第655話 閑話 斯波義銀


「……父上は何を考えておるのだ。あのような『うつけ』を頼れなど……」


 川で魚を捕る家臣たちを眺めながら、斯波義統の嫡男・斯波義銀は深くため息をついた。


 そんな彼の側に侍るのは由宇喜一。まだ17歳と年若いが、義銀将来の家老候補として義銀の側にいる男だ。


「武衛様も、はじめはあの『うつけ』を警戒しておりましたが……ただ一度の謁見で見事に意見を変えましたからな。――君子は豹変す。豹変するだけの『何か』が三郎殿にはあったので御座いましょう」


「うつけに、か?」


「若様。人を噂で判断してはいけませぬ。特に三郎殿は難しい立場の御仁。うつけを演じなければ暗殺の危機があったのでしょう」


「暗殺……。それほど弾正忠家は危険なのか?」


「この戦国の世が危険なので御座います。もはや将軍は何度も京を追い出され、隣国美濃の守護は成り上がり者に地位を奪われる始末。身の振り方を誤れば、斯波家すら危ういと武衛様はお考えなのでしょう」


「しかし、我らは武衛家ぞ? 足利一門ぞ?」


「それを気にしない人間というのは確かに存在するのです。身近で言えば、織田大和守」


「信友か……」


 慇懃無礼なあの男を、義銀は嫌っていた。あんな人間の顔色をうかがっている父上を情けないと思っていた。

 だが。由宇の話を聞くに、自分が思っているほど武衛家は盤石ではないのかもしれない。父上の言ったように、三郎を頼るような日が来るのかもしれない。


 しかし、あのときの父上の言葉。あれはまるで……。


「遺言のようであったな」


「わ、若様。それはあまりにも縁起が悪う御座いますれば……。武衛様も、若様に期待しているからこそあのような踏み込んだ話をなさるのです」


「で、あるか」


 城に戻ったら父上から三郎の話を聞いているか。義銀がそんなことを考えていると――


「――おお! 若武衛様! こちらにおられましたか!」


 馬に乗って駆けてきたのは、たしか信友の家臣である男。よほど急いでいたのか着ている甲冑の所々が緩んでいる。


「ずいぶんと騒がしいな? いかにした?」


「ははっ! 武衛様が急病でお倒れに!」


「な、なんと!?」


「もはや明日も知れぬご様子! 急ぎ清洲城へお戻りくだされ!」


「う、うむ!」


 義銀が無警戒にその家臣の男に近づこうとすると――由宇喜一が割り込んだ。


 次いで、同行していた大田牛一という男が義銀の肩を掴み、やんわりと距離を取らせる。


「ハッ、武衛様がお倒れになった? あの信友は、わざわざ知らせてくれるような殊勝な男か?」


「なっ、ぶ、無礼であるぞ! 恐れ多くも尾張守護代にして織田大和守家当主である――」


 怒りに震える家臣に対して、由宇喜一は迷うことなく刀を引き抜いた。


「まことに火急の知らせであったならば、なぜ甲冑など着込んでおる? 着の身着のままで駆けつけるのが人の道であろう?」


「…………、……ええい! 義銀を渡してもらおうか!」


 自らの不手際を察した男が腰の刀を抜いた。


 いくら由宇が武勇に優れるとはいえ、川狩りをするために着ていた湯帷子ゆかたびら(入浴用の着物。のちの浴衣)では甲冑武者に勝つことは難しい。こちらは鎧の隙間を狙わなければ有効な攻撃とならないが、相手はどこを斬っても致命傷になり得るのだから。


 しかし、


「――ぐぅっ!?」


 甲冑の男が大きくよろめいた。――投石。由宇の後ろから飛んできた飛礫つぶてが頭に当たり、一瞬意識が遠のいたのだ。


 ただの投石と侮ることなかれ。たとえ甲冑を着ていようが身体に当たれば骨すら砕き、頭に当たれば脳震盪を起こすのが投石という攻撃手段なのだ。


「南無」


 よろめいた男に容赦なくトドメを刺す由宇。次いで、由宇は恨めしそうに自身の背後、先ほど義銀を危険から遠ざけた太田牛一を睨め付けた。

 この男、弓の名手としてその名を尾張に轟かせているのだが、どうやら投石も上手いらしい。と、それはいいのだが、


「……儂が近くにいるのに、投石をするのはどうなのだ?」


 少し狙いが外れれば由宇の頭が砕けていても不思議ではない。だというのに牛一に悪びれた様子はない。


「当たったのですからいいではないですか」


「しかしなぁ」


「それとも、湯帷子姿で甲冑武者と戦いますか?」


「…………」


 もっと文句を言ってやろうとした由宇であるが、別の家臣の叫びによってそれどころではないと気づかされた。


「き、清洲城から火の手が!」


「なに!?」


 ここから清洲城までは距離があるので今まで気づかなかったが、よく見れば清洲城の方角から煙が上がっているではないか。


「よもや……」


 大和守家から弾正忠家へ鞍替えしようとしていた斯波義統。


 義統の家臣のうち、屈強な若者は全員義銀の川狩りに付き合っているため、今の守護邸には年寄りと女子供しかいない。


 そして、甲冑姿で義銀を探していた信友の家臣。


 それらの事柄が一つに繋がった由宇は、全身から冷や汗が吹き出した。


「わ、若様! 那古野城を目指しましょう!」


「な、那古野城? 清洲城ではないのか? あの煙は何だ? 父上は病気ではないのか? 無事なのか?」


「……おそらく! 武衛様はお腹召された切腹したかと!」


 確固たる証拠はないが、それでも断言する由宇。そうでもしなければ義銀を危険から遠ざけられないと判断したからこそ。


「な!?」


「ここで信友に捕まれば、若様は親の仇の傀儡とされましょう! ここは那古野へ! 三郎の元へ向かいましょう!」


「し、しかし、まさか、そのようなことが……」


「いざというときは三郎殿を頼る! 武衛様のご遺言で御座います!」


「――っ!」


「次の追っ手も迫っておりましょう! ここは那古野へ! まずは身の安全を確保してから――弔い合戦で御座います!」


「…………、……わかった。那古野へ向かおう」


 まだ混乱の極みにある義銀は、それでも何とかそう決断したのだった。




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