第574話 天下を語らう


「天下を制するのではなく、天下の静謐を望むか?」


「それが拙者の『夢』なれば」


「…………」


 何とも壮大な『夢』だ。と、長慶はいいようもない感情に包まれた。


 若い。

 何とも若い。


 甘すぎるし、くだらないとすら言える。


 ……だが。


 そんな若さを。

 そんな甘さを。

 そんなくだらなさを。


 ――三好長慶は、好ましく思えた。


 自分もかつてはそうだったのではないか?


 理世安民。


 道理をもって世の中を治め、民を安心させる。


 かつて。弟たちとそんな世を作ろうと誓いあったではないか。力ではなく法律が支配する世を。自分たちのように父や祖父が戦で死なぬような世の中を……。


 理世安民。


 天下布武。


 ことわりもって世を治める。


 天下に武を布《し》く。


 まるで真逆の理念であるかのように思える。


 だが、それは決して敵対するものではない。


 ――古代中国、春秋左氏伝にいわく、武に七徳あり。


 つまりは暴力を禁じ、戦を止め、天下の静謐を保ち、功績を正しく評価し、民を安心させ、集団を争わせず、国を豊かにすること。


 天下に武をくとは、日の本に七徳をきつめるという意思表示に他ならない。


「…………」


「…………」


 その若さで武の七徳を知っているか。


 三好長慶も、松永久秀も、織田信長という男に対する評価をさらに上げるしかなかった。


 ……もちろん。

 信長としてはまだ(本来すでに終えているべき)勉強の途中であり、武の七徳などというものを知っているはずがない。


 だからこそ信長としては『言って聞かなきゃぶん殴れ!』の極致として天下布武を目指しているだけであり、長慶も、久秀も、平手政秀とまったく同じ勘違いをしていた。


 ただ、幸いなことに。その辺の認識のズレを二人が知ることはない。


 勘違いであると知る由もないのだから、それはもはや事実となる。


 天下布武とは理想である。良心あるすべての人間が目指すべき道である。


 しかし、百年近くも戦乱の世にあった日之本に、そんな理想が簡単に浸透するはずもない。時には『武』によって理想を押しつける必要もあるだろう。かつて正しき道理を唱えながらも反逆者となってしまった経験のある長慶は、それを知っている。


 理の通じぬ輩を武力で排除し、天下の静謐を成し遂げ、その後は理が治める世の中を築き上げる。


 困難な道だ。


 だが、信長であればできるだろう。


 一揆勢十万を相手取り、見事に敵総大将の首を取ってみせた、織田信長であれば。


「…………」


 自らの欲望のために天下を狙う。そんな男であればいずれは長慶とも対立するだろう。


 だが、天下静謐のために修羅の道を征こうとするこの男であれば――きっと、最後まで共に歩むことができるはずだ。


 ――そうであったか。


 そういう心積もりであったか。


 長慶は信長から視線を外し、彼のすぐ側にいる帰蝶を見た。


 たおやかな、とでも言おうか。

 超常的、とでも言おうか。


 まるですべて見抜いているかのような。

 まるでこの先の展開を知っているかのような。


 そんな、仏神を前にしたような気分にさせられる女であった。


 ……手のひらの上、なのかもしれぬ。

 いいように扱われているだけかもしれぬ。


 だが、それでもいい。


 ここで行動するべきだと、今まで長慶を生き抜かせてきた『勘』が叫んでいるのだ。


 ずいっと身を乗り出し、信長の目を真っ直ぐに見つめる長慶。


「正室たる帰蝶殿がいるのなら話が早い。――三郎。儂の妹あたりを妻に迎えぬか?」


「は?」


「お?」


「はぁあぁあああぁああっ!?」


 三者三様の反応であった。ちなみに信長は「何を言っておるのだ此奴は?」という感じだし、帰蝶は「おっと面白いことになってきたわね」と興味津々、松永久秀は「またとんでもないことを言い出したな!?」という嘆きである。


 そんな三人の反応を「はっはっはっ」と笑って流す長慶である。これが天下人の器であるか。あるいは空気が読めないだけであるか。


「無論、正室は帰蝶殿よ。儂とて二人の邪魔立てをするつもりはない。ただ、今後の誼を通じる意味も込めて、側室あたりにしてくれぬかという話なのだ」


「ははぁ」


 と、感心したような声を上げるのは帰蝶。並みの人間であれば帰蝶を怒らせるのを恐れてそんなことを口にはできないはずなのに、この長慶という男は帰蝶が怒らぬと見抜いた・・・・上でこのような提案をしてきたのだ。


 帰蝶は心底楽しそうに。久秀は心底不安そうに。見つめるのは信長の反応である。


 そんな信長は、さして悩むでもなく帰蝶の方を向いた。


「帰蝶。よいのか?」


「まぁ、三ちゃんほどの男ならモテてもしょうがないわよねぇ」


「で、あるか」


 信長とて戦国の世を生きる人間である。妻が複数いるのなんて当たり前であるし、当たり前のことで悩んだり苦悩することはない。そもそも史実の信長からして側室は多い。


「拙者としては問題ありませぬが、拙者はまだ元服を迎えたばかり。まずは父である織田弾正忠に確認を取りたいと思いますが、いかがでありましょう」


「うむ、家と家の婚約である故な。当然の答えであろうよ」


 前向きな返事をもらって満足そうな長慶であった。




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