第645話 閑話 あーあ……


「おのれ! 武衛(斯波義統)様に対する数々の無礼! もはや許すことあたわず!」


 守護邸に矢が打ち込まれるのを目の当たりにして、僧形の男・善阿弥が弓を引っ張り出してきて矢をつがえた。

 この善阿弥という男、元々はうたいという声楽・歌謡の才を認められて斯波義統に仕えることになったのだが……生来の性格か、あるいは義統への忠誠心ゆえか。義統の家臣の中でも血の気が多いのだ。


「ま、待つのだ善阿弥――」


 義統が止めに入ったときにはもう、善阿弥の矢は堀の向こう側へと放たれていた。


「――ぐぅ!」

「な、なんと!?」

「左馬丞!?」

「河尻様! ご無事ですか!?」

「お、おのれ! おのれ義統! 甘くしておれば付け上がりおって!」


 堀の向こう側からそんな騒ぎ声が響いてくる。善阿弥の放った矢は運良く――いいや、運悪く織田信友の家老・河尻与一(左馬丞)に当たってしまったらしい。


 これはまずい。

 信友がいれば相手も自重しようが、義統の予想通り信友がいない間に家臣が短慮を起こしたのだとしたら……。


「も、門を閉めよ!」


「は、ははっ!」


 義統の指示に従い家臣の一人が門を閉めに走る。……だが、その男は門の外から飛来した矢に撃たれ絶命した。


 塀の向こうから鬨の声が聞こえる。最初は善阿弥が矢を放った付近から、次々に波及し守護邸の四方に広まっていく。

 もはや相手も止める気はないのか、次々に矢が打ち込まれ始めた。

 相手の数は分からぬが、守護邸を取り囲んでいるのだから相応の数はいるだろう。


 それに対して、斯波義統の手勢はあまりに少ない。元々義統に実質的な徴兵権はなく、兵と呼べるものは斯波家に代々仕えている者たちのみ。しかも、その中でも若い連中は斯波義銀(義統嫡男)の川狩りについて行ってしまった。

 残されたのは老齢の家臣と、女子供くらい。端から勝負にもならない戦力差だ。


 守護邸に篭もって抵抗し、織田信長の救援を待つ……いいや、不可能だ。危機を知った信長が兵を集め、那古野から清洲にやって来るまで何日かかることか。


「……武衛様。もはやこれまでかと」


 家臣の一人、丹羽祐稙が義統に決断を迫る。


 足利の一門である斯波の当主が、家臣に首を落とされるなど誇りが許さぬ。

 だが、もはや逃げることもできぬだろう。

 ならば、武士として選ぶ手段は一つのみ。


「――是非も無し」


「では、」


「皆の者。武士としての本懐を遂げよ」


「ははっ! 有難きお言葉!」


 一斉に地面に膝をついた忠臣たちに背を向け、斯波義統は屋敷の中に入った。







「しっかりいたせ左馬丞! 傷は浅いぞ!」


「お、おのれっ」


 二の腕に矢が刺さった河尻左馬丞が憎々しげに叫ぶ。


「おのれ義統! 甘くしておれば付け上がりおって! 命だけは助けてやろうと思たが、止めだ止めだ! とっとと焼き討ちしてしまうぞ!」


「い、いや、そこまでは……」


 共犯者である織田三位が尻込みするが、もはや手遅れだ。主である河尻が負傷したことによって、河尻の家臣が次々に矢を放っているからだ。


 もはや交渉どころの話ではない。

 こちらの兵は止まらぬし、武衛たちも覚悟を決めたことだろう。


(ここは早急に攻め入り、武衛か若武衛が御腹召される切腹する前に身柄を確保するしかないか……)


 覚悟を決めた織田三位は自らの兵を守護邸に攻め込ませたのだった。



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