第603話 閑話 おっとラブがビギニング?


 信長の弟、織田勘十郎信勝は父母と共に末森城で暮らしている。

 そろそろ兄・信長のように独り立ちし、城を一つ任されてもいい年齢なのであるが……今のところそういう話は持ち上がっていない。


 信長が後継者としての足場を固めるまで保留されているのか。

 あるいは、自分には城を任せられるほどの『器』がないのか……。


 かつては苦悩していた信勝であるが、今ではそれほどではない。兄・信長の『器』の大きさを嫌と言うほどに見せつけられたからだ。


 あの恐ろしさしか感じられない帰蝶を手懐け、妻に迎え入れるとは……。なんという恐れ知らず。なんという器の大きさであろうか。自分だったら絶対に逃げ出すだろうし、そもそも自分程度では帰蝶も相手にしないだろう。


 器が小さくて良かった。人並みで良かった。今では心の底からそう思える信勝であった。


 そんな自分が歩むべき道は、兄である信長を側で支え、織田弾正忠家をさらに発展させていくこと。父信秀と叔父信光のような関係で……。


 信光のような武勇があるかどうかは(初陣もまだなので)分からないが、自分にはそれほど戦の才はないだろうと薄々察している信勝である。だからこそ父も猛将である柴田勝家を付けたに違いない。


 武勇で駄目なら、知恵で支えられるような男にならねば。


 そう決心した信勝は毎日のように寺へ行き、僧から様々な手ほどきを受けていた。大坂本願寺の生臭坊主ばかり見ていると誤解しそうになるが、この時代における仏僧とは最高位の知識人と呼べる存在なのだ。


 そんな寺からの帰り道。

 信勝が城門から屋敷に向けて歩いていると――見慣れない女性が目に入った。


 なんとも美しい女人だ。


 帰蝶も見た目だけなら絶句するほどの美人なのだが、あの女人は腹の黒さと容赦のなさが全身からにじみ出ているので近づくことすら危うい。


 しかし、あの見慣れぬ女人からはそのような恐ろしさは微塵も感じ取ることはできなかった。帰蝶が吹きすさぶ雪嵐であるならば、あの女人は春うららかな日の光とでも言おうか。


 そんな女性は地面にしゃがみ込み、一点を見つめながら首をかしげていた。


「…………」


 なぜだか分からないが、放っておけない。このまま屋敷に戻っても気になって仕方がない未来が見える。気がする。


如何どうした?」


 信勝が尋ねると、女性はゆっくりと信勝の目を凝視してきた。いくら信勝がまだ子供とはいえ、いいとこ・・・・の坊ちゃんであることは身なりで察することができるだろう。そんな信勝を遠慮なく見つめるとは……恐れを知らぬのか、常識がないのか……。


「巣が」


「巣?」


 その言葉で信勝もやっと気づく。女人が鳥の巣を抱えていることに。


 女人の美しさにばかり目が奪われ、巣の存在にすら気づかなかった。……そんな事実は墓場まで持って行こうと心に決める信勝である。 


 ともあれ、巣だ。

 落下の衝撃のせいかずいぶんと痛んでいるが、それでも何とか原形を留めている。

 そして、その中には何匹かの雛が。


「戻そうとしたのですが、どうにも手が届かず……」


「…………」


 雛が落ちるのは可哀想だと信勝も思うが、それもまた自然の摂理。ここで助けたところで鳥が数羽増えるだけだし、助けたとしても別の要因で死んでしまうかもしれない。


 放っておけばいい。


 とは、何となく言い出しがたい雰囲気であった。


「……よし」


 信勝は女人から巣を受け取り、自らの懐に入れた。そして巣が落ちてきたであろう木の元へ移動し、そのまま木を登りはじめる。


 信勝は鍛錬よりも本を読んでいる方が好きな性分であるが、それでも幼い頃はよく信長に外へと連れ出されていた。そして何より武家の生まれなのであるから、木登りくらいなら大して苦労することはない。


 木の枝の上に巣を置き、危なげなく地面へと戻ってくる信勝。


 …………。


 いや、なんとも恥ずかしいなと信勝は今さらながらに頬が熱くなる。これではまるで、女にいいところを見せようとしたみたいではないかと。


 さっさと退散しよう。万が一帰蝶にでも見られたら酷いことになる。そう判断した信勝が屋敷に戻ろうとすると――


 彼の手を、女性が掴んだ。


 柔らかい。

 そして、温かい。


 女性経験のない信勝にとっては衝撃的なまでの柔らかさと温かさであった。


「感謝いたします」


 朗らかに。穏やかに。華がほころんだかのように。

 笑顔を向けられて信勝の頬はみるみるうちに熱くなった。何とも単純なことであるが、彼の歳であれば仕方ないだろう。


「……お、おぬし、名をなんという?」


「はい。吉乃。生駒吉乃で御座います」


「生駒……」


 兄・信長の側室候補。信勝だってそのくらいは知っている。


 なんともはや。

 危ないところであった。

 もう少しで、兄の側室候補に横恋慕するところであった。


「おほん、ごほん、ごほんっ」


 わざとらしく咳き込みながらそそくさとその場から逃げ出した信勝。


 そんな彼の背中を、生駒吉乃はいつまでも見つめていた。



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