第636話 閑話 稲葉一鉄の決断


 ――土岐頼芸が稲葉山へと攻め込む少し前のこと。


 西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄は迷っていた。


 このまま美濃を簒奪した斎藤道三に協力し続けるのか。

 あるいは、正当なる国主である土岐頼芸に協力し、道三の手から美濃を取り戻すのか。


 近隣の有力者である安藤や氏家は土岐頼芸の味方に付くという。あの二人が揃って行動を起こしたのだから土岐頼芸から破格の条件を提示されたのだろう。――つまりは、それだけ本気。最後の大勝負を仕掛けるつもりなのだ。


 ……あるいは、二人で稲葉一鉄を攻め、その領地を分け合う算段でもつけたか。


 安藤と氏家が道三に反旗を翻したのなら、稲葉一鉄もそれに同調するべきだ。二人から同時に攻められれば一鉄も厳しい戦いを強いられるし、どちらかに足止めをされれば道三への援軍も出せなくなるのだから。


 だが。

 稲葉一鉄は迷っていた。道三と袂を分かつことを決断できずにいた。

 それはもちろん自らの姉が道三に嫁ぎ、跡取りである義龍を産んだことも一因ではある。このまま斎藤家が美濃を治めるならば、一鉄もそれなりの影響力を保つことができるだろう。


 そして一鉄自身も、道三のことを『兄』のように思ってきた。たしかに道三は腹黒いが、身内には驚くほど甘いし、それに助けられたことも一度や二度ではない。


 けれども、それは迷いの一因に過ぎない。

 決断できない最大の要因は……明らかに変わった・・・・道三という男のせいだ。


 帰蝶が戻ってきてから、道三は変わった。


 いいや、元に戻った・・・・・と言うべきか。


 出世欲ではなく。父の意志を継いだわけでもなく。ただ、ただ、一人の女のために美濃国盗りを決意した男。腹が黒いのか純情なのかよく分からぬ義兄。愚かで、真っ直ぐで、鬼畜。まるで理解できぬのになぜか放っておけなかった。そんな男が十年ぶり――否、数十年ぶりに戻ってきたのだ。


 道三は里於奈リオナと死に別れ、二人の娘を失ってからすっかり意気消沈していた。だからこそ美濃の国盗りは中途半端に終わったし、守護である土岐頼芸も命を繋ぐことができた。


 だが、此度は無理だろう。

 帰蝶は十年ぶりに戻ってきて。

 人生五十年をとうに過ぎた道三は、息子と娘のために汚名を被り、美濃を完全な形で譲り渡そうとしている。


 であれば、もはや土岐頼芸の命運は尽きた。


「……ふっ、そもそも悩む必要などなかったか」


 こうして。

 稲葉一鉄は安藤や氏家と袂を分かち、道三の味方に付くことを決めたのだ。


 その決断が間違っていなかったと、確信できるのにさほどの時間は掛からなかった。




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