第668話 閑話 乱心
――清洲城。
守護
次々に逃げ出す兵。
見通せぬ将来。
味方になってくれるような勢力もいない。
いずれ、尾張中の兵が清洲城に攻め込んでくるはず。
これで冷静さを保てというのが無理な話だろう。
端から見れば、彼も憐れな男である。家臣の勝手な暴走により大逆人となってしまったのだから。
だが、もはや尾張国で信友に同情する勢力はない。
「ええい! 義銀は! 義銀はまだ見つからんのか!?」
尾張守護斯波義統の嫡男・義銀。彼を確保して次代の守護に据えることができればまだ何とかなるというのに。この使えない家臣たちはまだ義銀を捕まえられていないのだ。
「は、はは、」
「追跡していた者の死体を発見したとのことですので……おそらく逃げられたのかと」
恐る恐るといった様子で報告する河尻与一と織田三位。そんな彼らの態度がますます信友の怒りに油を注ぐ。
「使えない連中だ! 兵はまだ集まらんのか!?」
「も、もうしばらくお待ちを。やっと集まりましたので、あと半刻(一時間)もすれば出陣できるでしょう」
「いくら信秀とて人の子。一報を受けてすぐに兵を集めることはできませぬ。準備が整わぬうちの那古野城強襲は間に合うかと」
「……それもそうよな」
やっと冷静さを取り戻したか、あるいは怒鳴ることにすら疲れたのか。なんとか深呼吸をする信友であった。
彼もまた戦国の世に生まれ、戦国の世を渡り歩いてきた男。信秀が兵を集めるのにどれほどの時間が掛かるかは理解している。半刻後に出陣し、まだ準備の整わない那古野城を攻め落とすのは何とかなるはずだ。
もちろん、那古野城が普請(拡張工事)中であることは信友も掴んでいるが……彼はもう知らぬふりをするしかない。――やるしかないのだ。むしろ普請途中で完成していない現状が幸運であったと思うしか……。
「――ご、御注進! 軍勢が、軍勢がこちらに向けて進軍中!」
「なに!? どこぞの国人が裏切ったか!? 誰の旗だ!?」
「お、織田木瓜に御座います!」
「な――」
思わず絶句する信友。
織田木瓜。
それは尾張守護・斯波義統から織田信秀に与えられた旗印。
――信秀が来た。
とうの昔に末森城を発ち、この清洲城へとやって来たのだ。
「な、馬鹿な!?」
「末森城からここまで、こんな短期間で来られるはずがない!」
慌てふためく河尻与一と織田三位。
――白々しい。
怒りと共に信友は腰の刀を引き抜き、河尻与一を切り捨てた。鮮血が襖を汚し、断末魔の悲鳴が耳をつんざく。
腰を抜かしたのは織田三位だ。
「な、な、何をなさいます!?」
「うるさい! 貴様らが! 貴様らが信秀に教えたのだろう!? 内通しておったな!? そうでもなければこの短期間に信秀がここまでやって来られるはずがない!」
「ひっ!?」
「義統暗殺も信秀の指示か!? 儂にすべての罪をなすりつけおったな!? この裏切り者が! 成敗してくれる!」
「ご、ご乱心! 殿がご乱心じゃ――」
逃げだそうとした織田三位の背中を切りつける信友。倒れた三位の心の臓に刃を突き立ててから、信友は残った家臣に号令した。
「出陣じゃ! 今こそ信秀と雌雄を決するときぞ!」
「「「は、ははっ!」」」
狂気をその瞳に孕んだ信友に、逆らう者は誰一人いなかった。
この時点で、もはや信友の勝ち目はなくなった。
籠城するならまだ可能性があったが、彼は城を捨てて一戦する気満々であるし、部隊を率いることのできる貴重な武将である河尻与一と織田三位を切り捨ててしまったのだ。単純な兵力では信友勢の方が多いが、部隊指揮できる人間が二人も減っては勝てる戦も勝てるはずがない。
もはやそんな冷静な判断は望むべくもなく信友は出陣する。長年の怨敵である信秀の首をこの手で落とすために。
――相手が『うつけ』である信長であるとは知らないまま。
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