第524話 第13章 エピローグ 大威徳呪・3
「――すまぬな、祐珍」
証如が、その名を口にした。
本願寺の法主であった男が。木っ端坊主でしかなかった、かつて天狗が人間であったときの名前を。
「理乗。其方の将来を奪ってしまったな。珍念。子が生まれたばかりだというのに、すまなんだ」
『おぉ!』
『なんと、我らの名まで!』
天狗の顔が
そもそも、この天狗とは(祐珍が主人格となっているが)元々はあのとき、船から突き落とされた三人の男の霊魂が寄り集まった存在。今までは帰蝶の『力』によって
加賀一国を領有し、大坂の地に絶大な影響力を持ち、10万の信者を動員する力を持つ本願寺の法主であった証如が。数多いる木っ端坊主でしかなかった祐珍や理乗、珍念のことを覚えてくださっていたのだ。
祐珍たちの心が揺れた。
本願寺に殺され、本願寺への恨みだけが積み重なっていたはずの彼らの心が、そのたった一言で
悪霊悪鬼は力だけで調伏されるものではない。
むしろ、たった一つの言葉が効くこともある。怒りに対する理解。罪に対する謝罪。道を外れた者に寄り添う心……。それを、証如という男は分かっていた。
『えぇい! 今さら名を呼ばれたことがどうした!? 今さら謝罪されて何になる!? 今さら……儂らはお前らのせいで死んだのだぞ!?』
祐珍が吼えるが、身体は動かない。
帰蝶にすら呼ばれなかった、本当の名前。それを再び耳にして、天狗の中の『理乗』、『珍念』の心が露わになったのだ。
本願寺は今もまだ恨めしい。
だが、証如様は……。
その隙を、証如は見逃さなかった。
「其方らの罪! 其方らを殺した罪! すべて拙僧が背負って黄泉路へと向かおうぞ!」
――オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ
その真言を合図として、天狗の身体が証如に
「な、なんと!?」
目の前の光景に虎寿が驚愕の声を上げる。
眼前に立つのは、間違いなく尊敬する証如様。
だが、その顔の右側は醜く引きつり、口は大きく裂けて犬歯を見せ、目尻は痙攣しながら引き上がっている。
およそ人とは思えぬ右顔面。だが、不思議なことに、どことなく天狗の顔であるようにも見えた。
『おのれ証如! 自らをヨリマシにしおったか!』
天狗の憎々しげな声が
ヨリマシとは、神仏を人形や童子に降ろす術。
そのヨリマシに、証如自身がなったというのか。すぐ近くに虎寿がいるというのに。
「証如様! なぜ!? なぜで御座いますか!?」
虎寿の絶叫に答えず、証如が今一度真言を唱えた。
――オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ
古来、この国の調伏に関する資料を読み解くと、『投げ出される』という表現が多用されている。ヨリマシの体内に『
そして。
今まさに。天狗を体内に『縛』した証如の身体が
人知を越えた力により天井近くまで打ち上げられた証如の肉体は、体内の天狗と共に燃えさかる護摩炉の中に打ち付けられた。
護摩木によって清められた炎が容赦なく証如の身体を焼いていく。
だが、彼は絶大なる精神力で自らの肉が焼ける苦痛に耐えてみせ、逆に、人を越えた力を持つはずの天狗は悶え苦しんだ。右顔面が祐珍、理乗、珍念のものに変わりながら、苦悶の表情を深めていく。
そして右顔面は再び祐珍のものへと変化し――
『おのれ! おのれ証如! 自ら犠牲になろうとは! あの子供をヨリマシにしておれば、この程度の術など破壊してやったものを――っ!』
本来、天狗と証如の間には明確な力量差がある。
だが、それだけの時はもはやない。
浄化の炎は瞬く間に証如の身体を、証如の身体に縛された天狗と共に焼いていく。
「――虎寿! 後は頼んだ! 必ずや、本願寺の過ちを正してくれ!」
死にゆく証如はすべてを虎寿に託し。
『――
天狗は恨みを込めた目で顕如を――かつての祐珍たちが船から突き落とされて殺されたとき、黙って見ているだけだった怨敵を睨め付けた。
一切衆生は我が子なり。それこそが仏教であり、慈悲深き仏様が罰を与えるようなことはない。
だが、そんな仏すら呆れ果て、見捨て、罰を与えるのが今の本願寺である。今の日本仏教である。そう断言しながら天狗は護摩の炎の中に消えた。
そして、天狗をその身に縛していた証如もまた。
「……父上?」
不自然なほどに消え失せた護摩炉の炎。骨の一片すら残さずに浄化された証如と天狗。それが信じられぬとばかりに顕如は護摩炉に近づき、炉の中の灰をかき集める。
「父上……」
なぜだか、分かる。
天狗の語った『帰蝶様』とは……かつて雑賀の郷に出向いた際、小舟ですれ違った銀髪の女性のことであろう。今現在本願寺を苦しめている『吉兆』のことであろう。
あの女のせいで火起請は失敗し、雑賀の協力が得られなくなった。
あの女のせいで大坂の地は干上がり、本願寺は今も苦しんでいる。
あの女の遣わした天狗のせいで、父上は命を落とした。
そう、すべては帰蝶が悪いのだ。
「……薬師如来の化身……帰蝶……。許さぬぞ……よくも父上を……!」
父を失った恨みをすべて帰蝶に向ける顕如。
そんな彼の姿を、虎寿はどこまでも冷たい目で見下していた。
虎寿。
後の名を、下間頼廉。
史実においては顕如の側近として奏者・軍事指揮官として活躍し――雑賀孫一と並んで『大坂之左右之大将』と称えられることになる男である。
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