第612話 閑話 尾張守護
尾張守護・斯波義統は馬に乗り、那古野城を目指していた。
守護ともなれば『輿』に乗って移動してもよさそうなものであるが……そこはやはり戦国の世の守護。いざというときに逃げにくい輿に乗るのは避けていたのだ。
もしも史実の桶狭間のように大軍を擁しているならば『この地を治める領主』としての姿を民や国人に示すため輿に乗るという選択肢もあるだろうが……詮無いことだ。今の義統ではそのような大軍を動員することなどできないし、お飾りの守護が偉ぶったところで失笑を買うだけだろう。
――なんとかしなければ。
過日の斯波義統にも、そんな熱意があった。すっかり意気消沈した父を超え、いずれは斯波家のかつての領国をすべて取り戻してみせると。
だが、それはただの夢物語であった。
傀儡として扱われ続ければ、自らの実力というものを嫌でも思い知らされてしまう。
自分には父のような武勇はない。
かといって、頭の出来がいいというわけでもない。
――凡庸。
自らを評価するのは屈辱であるが、そうとしか言いようがない。
こんな自分が(家臣であるはずの)織田大和守を排して実権を握ることなどできるはずがないし、やろうとすれば逆にこちらの命が危うい。――いざとなれば守護(主君)すら手に掛ける。大和守親子にはそんな危うさがあった。
名誉などいらぬ。
権力などいらぬ。
ただ、自分と家族が長生きできればそれでいい。
それすらも難しいのが戦国の世であったが、幸いなことに、斯波義統は守護であった。大人しくしていれば傀儡として祭り上げてもらえる立場であった。
……そんな彼も、一度は希望を抱いたことがある。
織田弾正忠信秀という男の存在だ。
大和守を超える武勇。津島と熱田を押さえたことによる経済力。――この男であれば、かつての夢、斯波家の領国を取り戻すこともできるのではないかと期待した。
だが、そんな期待も、美濃のマムシによって打ち破られた。隣国にあのような化け物がいるのでは、とてもではないが勢力拡大などできるはずがない。
だがらこそ、斯波義統は決めた。
目立たず。
求めず。
期待せず。
これからは家族の安全を最優先にして生きていこうと。そのためならば力を失った寄生先を捨て、新たな寄生先に移り住むことも辞さないと。
そんな彼の『次』の候補となっているのは、織田弾正忠家。
一時は信秀の病状が思わしくなかったようだが、今ではすっかり良くなったと聞く。
そして、その息子。
織田三郎信長。
うつけであるとの評判であった。
しかし、今の彼はうつけの仮面を脱ぎ捨てたという。
那古野城の大規模拡張。
大通りの整備や湊の拡張による経済の活性化。
さらには、あのマムシの娘を妻に迎える予定だという。
どのような男であろうか。
噂通りか。
あるいは、噂はしょせん噂でしかないのか。
胸の鼓動が乱れているのは期待しているからか。あるいは不安に思っているからか。
何とも表現しにくい複雑な感情を抱きながら斯波義統が馬を進めていると――見えてきた。まだまだ距離があるというのに、それでも日の光を反射して輝く巨大な櫓の姿が。
銅瓦葺き、地下一階・地上五階。本来ならこの時代に存在しないはずの大天守。
「な、なんじゃあれは……?」
堂々たる那古野城の威風を目にして、震えを止めることのできない斯波義統であった。
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