第541話 まぁ、好物件ではある


「拙者は殿(三好長慶)にお仕えする前は商人として日本各地をめぐっておりましてな。昔なじみの新九郎を頼り、何年か美濃に滞在したこともあったのです。その際里於奈リオナ様には大変お世話になりまして」


 昔語りが恥ずかしかったのかちょっと早口な久っちであった。

 もちろんそれで容赦する私と長慶さんではない。


「で? 恋だったんですか? ラブだったんですか?」


「惚れた女が昔なじみの妻であったか……。なんともはや、なんともはやよの」


「なんだったらもう一度会わせてあげましょうか? たしか果心居士っていう幻術師に亡き妻の幽霊を見せられて腰を抜かしたって逸話がありますよね?」


「ほぅ、果心居士か。大和国にそのような幻術師がいるとは聞いたことがあるが……。いやいや帰蝶殿。そういうのは余計なお世話というもの。やはり初恋相手の思い出とは美しいまま胸にしまっておかなければな」


「ロマンチストですねぇ長慶さんは」


 ニヤニヤと笑いあう私と長慶さんだった。対する久っちは胃が痛いのか腹を押さえている。


『本能寺フラグが立ちましたね』


 三好長慶と松永久秀だと冗談にならないから止めてもらえません? いや松永久秀は忠臣だった説もあるんだっけ?


「うむ、久秀を困らせるのもここまでにしておくか」


 こほん、と咳払いをした長慶さんは改めて私に向き直った。


 ――空気ががらり・・・と変わる。


 先ほどまでのたわけた若殿様から、激戦をくぐり抜けてきた戦国大名へと。一瞬で、その有様を変えてみせたのだ。


「あら、おふざけはここまでですか?」


「真面目な話は早々に終えてしまうのがよかろう。……ふむ、しかし、驚くほどに纏った空気が変わったものよ。さすがはマムシの娘と言ったところか」


「あなたにだけは言われたくありませんね」


「ははっ、許せ。どうにも先代や先々代の失策で警戒されることが多いのでな。『苦労を知らぬ若殿様』という立ち位置でいるほうが色々とやりやすいのだ」


「その若殿様の仮面を脱いだと。私はずいぶんと評価していただいたようで」


「帰蝶殿相手ではいつまで経っても腹の探り合いが終わりそうにないのでな。――久秀」


「ははっ」


 久っちが茶室の片隅に置いてあった紙を持ってくる。色こそ茶色がかっているけれど、かなりの大きさ。この時代からすればかなりの高級品じゃないかしら?


 丸められていた紙が床の上で広げられる。紙に描かれていたのは――日本地図だった。

 もちろん、正確な測量がされたわけではない、ずいぶんと未熟な形の日本列島だけど……近畿周辺はそれなりの精度であるようだった。


 そんな地図の上に、長慶さんが朱色の墨で丸を描いていく。まずは兵庫津。西宮。阿波と淡路。そして堺。それらを大きな丸で一つに繋げると……。


「ははぁん? なるほど。瀬戸内海経済圏といったところですか。ローマ帝国の地中海世界、あるいは地中海商業圏みたいなものですね」


「ろぉま帝国?」


「南蛮にはそういう世界というか構想というか、そういうものがあるんですよ」


 地中海を内海として使い、貿易や文化交流が行われた世界。ローマの平和パクス・ロマーナの根幹。

 それを日本に当てはめれば、瀬戸内海を中心とした統治・経済圏となる。大陸からの船の行き着く先。都が近畿に作られ続けた理由の一つ。


 長慶さんから筆を受け取り、地図に追記していく。近畿から、瀬戸内海を通って対馬、大陸へと繋がる線。能登半島を経由して北海道へと繋がる線。琉球を経由して東南アジアへ向かう線。そして紀伊半島から関東、東北へと繋がる線。


 近畿から日本各地へ。日本から世界へ。すべての流通の中心となりうるのが長慶さんの描いた朱丸だ。


 お見事、お見事。

 と、褒め称えるだけでは面白くない。


 というわけで私はさらに線を追加した。堺から、新淀川。淀川を経由して京都へ。さらには京都から琵琶湖。琵琶湖から敦賀港へ。


 ――日本横断運河。


 この線の意味を、長慶さんは正確に読み取ったようだ。


「ほぉ! これはよもや……! なるほど、新たなる淀川はそのような心積もりで……!」


 少年のように目を輝かせる長慶さんは、ずいっと私との距離を詰めた。


「帰蝶殿。――拙者の嫁になりませぬか?」


 おっとー、モテ期到来しちゃったかしら?



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