第638話 閑話 よくやった、かつての自分


 その機会は思ったよりもすぐに訪れた。

 稲葉山城でとても懐かしい『銀髪』を目にしたためだ。


 途端に時間が数十年巻き戻ったかのような錯覚に陥る稲葉一鉄。あの銀髪。あの白い肌。あの顔つき。若き頃の里於奈リオナ様瓜二つではないか。


 ……いや、瞳の色は違うから、瓜二つではないのかもしれないが。


 里於奈リオナ様とも、道三とも異なる赤い瞳。血を啜ったかのような、怪しい色。

 不思議と身体が動かなくなる。

 このまま魅入られそうになる。


 人を超えた美しさ。

 人を超えた恐ろしさ。


 頭は動くのに、身体が上手く動かない。


 こちらには気づいていないのか。

 あるいは、気づいていながら出方をうかがっているのか。


 どちらかは分からぬが、ここで動きを止めていては見切りを付けられよう。


 一鉄は大きく息を吸い込み、なんとも工夫のない言葉を掛けた。


「おぉ! まさか、姫様ですか!?」


 赤い瞳がこちらを捉える。

 里於奈リオナ様のような優しげな風貌に、道三のような冷酷な瞳。


 なんとも不均衡な少女である。

 むしろ、本当に少女なのだろうか?


 あの佇まい。とても14、5の女のものとは思えない。人生の酸いも甘いも噛み分けた歳であるとしか――


 ――いや、何を愚かな。


 突拍子もない思考を振り払うため、一鉄は小さく首を横に振った。


 巷では、帰蝶は『薬師如来の化身』と崇め奉られていた。


 少し会話をしてみたが、なるほど。只者ではない。

 一鉄もそれなりに医学知識を持っている自負があったが、帰蝶にはまるで敵わない。南蛮の医学だけならともかく、漢方の知識でもまるで歯が立たなかった。


 現実とは思えない、治癒の秘術。

 南蛮と漢方に精通した医学知識。

 そして、安価で民に対する治療を行い、これまた安価で効果の高い薬を広めていた。


 ただの慈悲深い女かと思えば、そんなこともなさそうだ。そもそもあの道三と同類の目をしている時点で腹が黒いのは分かりきっていたのだが。


 帰蝶は学校を建てるという。


 医学を専門に学ぶ学校。そして、内政を専門に扱う文官を育成したり、専業の兵を育てるための学校を。


 その目が見据えているのは遙かな未来。医学が広まり多くの民の命が救われ。武力を持った在地領主が駆逐され。中央集権による強大な軍事力を持った国。


 なんという高き視座であろうか。


 なんという器の大きさであろうか。


 底抜けの善人であった里於奈リオナ様と、底知れぬ悪漢である道三の血が交われば、このような人物が産まれてしまうものなのか。


 ――正解であった。


 道三に付いて正解であった。

 帰蝶の敵にならずに済んで、助かった。


 稲葉一鉄は、かつての自分の決断を心の底から賞賛したのだった。




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