第644話 閑話 交渉


 ――清洲城・守護邸。


 すでに屋敷は信友の軍勢によって完全に包囲されてしまっていた。


 正確を期するなら。動員されたのはあくまで河尻与一と織田三位の兵なので、信友は今回の件を知る由もないのだが。少なくとも斯波義統たちからしてみれば織田信友の軍勢に囲まれているのだった。


「武衛(斯波義統)様。使者によると、奴らは武衛様の隠居と義銀様(義統嫡男)の守護就任を要求しております」


「ふん、御所巻きのつもりか? 舐められたものよな」


「まことに。しかし、囲まれているのは事実。ここは一旦要求を受け入れ、出家するのも手かと」


「うむ……それしかないか」


 義銀は今おそらく川狩りに行っているはず。織田信友も斯波義統を傀儡とし、実質的な尾張国主として振る舞ってきた男。すでに義銀の身柄も確保されているはずだ。


 と、義統は常識的に判断したのだが。実際は信友のあずかり知らぬところで事態は進んでおり、主犯である河尻与一と織田三位は義銀もこの屋敷に留まっていると勘違いしているし、当然のことながら義銀は川狩りの最中だ。


 相手の不手際はともかく、今は義統の身の振り方である。


 義銀が守護になれば、信友は変わらず『尾張守護代』として我が物顔で振る舞うことができると考えているのだろう。


 ここで義統が出家をして、清洲城を離れることができれば……。隙を見て信長の元へ向かい、謀反であるとして信友討伐の兵を起こせばいい。


 あとの問題は残される義銀の無事と、信友がそう簡単に義統を城から出すかであるが――


 そんなことを考えていると、屋敷の外から中に向かって矢が飛んできた。一本だけなので脅しのつもりなのだろう。


「何と無礼な!」

「信友め! 催促するつもりか!」

「義統様のおかげで今の地位があるというのに!」


 怒り心頭に騒ぎ立てる家臣たちであるが、義統は血の気が引いていくことを感じていた。


「…………」


 ――あの信友が。よく言えば慎重、悪く言えば臆病なところのある信友が、交渉中に矢を射かけることがあるだろうか? 下手に刺激して事態が思わぬところに転がる可能性はあるし、義統の家臣には、後先考えずに激高して転がしてしまいそうな者も幾人がいる。


 それを、信友であれば理解しているはず。


 そう。信友であれば……。



 まさか。

 そんな、まさかの可能性に思い至った義統は冷や汗を止めることができなかった。



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