第559話 閑話 夫婦情勢は複雑怪奇


 ――末森城。


 織田信長は、父である織田信秀を前に頭を下げていた。


 武家の跡取りに相応しい、折り目正しき服装。髪は丹念に整えられた上で髷を結われている。

 外見だけではなく、信秀が威圧をしているのに微塵も動揺せず頭を下げ続ける度胸と根気。そしてなにより、自分勝手に動かず、まずは当主である信秀の元へ許可を取りに来た。


 ――変わった。


 この数ヶ月で、信長は確かに変わっていた。


「……たのみ勢(援軍)として大坂まで向かいたい、であるか」


 信長からの要求をゆっくりと、噛みしめるように繰り返す信秀。それだけで並みの人間であれば冷や汗が止まらなくなるだろうが、あいにく信長とて並みの人間ではない。


「はっ、我が妻はかなりの多勢を相手にしているとのこと。ここは助太刀に向かうべきかと」


「嫁殿であれば、平気ではないか?」


「確かに『真法まほう』を使えば一向一揆であろうとも敵ではないかもしれませぬが……帰蝶の御師様おしさんは厳しい御方。そう簡単にはいかぬでしょう」


「ふむ……」


 帰蝶の力は人知を越えている。それはもはや神や仏の領域と言っても過言ではないだろう。――神仏が、人の世で力を振るう。それでなおこの世が(比較的)平穏であるのは、その師匠とやらのおかげか。


「さらに付け加えるなら」


「うむ?」


「あれは帰蝶なりの『甘え』でありましょう」


「甘え、であるか?」


「そもそもあの女は本当に困っているとき素直に助けを求めるような人間ではありません。そんな帰蝶が、わざわざ尾張にまで来て淀城の戦況を伝えてきた。――師匠に怒られない範囲での、状況を変えられる戦力が欲しい。という、我が妻なりの甘えなのでありましょう」


「……そんなものか?」


 信秀は理解が及ばないが、まぁ、二人がそれで納得しているならそういうものなのだろう。


 援軍。

 信秀としては悩みどころだ。

 そもそも、信長の率いる程度の兵では、一向一揆相手にどれだけ戦えるか怪しい。数百の兵でも上手く使えば戦況を変えることは可能であるが、相手が万単位、十万単位であればすり潰される可能性の方が高い。

 しかも相手は一向一揆。死ぬまで戦うのが当然の連中。旗色が悪くなればすぐに逃げ出す傭兵や農民兵とは『格』が違う。


 しかし、

 それでも、あるいは三郎であれば――、そう考えてしまうのは親馬鹿であろうか?


 さらに言えば。

 ここで帰蝶に援軍を出しておけば、いざ・・というときに帰蝶からの援軍を要請しやすいだろう。帰蝶の性格は信秀ですら読み切れないが、それでも、都合良く扱われることを嫌っているようだから。こちらとしても帰蝶のために行動をするべきだろう。


 たとえ少数であろうが、帰蝶が困っているときに助け船を出す。それをしてこそ『対等』でいられるのだ。


 ……信長の場合は、そこまで深く考えていないだろうが。結果としては悪くない方向に転がるだろうし、そこはさすがであると評価するべきか。


 信長が下げていた頭を上げ、真っ直ぐに信秀を見つめてきた。


「帰蝶に頼ってばかりでは、良き夫婦にはなれませぬ。帰蝶が困っているときにこそ、拙者は行かねばならぬのです」


「…………」


 何とも青臭い考えだ。


 夫が戦場や政治の場で活躍し、妻がそれを支える。それこそが『良き夫婦』であろうと信秀は考える。二人で雑多な仕事をこなすよりは、夫と妻がそれぞれの仕事に専念する方が効率がいいだろうと。


 しかし。

 その青臭さが、なぜだか妙に羨ましく思える信秀であった。


「今から大坂に向かって、間に合うか?」


「南蛮船であれば、無寄港での移動も可能でしょう。さらに九鬼水軍も手慣れてきましたし、風待ちが不要ならば間に合うでしょう」


「で、あるか」


 問題は山積みだ。

 信長が自由に動かせる兵ではそもそも数が足りないし、逆に、それだけの人数を南蛮船一隻に詰め込んでは兵の肉体的・精神的消耗が激しくなるだろう。


 そして何より、那古野城城主である信長の不在。


 今川義元が動かないと目されている今、当座の敵は尾張守護代織田信友となる。奴らが兵を起こせば、まず真っ先に那古野城が狙われるだろう。


 長島城は実質的に織田家のものになったとはいえ、その長島城に勇将である織田信光を貼り付けておかねばならないので自由に動かせる戦力はさほどない。むしろ長島城に駐屯させている分だけ減っているのだ。


 だが、それでも信長が動けば――


「――よかろう。三郎よ、嫁殿のたのみ勢に向かうのだ」


「はは、承知いたしました!」



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