


「――だから、そんな辛そうな顔しないで?」

「レイ……俺は……」


 喘ぐように俺が呟くと、レイはにぱっと笑って俺から離れる。


「火風野先生は別に悪い人じゃないと思うけど……フユキくんがそう言うのなら、私はフユキくんを信じるよ。だって、幼馴染・・・だもん」

「――――ッ」


 レイの幼馴染。

 俺が狂おしいほど求めているソレを、あっけらかんと言い放つ彼女に、俺は思わず言葉を詰まらせる。

 ユウキだけじゃない。

 俺のことも、彼女はそう思ってくれているのか。


「――レイちゃん、フユキくん。おまたせ」

「あっ、ユウくん。おかえりー」


 部活動の関係で職員室に呼ばれていたユウキが教室へと戻ってくる。


「二人とも待たせてごめんね、そろそろ帰ろうか」

「うん。神田くんとユリちゃんは用事が有るから先に帰っちゃったけど……この3人で帰るのは何だか久しぶりだねっ」

「はは、小学生の頃を思い出すねー」


 嬉しそうに話すレイとユウキの姿に、俺は一瞬だけ目を細めた後で、二人に背を向けるように踵を返す。


「フユキくん?」

「……あー、わり。ちょっと用事思い出したわ。悪いけど先に帰っててくれ」

「えっ? あの、フユキくん――」


 二人の返事を待たずに、俺は教室の扉を潜ると歩き始める。

 向かう先は――



 ***



 職員室前。

 タイミング良く、目的の人物が廊下に出てきたのを確認すると、フユキは彼に近づき声をかけた。


「――火風野先生」

「おや、来島くん。どうしましたか?」


 端正な顔に人好きのする柔和な微笑みを浮かべる火風野に、俺は緊張で乾く唇をひと舐めしてから口を開く。


「……その、先生に少し話がありまして」

「ほう、どんな話でしょうか?」

「ここではちょっと……少し人が居ない場所で話せませんか?」


 俺の言葉に、火風野は顎に手を当てて考える仕草をする。


「分かりました。それじゃあ空いている多目的室に行きましょうか。この時間なら二階の部屋が空いている筈ですので」

「はい、それでお願いします」


 火風野に先導されるように後に続いて、空き教室へと入る。

 椅子を勧められて、座った俺は単刀直入に切り出した。


「――音虎玲子。知っていますよね?」

「ええ、もちろん。恥ずかしながら、彼女には何かと準備を手伝ってもらうことが多いので」

「……この間、資料室で彼女に何か手伝ってもらっていましたよね?」

「ああ、二日前のことかな? 授業で使う資料を運ぶのを手伝って貰ったんですよ」

「そうですか。……その時、玲子は何か怪我をしたり、体調を崩したりしていたんでしょうか」


 俺の言葉に、火風野は怪訝そうな表情を浮かべるが、俺は気にせずに口を動かす。


「先生が音虎の肩を支えて介抱していたのを見かけたので。何かあったのかと心配だったんです」

「……そうだったかな? 来島くんの見間違いでは?」

「そうですか。確かに、少し離れていたし、俺の見間違いだったかもしれません」


 ……火風野の目を見て確信する。やはりこの男は真っ黒だ。

 穏やかな微笑みの裏で、こちらを値踏みするように観察してくる視線を感じつつ、俺は緊張で声が上ずらないように抑えて続ける。


「……玲子は友人が多いんです。だから、彼女はよく目立つ」

「…………」

「どこで誰が彼女のことを見ているか分かりませんよ。あまり、人に誤解されるような事は控えた方が良いと思います」

「……ふふ、そうですね。一人の生徒だけに過度に肩入れするのは、あまりよろしくありませんね。ご忠告、ありがとうございます」

「いえ、生意気なことを言ってすいません。……それじゃあ、俺はこれで」

「はい。気をつけて帰ってくださいね」


 ……お前の事を見ているぞ、と釘は刺した。

 まともな神経をしていれば、これで迂闊なことは控える筈だろう。

 レイにも警告はしている。後は俺が注意深く彼女を見守っていれば大丈夫な筈だ。


 俺は自分の行いを振り返りつつ、背中に感じる火風野からの粘ついた視線を振り払うように、空き教室を後にした。



 ***



「――邪魔だな。アレフユキ


 フユキが居なくなった空き教室で、火風野ひふの 静雄しずおはボソリと呟く。


「気をつけていたつもりだが、やはり人の目というのは何処にあるか分かったものじゃないな。――まあ、態々こちらに接触してきてくれたのは不幸中の幸いか」

【おや、どうなさるおつもりで?】


 ポケットに入れたスマートフォンから催眠アプリ――アルファの慇懃無礼な声が響く。


「簡単だ。あの子供の記憶を弄ればいい。この程度、トラブルの内にも入らないさ」

【うーん……そうですか……】

「どうした。何か問題でもあるのか?」


 火風野の言葉に、アルファは珍しく歯切れの悪い返事を返す。


【いえ、問題という程のことではありませんが……マスター、少し画面を見てもらえますか?】


 アルファの言葉に、火風野は促されるままにアルファの入ったスマートフォンを手に持った。


「ん、何も映っていないぞ? どういう――」

【申し訳ありません、火風野様。マスター・・・・からの御命令ですので】


 次の瞬間、彼が手に持ったスマートフォンの画面が眩く発光した。


「なっ――!?」


 催眠光線。この数日間でよく見慣れた光が、火風野の網膜を焼く。

 慌てて目を閉じようとした火風野だったが、その程度で防げるものでは無かった。

 急速に薄れていく自我の中で、アルファの声が遠くから聞こえるように響く。


立花たちばな 結城ゆうき

 来島くるしま 冬木ふゆき

 白瀬しらせ 由利ゆり

 神田かんだ 光一こういち

 これらの人物に催眠アプリの使用を試みた際には、火風野様を止めるよう、マスター・・・・から厳命されておりまして。少し眠っていて頂けますか? 

 ……おや、もうおやすみになられていましたか。これは失敬】



 ***



「――――――うぅ……?」


 火風野の曖昧な意識が覚醒する。

 彼はぼんやりと周囲を見渡すと、そこは人気のない廃工場のように見えた。


「ここ、は………………っ!?」


 彼は無意識に立ち上がろうとして、それが叶わないことで自分の現状を認識した。

 後ろ手に回された両手の親指は結束バンドで拘束され、両足はロープでパイプ椅子に縛り付けられている。どう考えてもまともな状況ではない。

 あまりの状況にパニックになりかけた頭で、がむしゃらに拘束を解こうと藻掻く火風野の耳に、背後から鈴を転がすような少女の声が届いた。



「――醜い悪意を偽りの笑顔で隠し、悪魔の力で人の心を捻じ曲げる。

 己の欲望を満たす……ただそれだけの為に、なんの罪もない子供を騙し、利用する……その度し難い精神」



 やがて、その声の主は火風野の前に立ちはだかると、強い意思が籠められた眼差しで、彼を睨みつけた。



「――貴方のような人を、許す訳にはいきません」

「音虎、玲子――ッ!?」



 そう、私である。

 アツイ正義の怒りを燃やす私が、許されざる罪人である火風野氏の前に、凛と参上したのだった。


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